第8話:裸の付き合いは大事
それから数日後のこと。
『陽だまり相談所』の扉が、おそるおそる叩かれた。顔を出すと、そこに立っていたのはトーマスだった。彼は少し緊張した面持ちで、私に「相談したいことがあるんだ」と切り出した。
応接間のソファに座った彼は、ぎゅっと拳を握りしめている。
「あのね…今、新しい薬の調合に取り組んでるんだ」
「へえ、すごいじゃない!」
「うん。アルモニエ名物の温泉の効能を、さらに高めるための入浴剤なんだけど…」
トーマス君は、そこで言葉を詰まらせた。その表情は、期待よりも不安の方がずっと大きいみたいだった。
「調合が、どうしても上手くいかなくて…。師匠は口数が少ない人で、具体的なヒントをくれるわけじゃない。僕、なんとかこの仕事をやり遂げて、師匠に認めてもらいたいんだ。一人前の薬師になって、町の人々の役に立ちたい。でも…」
彼の声が、どんどん小さくなっていく。
「僕には、才能がないのかもしれない…」
俯いてしまったトーマスの姿に、私は思わず立ち上がっていた。
「そんなことないよ!」
私の大きな声に、トーマスがびくりと肩を揺らす。
「トーマスはすごく真面目だし、すごく一生懸命じゃない! 才能がないなんて、絶対にそんなことない! きっと立派な薬師さんになれるって!」
私の言葉に、トーマスの瞳が少しだけ潤んだように見えた。
その時、書斎からおじいちゃんが、静かに現れた。私たちの会話を、聞いていたらしい。
「リオナの言う通りじゃな」
おじいちゃんは、いつもの穏やかな笑顔で私の隣に腰を下ろした。
「焦りは禁物じゃ。誠実な努力は、必ず誰かが見てくれている。特に、お主の師匠のような職人気質の人間は、言葉には出さずとも、弟子の努力をしっかりと見抜いておるものじゃよ」
おじいちゃんは、トーマスが持参した調合メモを、老眼鏡の奥から静かに覗き込んだ。そして、テーブルに置かれたいくつかの素材のサンプルへと視線を移す。
「ふむ…この『火蜥蜴の鱗粉』は確かに温泉の熱を高めるが、この『安息草』の持つ癒やしの魔力とは、いわば水と油。効能は高いが、お互いに強く反発し合う。これを力ずくで混ぜ合わせようとすれば、効能が打ち消し合うか、最悪の場合、予期せぬ毒性を生むこともある。発想は間違っておらぬが、工夫が必要じゃ」
おじいちゃんはそう言うと、書斎から一冊の、革の表紙が擦り切れた分厚い古書を持ってきた。それは古代語で記された、異種素材の調合に関する書物だった。
「これによれば、『反発し合う二つの力の間に、清らかなる緩衝を置け』とある。そのためには……、おっと、わしがお主に伝えられるヒントはここまでじゃ。あとはお主自身で考えてみなさい」
トーマスは、まだ不安そうに唇を噛んでいる。
「清らかなる緩衝ですか……。やっぱりレーンフォルト先生も、答えをくれないんですね……」
と弱々しく抗議したものの、
「簡単に手に入れた答えは、身にならん。苦労して見つけ出した答えこそが、本当にお主の力になるんじゃ。お主の師匠もきっとそう考えておる」
そして、立ち上がったおじいちゃんはトーマスの肩に、皺の多い温かな手を置いた。
「焦りは禁物じゃ。日々の積み重ねこそが、いずれ誰にも真似できぬ、お主だけの『才能』という花を咲かせることになるんじゃよ」
彼の大きな瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。でも、それは絶望の涙じゃないのがわかった。
「はい…! はい…!」
トーマスは力強くうなずくと、勢いよく立ち上がった。
「ありがとうございます、レーンフォルト先生! リオナ! 僕、もう一度やってみます!」
そう言って深々と頭を下げて去っていくトーマスの後ろ姿を見送り、私は背伸びをしながらおじいちゃんに言った。
「トーマスが新しい入浴剤の調合に成功したら、一緒に温泉に入りに行こうね! おじいちゃんの腰にもいいかもよ」
「そうか、それは良い考えじゃな」
おじいちゃんは穏やかにうなずいた。
◇
それから五日後のこと。トーマスが瑠璃色のガラス瓶を手に、息を切らしながら「で、できました!」と満面の笑みで『陽だまり相談所』に駆け込んできた。ついに入浴剤が完成したとのことで、私たちはさっそく、温泉施設へ向かうことにした。
道中、おじいちゃんが果物屋の店主と話し込んでいる間に、私は隣の露店に並んだ綺麗な髪飾りに目を奪われた。色とりどりのガラス細工が、日の光を浴びてきらきらと輝いている。
ちょっと試着させてもらおっと。
「お嬢さん、そちらの髪飾り、とてもお似合いですよ」
不意に、優しそうな声がすぐそばから聞こえた。振り返ると、人の良さそうな笑顔を浮かべた、左腕のない旅人然とした老齢の男性が立っていた。
「え、あ、ありがとうございます!」
「ふふ、いえいえ。娘が好きだった物に、よく似ていたものですから」
彼は懐かしむように目を細めると、私の背後に回り込み、「どれ、私が少し直してしんぜよう」と、私の髪にそっと手を伸ばしてきた。
その、指先が私のうなじに触れるか触れないか、という瞬間だった。
「リオナ、そろそろいくぞ」
少し離れた場所から、おじいちゃんの穏やかな声が飛んできた。
その声を聞いた途端、男性の動きがぴたり、と止まった。
「……っ!」
息を呑むような気配がして、私が「どうかしましたか?」と振り返ると、彼の顔から先ほどの人の良い笑みは完全に消え失せていた。信じられないものでも見たかのように、おじいちゃんのいる方を凝視し、その額には脂汗が浮かんでいる。
「い、いや……すまない。急用を思い出した」
彼はそれだけを絞り出すように言うと、私から逃げるように踵を返し、あっという間に雑踏の中へと消えていった。
「え、えぇ……? 変な人……」
駆け寄ってきたおじいちゃんに「今、誰と話しておったんじゃ?」と聞かれたけれど、私にも何が何だか分からず、首を傾げることしかできなかった。
その後、せっかくだからと誘っていたノエルと、温泉施設で合流した。脱衣所で、ノエルが少しはにかみながら服を脱ぐと、私は思わず「わあ」と声を上げた。彼女の下着は、パステルカラーの生地に小さな野花が刺繍された、とても可愛らしいものだったからだ。彼女が使うタオルにも、やっぱり可憐な小花の刺繍が施されていて、「ノエルらしいなあ」と心が和む。
「ノエルの下着、すごく可愛いね!」
「ひゃっ!?」と、ノエルは小さな悲鳴を上げて顔を真っ赤にする。
「み、見ないでください…!」そう言って、慌ててタオルで体を隠す姿は、まるで驚いた子猫のようだった。私はそんな可愛らしいノエルの手を取り、湯気立ちのぼる浴場へと足を踏み入れた。
女湯は、天井が高く開放的で、大きな岩がいくつも組まれた野趣あふれる造りだった。私はその広さに、
「わあ、広いね!」
と歓声を上げる。
「うん、お湯もすごく気持ちいいんだよ」
ノエルは勝手知ったるという様子で、空いている洗い場へと私を案内してくれた。何度もここに来ているようだ。そして女湯の広々とした岩風呂に浸かって、すっかりリラックスしてしまった。トーマス特製の入浴剤を入れたお湯は、まるで夜空を溶かしたような、美しい瑠璃色に染まっている。ふわりと立ちのぼる湯気からは、心を落ち着かせる安息草の爽やかな香りがして、いつもより心なしか肌触りも滑らかだ。体の芯からじんわりと温まっていくのが分かる。
「それにしても、トーマスさん、すごいです。こんなに素敵なものを作れるなんて」
ノエルが、ほんのり上気した頬で感心したように言う。
「本当にそうだよね! トーマスならやれると思ったよ!」
私も自分のことのように嬉しくて、胸を張って答えた。
すると、私の頭の上に乗っていたタオルの中から、小さな相棒が「きゅぴ?」と顔を出した。
「あら、フィー。あなたもお風呂に入りたいの?」
私がそう言うと、フィーは肯定するように「きゅぴ!」と一声鳴いて、ぱたぱたと羽ばたいた。その様子を見て、隣にいたノエルがくすりと微笑む。
私は洗い場から小さな木の桶を持ってきて、岩風呂のお湯を汲み、少しだけ水を足して、ちょうど良いぬるま湯にしてあげた。即席お風呂にフィーをそっと入れてあげると、その体は嬉しそうにぽかぽかと温かい光を放ち始めた。
「きゅぴ、きゅぴー!」
フィーは気持ちよさそうに鳴きながら、小さな羽でぱしゃぱしゃとお湯を弾いて水浴びを始めた。その光は、まるで喜んでいるかのように、柔らかく点滅している。
「ふふ、気持ちよさそうですね」 ノエルが、その光景に目を細める。
「うん。この子、綺麗な水が大好きだから。トーマスの入浴剤が入ったお湯は、特に気に入ったみたい」
私たちはしばらく、フィーの湯浴みを、微笑ましく眺めていた。
湯上がり処でおじいちゃんと待ち合わせると、私たちは腰に手を当てて、果汁入りの牛乳を一気に飲み干した。
「ぷはーっ、最高じゃのう!」
とおじいちゃん。
「うん、お風呂上がりの一杯は最高だね!」
と私。
隣でノエルも、ほんのりピンク色に染まった頬でこくんとうなずいている。
「トーマスの入浴剤、よかったね、おじいちゃん! いつもより体がポカポカするし、お肌もすべすべになった気がする!」
私が興奮気味に言うと、おじいちゃんは満足げにうなずいた。
「うむ。あれは見事な出来栄えじゃ。わしの腰も、ずいぶん楽になったわい」
「香りもとても良くて、心が安らぎました。トーマスさんは、素晴らしい薬師さんですね」
と、ノエルも嬉しそうに微笑む。ノエルの言葉に、私も力いっぱいうなずいた。
「うん! 諦めずに頑張ってたもんね。友達として、すごく誇らしいよ!」
「誠実な努力の賜物じゃな。あやつは、良い薬師になるじゃろ」
おじいちゃんは、静かに言った。
その言葉が、なんだか自分のことのように嬉しくて、私の胸も温かくなった。
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