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泥魚

作者: EsperMoyashi
掲載日:2026/06/03

 男は夜の道を歩いていた。

 月を背景に輝く雲の下、いつもよりもほんの少し暗い歩道を踏みしめる。

鈴蘭のように頼りない街灯の明かりは点々と、男を導くように続いている。

 交互に聞こえる虫とカエルの音を聞きながら、男は両手をポケットに押し込んで、親指の向く先に靴先を進ませる。

 なぜ、と誰かに問われたらきっと困ってしまう。男のポケットにはスマートフォンや財布にキーケース、必要最低限困らないだけの小物が入っている。男の外出理由は、何もかもが嫌になった自棄でも、妻のヒステリックに耐えかねた逃避でも、足りなくなった酒を買い足しに出かけるわけでもなかった。

 アスファルトの黒い路面を男の靴底が擦れる乾いた音だけが夜の静寂に木霊すると思いきや、エンジンを吹かしたバイクが背中を照らし、抜き去っていった。

 あのバイクは、どうしてあんなにも大きな音が出るのだろうと脈絡もなく思う。あの音は一種の楽器のようなものなのらしい。派手な頭をした若者が街角インタビューでそう答えているのをバラエティ番組で見たことがある。あのマシンに跨がれば、重低音のエンジン音が腹に響くのだろうか。

 自分があのバイクに乗っている姿を想像した男は情けない自嘲気味な笑みを浮かべる。転ぶ姿しか想像できなかった。

 いいなあ、と男は思う。音と風を全身で感じられたらさぞ気持ちいいのだろう。ジェットコースターとは違ってスピードも方向も自由自在ならきっと怖くない。それに伴ったリスクもあるだろうが、やはり、いいなあと思った。

 そんなことを考えながら歩いていると男は公園にたどり着いた。山に面した小学校のグラウンド2面分はありそうな広い公園だ。遊具も多く残っている絶滅危惧種的公園は昼間は多くの人々が訪れる。

 バドミントンで遊ぶ2丁目の若い夫婦、ボールを蹴り合う3丁目のアパートで暮らす父子。簡易テントで涼を取る町医者の奥さん。嬉しそうに飼い主をリードする犬も最近始めたらしい治療食がうまく効いているのか健康そうだった。

 そこは色んな家庭の幸せで満ち足りた在り方が具現化する場所だった。

 夜を除いては。

 藍色に飲み込まれた深海のような空気。その下に漂う海藻のような芝生。プランクトンのように飛び交う羽虫。

 ならば私はヌタウナギだなと男は思う。

 特に理由はない。強いて言うならその鈍くさそうな見た目や、泥臭そうな生態に親近感を感じたのかもしれない。

 ヌタヌタとした足取りで柔らかな芝生を突っ切ると大通りに出た。大声で騒ぐ4人くらいの若者たちと目を合わせないように、背中を丸めながらすれ違う。背後から聞こえる楽しげな声から察するに近所の大学に通う学生だろう。そう言えばそろそろ期末試験の時期だった筈だ。その打ち上げの帰りだろう。

 ほんの少しの恐怖心と、微笑ましさを感じながらポケットからワイヤレスイヤホンを取り出して耳にはめる。蚊の鳴くような声で小さく指示を出すとワイヤレスイヤホンは機械的に了承を告げた。しかし、一向に音楽は始まらない。

 痺れを切らした男がスマホを開くと、液晶からの光が男の目を鋭く突いた。

 時刻は「1:30」。よい子は寝る時間だが草木と悪い大人が眠るには早すぎる時間。

慣れた手つきで音楽アプリを起動するとアニメ映画の主題歌が耳元で流れ始めた。

 先程までヌタウナギだった男はすっかりミュージックビデオの主人公気分に切り替わるが、それも長くは続かない。伸びた背筋も人とすれ違う度に丸まっていく。

 すっかり背中が丸まってしまう頃、アスファルト貼りだった歩道はレンガ造りのおしゃれな道になっていた。自転車を利用する人が多い住宅地に入ったためか、歩道と自転車道が分かれている。

 どっちが歩道かいつも迷うので男は標識を2度3度確認しながら耳からワイヤレスイヤホンを外す。先週のこの道で、坂を下る高校球児に轢かれかけたことを思い出した。

 黒板を引っ掻くようなブレーキ音を思い返すだけで背筋が凍る。怪我なく今も歩けているのは男の反射神経の賜物ではなく、高校球児の運動神経の賜物だ。前方不注意で轢かれかけた事実はさておき、うまく回避してくれたことには感謝してもしきれない。今日を逃したら後悔してもしきれなかったことだろう。

 ようやく目的地にたどり着いた男はスマホを開き、SNSの投稿を確認する。

 目の前にあるのは明かりの消えた静謐で上品な一軒家。夫婦共に公務員。子どもは2人。飼い犬一匹。長女は中学生でありSNSのアカウントを持っているようだが、ネットリテラシーをしっかりと理解している。対して、母親は駄目だ。自己顕示欲が隠しきれていない。一昨日の献立から、昨日からの旅行まで、誰に聞かれてもいない情報を自発的に、不特定多数に垂れ流していた。

 男はSNSのタイムライン通り、無人になった獲物を見定める。抑えきれない興奮から静かに笑みだけを零し、その勝手口から闇の中へと静かに潜り込んでいった。


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