第6話:初めての……
昨夜の、胸の奥に落ちた小さな影。
勇者候補としての未来を思うと、今も少しだけ心がちくりと痛む。でも、ベッドから見える朝の光が「いつまでもくよくよしてちゃダメだよ」って言っているみたいで、私は「うん!」と一つうなずいて、勢いよく布団を蹴った。
陽だまり相談所の庭も、私の手によってずいぶんと賑やかになってきた。お茶用のハーブ、お薬用のハーブ、料理用のハーブ。それぞれの区画で、みんな元気に芽を伸ばしている。もっと仲間を増やしてあげたいな。そんなことを考えていたら、自然と足は町の中心にある市場の方へと向かっていた。
今日の目的は、町で唯一の花屋『フェアチャイルド花園』。珍しいハーブの苗が置いてあるかもしれないと聞いたからだ。
市場の活気ある広場に面した一角に、そのお店はあった。色とりどりの花々が、まるで「こっちだよ」と手招きするように店の外にまで溢れ出している。甘い花の蜜の香りと、生命力に満ちた土の匂いが混じり合って、思わず深呼吸したくなるくらい素敵な場所だった。
「こんにちはー!」
元気よく声をかけながら店に足を踏み入れると、花に囲まれたカウンターの向こうから、小さな影がぴょこんと動いた。
「い、いらっしゃいませ……」
そこにいたのは、私より少し年下くらいの、華奢な少女だった。ふんわりとした蜂蜜色の髪は肩にかかるくらいで、小さな野花が数輪、丁寧に編み込まれている。大きくくりくりとした褐色の瞳は、優しそうだけど、どこか怯えているみたいに揺れていた。私の視線に気づくと、小さな肩をびくりと震わせた。
「ハーブの苗を探しているんですけど、ありますか?」
「は、はい……あちらの棚に……」
少女は俯きがちにそう言うと、カウンターから出て、私を案内してくれた。その後ろ姿は、まるで音を立てるのを怖がっているみたいに、とても静かだった。
「わあ、たくさんあるんだね!」
棚には様々な種類のハーブが並んでいた。でも、それよりも気になったのは、案内してくれた彼女のことだった。その手はエプロンの裾をぎゅっと握っており、笑顔がなく、声も小さくて、なんだか今にも泣き出しそうに見える。
「あの……」
「は、はいっ」
私が声をかけると、彼女はまたびくりと肩を震わせた。そんなに驚かなくてもいいのに。
「なんだか元気がないみたいだけど、何かあったの?」
できるだけ優しい声で尋ねたつもりだったけど、彼女はふるふると首を横に振った。
「だ、大丈夫、です……」
そう言って、また俯いてしまう。その姿は、雨に打たれてしょんぼりしているお花のようで、見ていられなかった。きっと、何か悩みがあるんだ。陽だまり相談所の相談員として、これは放っておけない。
私は彼女の前にしゃがみ込んで、下からその顔を覗き込むようにして、にっこりと笑いかけた。
「私、リオナっていうの! 丘の上の『陽だまり相談所』で、おじいちゃんと一緒に、みんなの悩みを聞いてるんだ。だから、もし何か困ってることがあったら、私に話してくれないかな? 力になれるかもしれないよ!」
私の言葉に、彼女は驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。その潤んだ瞳が、私をまっすぐに捉えている。しばらくの沈黙の後、彼女の唇が、かすかに震えた。
「……本当に……?」
「うん、本当だよ!」
私が力強くうなずくと、彼女の瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。そして、小さな声で話し始めた。
「あの……私、ノエルって言います……。実は、この子が……」
ノエルが指さしたのは、カウンターの隅に置かれた、鳥かごだった。中には、手のひらに乗るくらいの小さな鳥がうずくまっている。その鳥は、全身が淡い翠色の光を帯びていて、普通の鳥じゃないって一目でわかった。でも、その光は今にも消え入りそうなくらい弱々しい。
「この子はフィー……。私の大事な友達なの。でも、最近、ずっと元気がなくて…。お医者さんに診てもらっても原因がわからなくて……。それに、さっきから、フィーが私に伝えてくるの。『苦しいよ~』って……。でも、私にはどうすることもできなくて……」
そう言うと、ノエルはまたぽろぽろと涙をこぼした。私は驚いて彼女の顔を見つめた。
「え……? 鳥の声が、聞こえるの?」
「……はい。昔から、動物さんの気持ちが、なんとなく分かるんです…」
その言葉に、私は思わず「そうなんだ!」と声を上げた。ノエルはびくりと体をすくませたけど、私は興奮を抑えられなかった。
「動物さんとお話しできるなんて、すっごく素敵だよ!」
私の言葉に、ノエルは信じられないというように、大きく目を見開いた。
その時だった。
「キュ……」
鳥かごの中から、か細い鳴き声が聞こえた。フィーがぐったりと横たわり、その体の光がさらに弱くなっている。
「フィー!」
ノエルの悲鳴が響く。まずい、このままだと本当に死んじゃうかもしれない!
私は考えるより先に、鳥かごに駆け寄って、その小さな体にそっと手を触れた。
「お願い、小鳥さん、元気になって!」
温かくて青白い光が私の手のひらから溢れ出て、フィーの体を包み込むのを感じた。これが私の勇者の力……。
フィーの弱々しい光が、少し力強さを取り戻したように見えた。でも、根本的な解決にはなっていない気がした。
「ノエル、この子、おじいちゃんに見せた方がいい! きっと、助けてくれる!」
「で、でも……お医者さんに見せてもダメだったのに……」
「うちのおじいちゃんは、すごいんだから! だから、お願い!」
私は必死に訴えた。私の真剣な目に、ノエルはこくりとうなずいてくれた。私たちはフィーの入った鳥かごをそっと抱えると、『陽だまり相談所』へと急いだ。
相談所の扉を開けると、書斎からおじいちゃんが「どうした、リオナ、そんなに慌てて」と顔を出した。
「おじいちゃん、お願い! この子を助けて!」
私が差し出した鳥かごを見て、おじいちゃんの穏やかな目が、すっと細められた。
「ほう、霊獣の幼体とは、これは珍しい」
おじいちゃんはフィーを鳥かごから出すと、その小さな体を優しく手のひらに乗せた。そして、そっと目を閉じ、何かを探るように集中している。
「なるほど……体内から微弱な『瘴気』を感じる。霊獣は清浄なマナを糧とする。人間よりも、こうした邪気には遥かに敏感じゃからのう」
「そういえば……、フィーも言っていたの。『最近、この町の空気が、なんだかおかしくなってきた』って……」
おじいちゃんは薬棚から数種類の乾燥した薬草を取り出し、手早くすり鉢で調合し始めた。そして、出来上がった粉薬をわずかな水で溶くと、その一滴をフィーのくちばしにそっと垂らしてやる。さらに、おじいちゃんの手のひらが温かな光を放ち、フィーの体を優しく包み込んだ。
【プーリフィカティオ・ウィタリス(生命浄化)】
すると、さっきまでぐったりしていたフィーの体が、みるみるうちに輝きを取り戻していく。弱々しかった翠色の光は、まるで若葉のような生き生きとした輝きに変わった。
「キュピ!」
元気な鳴き声と共に、フィーはぱっと飛び立つと、私たちの頭の上をくるくると楽しそうに飛び回り始めた。
「あ……フィーが……元気になった……!」
ノエルは、その光景に涙を流しながら、へなへなとその場に座り込んでしまった。私も、心からほっとして、胸をなでおろす。
「うむ。じゃが、根本的な原因が瘴気であるならば、今後も安心というわけにはいくまい」
「おじいちゃん、どういうこと?」
私の問いかけに、おじいちゃんは厳しい顔で、しかし私たちに言い聞かせるように優しく答えた。
「この町の空気には、ごくわずかじゃが、生命力を蝕む『瘴気』が漂っておる。以前、この町に来たときは瘴気などまったく感じなかったのじゃが……。霊獣のような清浄な存在は、わしら人間よりも、その影響を遥かに強く受けてしまうのじゃ」
そして、おじいちゃんは静かに告げた。
「しばらくは、リオナがこの子のそばにいてやった方がよかろう」
私とノエルの戸惑いを読み取るように、おじいちゃんは続けた。
「リオナ。お前には周囲の瘴気を浄化する力がある。この子が一番安全に暮らせるのは、おそらくお前のそばじゃろう」
「えっ、じゃあ……」
「しばらく、この相談所で預かってやるのがいいじゃろう」
おじいちゃんの提案に、私とノエルは顔を見合わせる。ノエルの肩が、ほんの少しだけ揺れた。彼女の視線が、元気にはしゃぐフィーと、自分の手元を寂しそうに行き来する。
ノエルは、寂しさをこらえるように小さく微笑むと、フィーに向かって優しく声をかけた。
「フィー、またすぐに会いに来るからね。だから、リオナちゃんのそばで、元気でいてね」
彼女はまっすぐに私に向き直ると、晴れやかな声で言った。
「リオナちゃん、どうかフィーをよろしくお願いします」
ノエルは何度も頭を下げ、少しだけ躊躇うように、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。
「あの……私、昔から、動物さんたちの気持ちが、少しだけ分かるんです……。でも、前にいた村では……みんな、そのことを、『気味が悪い』『あっちいけ』『悪魔の子だ』『呪われている』って…すごく、辛くて……」
エミリーは俯き、声を震わせながら続ける。
「それが怖くて……誰にも本当のことは言えませんでした。また、変に思われるのが嫌だったから……。だから、いつの間にか、人とどう話していいのか分からなくなって……。私、ずっと……誰にも心を開けなくて……」
俯いたエミリーの拳に、ぽつりと涙が落ちた。その震える姿に、私の胸がぎゅっと痛くなる。やがて、彼女は潤んだ瞳でまっすぐ私を見つめ返してきた。
「だから……リオナちゃんが、私のことを『素敵だ』って言ってくれて……本当に、嬉しかったんです……」
その言葉に、胸がきゅっとなる。こんなに優しくて、素敵な力なのに。
「気味が悪いだなんて、誰が言うの! そんなの、絶対におかしいよ!」
私がそう言うと、ノエルは驚いたように顔を上げた。
「ノエルのその力は、とっても優しくて、温かい力だよ。私、大好きだな! ノエル、私と友達になってくれる?」
私の言葉に、彼女は、今日初めて、花が咲くような、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
「……はいっ!」
こうして、私に初めての友達ができた。そして、陽だまり相談所には、フィーという、光る小さな新しい家族が増えたのだった。
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