第4話:誰にとっても、やっぱり形見って大事
カミラがもたらしてくれたパンの山は、数日かけてわしとリオナの胃袋にきれいに収まった。彼女のパンは、酵母が元気を取り戻したからか、やはり力強い生命の味がした。陽だまり相談所には、カミラが言いふらしてくれたおかげか、少しずつ、依頼が訪れるようになっていった。
そんな、ある日の昼下がり。穏やかな陽光が書斎の床に金色の四角形を描いていた頃、相談所の扉が、今度はか細く、すがるような音で叩かれた。
リオナが元気よく「はーい!」と応じて開けた扉の向こうに立っていたのは、今にも泣き出しそうな顔をした一人の老人だった。歳の頃は、わしより上だろうか。深く刻まれた皺の一つ一つに、苦労と、そして今は深い悲しみが滲んでいた。
「あの…相談所というのは、こちらでよろしかったかな…?」
震える声で尋ねる老人に、リオナはいつもの太陽のような笑顔を少しだけ潜め、心配そうな顔でうなずいた。
「はい、そうです。どうぞ、中へ。何かお困りごとですか?」
リオナに促され、老人はおぼつかない足取りで応接間のソファに腰を下ろした。その痩せた手は、膝の上で所在なげにさまよっている。わしが淹れたばかりのハーブティーを差し出すと、老人は震える手でカップを受け取り、一口もつけずにテーブルへと置いた。
「わしの宝物なんじゃ…」
絞り出すような声だった。
「亡くなった妻の形見の髪飾りを、なくしてしまって…。どこを探しても見つからんで、もうダメかと思って…」
老人はそこまで言うと、声を詰まらせてしまった。その姿にわしの胸も締め付けられる。長年連れ添った伴侶を失う痛みは、わし自身もよく知っている。その人が遺してくれたささやかな品が、どれほどの重みを持つのかも。
隣に座ったリオナの青い瞳が、潤んでいるのが見えた。彼女は老人の手にそっと自分の手を重ねた。
「大丈夫です、きっと見つかります。私のおじいちゃん、とっても物知りで、魔法も使えて、何でもできちゃうすごいおじいちゃんなんです。ねっ!?」
と、絶対の信頼を込めたキラキラした瞳でわしを見上げてくる。
こう言われては、なんとか応えねばなるまい。
「お気持ち、お察しします。まずは落ち着いて、ゆっくりお話を聞かせていただけますかな。最後にその髪飾りを見たのは、いつ頃ですか?」
わしは静かに問いかけたが、老人はひどく動転しているらしく、記憶は曖昧で要領を得なかった。
「昨日の昼過ぎに散歩に出かけて…市場を通って…ああ、どこで落としたのか、さっぱり…」
老人はそこまで言うと、ふと遠い目をした。その皺だらけの顔に、懐かしむような、それでいて痛みをこらえるような表情が浮かぶ。
「…その髪飾りはな、わしがまだ若く、貧しかった頃に、なんとか貯めたなけなしの金で、ようやく贈ることができたもんなんじゃ。妻はな、どんなに苦しい時でも、文句一つ言わずに、いつも笑顔でわしを支えてくれた…」
と同じ言葉を繰り返すばかりだった。
これでは、闇雲に探しても見つかる可能性は低いだろう。わしは小さく息をつくと、意を決して老人に提案した。
「…少しだけ、あなたの記憶を覗かせてもらってもよろしいかな?」
「記憶を…覗く?」
老人が、怪訝そうな顔でわしを見返す。無理もない。王都ならいざ知らず、こんな田舎町で高度な精神干渉系の魔法に出会うことなど、まずあるまい。
「ご安心を。害のあることではございませぬ。あなたの心に少しだけ同調させていただくだけです」
わしはそう言って、ゆっくり立ち上がると、老人の前に屈んだ。そして、皺の刻まれたその額に、そっと右の手のひらをかざす。
「さあ、思い出してみましょう。昨日のあなたが歩んだ道を…」
意識を集中させ、呪文を紡ぐ。
【イマーゴー・プラエテリタ(追憶再現)】
わしの魔力が老人の精神へと流れ込み、その記憶の断片と共鳴する。やがて、相談所の空間に、淡い光の粒子が集まり始めた。それは徐々に輪郭を結び、昨日のアルモニエの町の風景を映し出した。
「すごい…」
リオナが息をのむのが分かった。
ただ、映像はやや不鮮明で、ところどころ光の粒子が乱れており、断片的だった。老人が歩んだ石畳の道、市場の喧騒、行き交う人々の笑顔。その一つ一つが、淡い光となって目の前に現れ、そして消えていく。
わしは映像に集中し、老人が髪飾りを落とした瞬間を探す。だが、決定的な場面はなかなか現れない。記憶そのものが混乱しているせいで、映像も安定しないのだ。
とその時、リオナが「あっ」と短い声を上げた。
「おじいちゃん、今、市場の花屋さんが映った! それと、その後の公園のベンチ! なんだか、そこだけ他の場所より鮮明に映ってるよ!」
彼女が指さした先には、確かに花屋の軒先と、広場に面した公園の木製のベンチが映り込んでいた。
「よし、行ってみよう」
わしらは映像を手掛かりに、相談所を出て、活気ある市場を抜け、花屋の前を通り過ぎる。老人は「ああ、確かにここを通った…」とうなずいている。そして、町の中心にある小さな公園へと向かった。
公園には、子どもたちの楽しげな声が響いていた。リオナが指し示した、大きな木の下にあるベンチ。わしらはそこへ駆け寄った。
「あった!」
ベンチの下を覗き込んだリオナが、歓声を上げる。彼女の手のひらには、少し土で汚れてはいるが、銀細工に小さな青い石があしらわれた、美しい髪飾りが握られていた。
「おお…! ああ、よかった…!」
老人は髪飾りを受け取ると、それを胸に抱きしめ、はばかることなく涙を流した。何度もわしらに頭を下げ、震える声で感謝の言葉を繰り返す。
その姿を見ながら、わしは無意識のうちに、自身の首にかけられたペンダントにそっと触れていた。妻エリアーナの形見である、小さな魔石のペンダントだ。彼女の温かな魔力が、今もこの石には宿っている気がする。
「本当によかったですね」
リオナが心から嬉しそうに微笑んでいる。老人は涙を拭うと、わしらに深々と一礼し、宝物を取り戻した確かな足取りで去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、わしはリオナを促して、先ほどのベンチに腰を下ろした。
「おじいちゃん?」
不思議そうな顔をする孫娘の隣で、わしは目を閉じる。このベンチは、わしにとっても思い出の場所だった。まだ宮廷魔導師としての責務に明け暮れていた頃、体の弱い妻エリアーナを連れて、湯治のためにこのアルモニエを訪れたことがあった。その日も、今日と同じように穏やかな陽光が降り注ぐ、優しい午後だった。
◇
『ふふ…見てください、あなた。パン屋さんの煙突から、美味しそうな匂いが風に乗ってきましたよ。広場の子どもたちの声も、楽しそうに響いています。この町の時間は、なんと穏やかに流れているんでしょう』
隣に座ったエリアーナが、幸せそうに目を細めて言った。彼女の微笑みは、いつも陽だまりのように温かかった。
『そうだな、エリアーナ。いつか…全ての責務を終えたら、こんなふうに、お前と静かに暮らすのも悪くないな』
わしの言葉に、彼女はこくりとうなずいて、わしの肩にそっと頭を寄せた。
『ええ。その日を楽しみにしていますわ、あなた』
◇
その約束は、もう果たせない。だが、彼女が好きだったこの町の穏やかな時間を、これからはわしが守っていこう。そして隣には、彼女の面影を受け継ぐ、この愛しい孫娘がいる。
「おじいちゃん、どうしたの?」
リオナが、わしの顔を心配そうに覗き込んでいる。
「いや…なんでもない」
わしはペンダントを握りしめたまま、穏やかに微笑んだ。
「ただ、おばあちゃんも、このベンチから見る景色が好きだったな、と、ちと思い出してな」
過去を追憶する心は、穏やかで、そして少しだけ切なかった。だが、その切なさすらも、今のわしにとっては、かけがえのない宝物なのだ。わしが隣で首を傾げている孫娘の頭を優しく撫でてやると、「えへへ」と笑顔で声を漏らす。どうかこの娘の未来が、幸多からんことを……。
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