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第7話:私は『あれ』より速いらしい

朝の支度を終えて階下に下りると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。匂いの元は、テーブルの上に山と積まれた、焼きたてのパンだった。そしてその横には、腕を組んで仁王立ちしているパン屋『麦の穂』の主人カミラがいた。


「カミラさん、おはよう! どうしたの、こんなにたくさん!」


「おはよう、リオナちゃん! どうしたの、じゃないわよ。あなたたちのおかげで、うちの酵母ちゃんは絶好調! 昨日は開店前から行列ができたんだから! これはそのお礼よ!」


カミラはガハハと豪快に笑った。その笑顔は、いつ見てもこっちまで元気にしてくれる。


「それにしても、大したもんよねぇ」

カミラは感心したように腕を組み、私とおじいちゃんを交互に見た。

「あなたたち、どんな悩みでも聞いてくれるって、もう町中の評判になってるわよ! 畑仕事を手伝ってくれたとか、外せなくなった指輪を魔法で外してくれたとか、井戸水の味が日によって違う原因を突き止めてくれたとか。私も聞いて感動したよ。まさか井戸の水があんな仕組みになってたなんて……。今じゃ『陽だまりの賢者様と、看板娘ちゃん』なんて呼んでるくらいさ!」


「ひ、陽だまりの賢者!?」

「か、看板娘ちゃん…!」


思わず、おじいちゃんと顔を見合わせてしまう。なんだかすごい二つ名がついていて、すごくくすぐったい。でも、町の人たちが私たちをそんなふうに親しみを込めて呼んでくれているんだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「ありがとう、カミラさん。そのパン、今日の昼食に早速いただくね!」

「あいよ! それじゃあね!」

嵐のようにやってきて、嵐のように去っていくカミラを見送った後、私は「よし!」と気合を入れた。


「おじいちゃん、私、市場に行ってくるね! 新しいハーブがないか、見に行きたいの」

「うむ。気をつけていくんじゃぞ」


優しい笑顔で見送ってくれるおじいちゃんに「いってきまーす!」と大きく手を振り、頭の上のフィーも「きゅぴー」と私の真似をして手をぶんぶんとふって、私たちは元気よく相談所を飛び出した。



アルモニエの市場は、今日も活気に満ち溢れていた。

石畳の道はたくさんの人でごった返し、色とりどりの野菜や果物を並べた露店からは、威勢のいい呼び込みの声が飛び交っている。遠い異国から運ばれてきたらしいスパイスの刺激的な香り、そして人々のおしゃべりや笑い声。その全てが混じり合って、町全体の生命力になっているみたいだった。

私もその賑わいに心が弾んで、あちこちの店を覗きながら、目当てのハーブを売っている店を探す。

その時だった。


「きゃあああ!」


市場の広場の方から、突然、甲高い悲鳴が上がった。人々の陽気なおしゃべりが一瞬で止まり、何事かと視線がそちらへ集中する。


「馬だ! 馬が暴れてるぞ!」


誰かの大声と同時に、ドドドドッという重いひづめの音が地面を揺らした。見ると、荷馬車に繋がれた一頭の大きな馬が、目を血走らせて暴れている。荷台から荷物が派手に崩れ落ち、周囲の人々はパニックになって逃げ惑っていた。

その馬のすぐ先に、小さな男の子が一人、恐怖で立ち尽くしているのが見えた。お母さんが必死に叫んでいるけれど、男の子は足がすくんで動けないみたいだ。

暴れ馬が、その子に向かって真っ直ぐ突っ込んでいく。


まずい!


そう思った瞬間、私の意識だけが、急速に研ぎ澄まされていく。


市場の喧騒けんそうが嘘のように遠のき、人々の驚愕の表情が、まるで絵画のように止まって見えた。ゆっくりと迫る馬の蹄、恐怖に固まる男の子の瞳。その全てが、気が遠くなるほどゆっくりと流れていく。


(――間に合う)


私は、止まった時間の中を散歩でもするように、ゆっくりと駆け出した。男の子の腕を掴み、その体を抱きかかえ、安全な露店の陰まで移動する。


時間が、再び動き出す。

私のすぐ横を、馬の巨体が轟音ごうおんと共に駆け抜けていった。私たちがいたはずの空間には、ただ一筋の風が残るだけだった。


「だ、大丈夫、坊や?」

「う、うん…」


腕の中で震えている男の子をそっと地面に下ろすと、すぐに血相を変えたお母さんが駆け寄ってきて、泣きながら息子を抱きしめた。


「あ…ああ…! 何が起きたのか…。確かにこの子は馬にかれそうになって……。でも、この子がここにいるのは、きっとあなたが助けて……。あ、ありがとうございます…! 本当に、なんとお礼を言ったら…!」


「いえ、大したことじゃ…」


私がほっと胸をなでおろしていると、そこに一人の少年が息を切らして駆け寄ってきた。癖のある金髪を振り乱し、そばかすの浮いた顔を真っ青に染めていた。


「ご、ごめんなさい! 僕のせいで…!」


彼は深々と頭を下げた。どうやら、馬に関わっていた人物らしい。やがて、町の自警団の人たちが駆けつけてきて、馬はようやく取り押さえられた。大事には至らなかったみたいで、市場にも少しずつ落ち着きが戻り始める。


少年は、馬の飼い主であるおじさんに、何度も頭を下げて謝っていた。


「本当に申し訳ありませんでした! 僕が渡した薬のせいで…」


話に聞き耳を立ててみると、どうやらこの少年は、トーマス・コールマンという薬師見習いで、気性が荒くなった馬を落ち着かせるための薬草を調合して渡したらしい。でも、その薬を飲んだ馬は、逆に興奮して暴れ出してしまった、ということみたいだった。


トーマスは、飼い主のおじさんにさんざん叱られた後、一人でしょんぼりと肩を落としていた。白衣はよれており、あちこちに薬草らしき染みがついていた。その背中が、なんだかすごく小さく見えて、放っておけなかった。


私はそっと彼に近づいて、声をかけた。


「あの…大丈夫?」

「あ…君は、さっき子どもを助けた…」


トーマスは、私の顔を見て気まずそうに俯いた。


「本当にごめん。僕が未熟なせいで、君を危ない目に遭わせちゃった…」

「ううん、私は平気だよ! それより、何があったの?」


「鎮静作用のある『セレニティ・リーフ』を飲ませたら、なぜか馬が興奮しちゃって…」


「あ、『セレニティ・リーフ』かぁ」

私は、おじいちゃんが話していたことを思い出した。

「その薬草、少し扱いが難しいよね。単体で使うと、感受性の高い動物には逆に興奮作用が出ちゃうことがあるんだって。だから、『ムーンライト・ハーブ』っていう、穏やかな成分のハーブと合わせると、薬効が安定するらしいよ!」

そう言って私が指さしたのは、近くの薬草屋の店先に並んでいた、銀色がかった葉を持つハーブだった。

私の言葉に、トーマスは「えっ」と顔を上げた。そして、信じられないというように、私とハーブを何度も見比べる。

「ほ、本当かい? そんなこと、薬師の教本にも載ってなかった……! でも……、そうか、確かに『ムーンライト・ハーブ』なら……。君、どうしてそんなことを…?」

「えへへ、うちのおじいちゃん、物知りでね。薬草のことも、すごく詳しいんだ!」


私は得意になって胸を張る。トーマスは、私の知識に心から驚いているようだった。そして、その表情が、少しずつ尊敬と感謝に変わっていくのが分かった。


「ありがとう! 教えてくれて!」


これが、私と、薬師見習いトーマスとの出会いだった。私たちは薬草のことや、お互いの師匠(私にとっては、おじいちゃんだけど)のことなんかを話して、すっかり打ち解けたのだ。


本話をお読みいただき、誠にありがとうございます。本作は書籍化を目指しており、少しでも「面白い」と感じていただけましたら、ブックマークやページ下の評価(☆☆☆☆☆)で応援いただけますと、大きな励みになります。どうぞ作品を育てていただきますよう、よろしくお願いいたします。第一部完結まで、毎日朝7時頃に更新します。

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