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こもり  作者: 悠月
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物書き先生

この部屋には良きところがいくつかある。


まず、一つ。

ここは眠気を誘うには遠く、けれど足先までもほこりと温かい。

まるで婦人のようだとからかわれるのだが、木枯らしの吹く前から私の指先は死体のように凍えている。

かと言って暑さにもめっぽう弱い。

蝉でも鳴こうものならば、行水でもしたかのような汗みずく。

原稿用紙に斑点を描き、肝心要の文字をよじらせていく。

春秋だけ筆をとれば生活できるような身分でもあるまいに、私の体はとんと使い勝手の悪いものだった。

だから、この室温は大層私の好みなのだ。

羊水の中でぷかぁりと浮かぶ赤子はこんな気分なのだろうかと夢想する。

いやや、赤子には義務も義理もないのだからもう少し気楽だろうか。



一つ。

少々姿勢の悪い私の体にそぐう椅子、机。

私はほんの少しだと思っているのだが、細君からはいつも背を伸ばせとお叱りを受けるほどの悪さだ。

無理に伸ばせば、ほかに不具合が起きるのだから仕方があるまいに。

この椅子に座るようになってめっきり肩こりとは縁遠くなった。

時折、あの恐ろしく窮屈で耐え難い苦痛を懐かしんで、わざとおかしな体勢を取ってみるのだが、やはりあんなものと仲良くする必要はないのだと知る羽目になる。

けれど私は物覚えが悪いのだろう。

5回に1回は息詰まる態勢を取ろうとしてしまうのだ。



一つ。

机の引き出しに入っている万年筆。

愛しき祖父の万年筆だ。

たった一つ違うのはインクを補充する必要がないことだ。

美しい青をたたえた万年筆は祖父の節くれだった指によって魔法のように無限に文字をつくりだした。

繰り主が違えば、万年筆は思うように動かない。

つっかかった言葉のあとに、無意味にすべらかな円を描いては私は魔法使いのまねをする。

百回に一回は魔法使いの弟子を名乗れるかもしれないと最近思うようになってきたのだが、世間さまはそうは思ってくれないようだ。



一つ。

真黒な大きな猫。

頃合を見計らって現れる黒猫は、一撫ですれば喉を鳴らす。

時には額を押し付け撫でろと催促をする。

出歩けば、犬にほえられ、猫にはシャーと甲高い声で威嚇される私。

現実の世界で、私の膝に乗る猫にはいまだかつてお目にかかっていない。

ああ、いけない。

想像すれば愛らしい私の黒猫も途端に牙をむく。



一つ。

友に邪道だと罵られたミルクと砂糖たっぷりのコーヒー。

がぶ飲みができるよう冷えかけがよい。

コーヒーカップなんて洒落たものに出してくれなくてもよい。

湯呑でも、なんならどんぶりだって構わないのだ。

これまた得体のしれないものを見るような顔をして私を小ばかにするものもいるが、酒を升に盃に湯呑に茶碗に注ぐのだし、時には瓶ごとなんてことをするのだから珈琲にその自由を認めてくれたまえ。

まぁ、ここではどう飲んでも見咎めるものがないから気が楽だ。




まだまだ、あげればきりがない。

この心地よい空間をどうして手放せようか。






一つだけ難点があるとすれば、私の仕事が終われば、今までの心地よかったものがすべて淡雪のように消えてしまうことだ。

数枚の原稿用紙だけが、ひらりと手元に残る。

唯一私が持ち込んだ現世のもの。


「おや、物書き先生。お仕事は終わりましたか」


真黒の着流しの男がうっそりと笑う。

細い目の中には、黒い闇夜が渦を巻く。

女のように赤い唇がにぃと天を衝く。

耳元まで裂けたとて、私は別段驚かぬだろう。

男はそういった生き物なのだ。

人ではない。

人にあの夢の空間が作り出せるはずがないのだから。

望むものは何でもそろう。あの部屋。


「うん。あと一杯珈琲を飲みたかったんだけどねぇ」


「でも、物書き先生が仕事が終わったと思っちまったんでしょう?」


男は言った。

明確な線引きが必要だと。

私が仕事をする間だけ部屋をお貸ししましょうと。

仕事が終われば、はいさようなら。

あの居心地の良い世界は私を放り出す。


「まぁ、そうなんだけどねぇ。ここの珈琲はうまいんだかねぇ。家じゃミルクも砂糖もタダじゃないと怒られちまうし。酒もたばこもやらないんだ。ちょっとぐらいねぇ……」


「うふふ。ここだってタダじゃありませんぜ?」


「はいはい。わかっているよ」


私は皿に乗った菓子を差し出した。

あの夢の世界で作り上げたもので、唯一外に出せるもの。

それを私は男に差し出さねばならない。

雪化粧した山を象った美しい菓子。


「ほう、これは良いですねぇ」


「それにしても、菓子なんてねだるだんて子供のようだね」


「俺は、あの空間で作られたものしか口にできませんからね。自分で考え付くものなんぞ、たかが知れていましょう? 人の作り出す菓子の美しいこと。それに物書き先生は想像力が豊かですからねぇ。毎回おいしくいただいていますよ」


男は私の空笑いの意味を知らぬだろう。

私は想像上の菓子を作るために暇があれば菓子屋をのぞいた。

なにがし堂の新作が出たと聞けば細君を伴ってふらりとでかけ、手帳に菓子の絵と味を書き込んだ。

今世間では、私はめっぽう甘党で通っている。

砂糖入り珈琲以外の甘いものにさほど興味はないのだが……


「では、物書き先生。ごきげんよう」


それが合図。

瞬き一つの間に男も路地も消えてしまう。

見慣れた家の前で阿呆のように立ち尽くす私が残されるだけ。

男の名前もどこに棲んでいるものかも私は知らない。


必要な時が来れば、目の端をちらりと黒い着物が通り過ぎる。

はっと目で追えば、男の目が細くなり赤い唇が吊り上る。

「物書き先生。ごきげんよう」と細い指先が籠り部屋の鍵をそっと差し出すのだ。

私は未だその誘惑から逃れる術を知らない。

アレが人ではないと頭の隅では理解しているというのに。


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