第3話:やっときた最初の相談者! 『元気になーれ』で解決って…え、本当!?
教会の鐘が、昼下がりの穏やかな時間を告げた。書斎で読んでいた古書のインクの匂いと、庭のハーブの爽やかな香りが混じり合い、心地よい微睡み(まどろみ)を誘う。そんな平穏を破ったのは、玄関の扉を叩く、少しだけためらいがちなノックの音だった。
とん、とん、と二度。
「はーい! どうぞー!」
わしが立ち上がるより先に、リオナの弾むような声が応接間から響いた。ぱたぱたと軽い足音を立てて、彼女が扉を開ける気配がする。わしもゆっくりと腰を上げ、書斎から顔を覗かせた。
そこに立っていたのは、恰幅が良く、力仕事で鍛えられたであろう太い腕をしている女性だった。いつも身に着けているのか、エプロンには白い粉がうっすらと付着していた。その快活そうな見た目に反して、どこか緊張した面持ちで辺りを見回している。
「いらっしゃいませ! 陽だまり相談所へようこそ!」
リオナは、見知らぬ相手にも物怖じしない満面の笑みで出迎える。その屈託のなさに、女性の肩から少しだけ力が抜けたのが見て取れた。
「こんにちは。その…ここでは悩み事を聞いてくれるんだって?」
「ええ、そうですとも。さ、こちらへどうぞ」
わしは応接間へと進み出て、穏やかに微笑んでみせる。リオナは心得たもので、すぐにキッチンへ向かい、わしがブレンドしたリラックス効果のあるハーブティーの準備を始めた。優しい香りが、ふわりと空間に漂う。
女性は勧められたソファに、少し遠慮がちに腰を下ろした。その手は、膝の上で固く握られている。
「ようこそおいでくださいました。わしはアルセイン・レーンフォルト。こちらはこの相談所のもう一人の相談員で、孫のリオナです」
わしが名乗ると、女性ははっとしたように背筋を伸ばし、慌てて頭を下げた。
「これはご丁寧にどうも! あたしは、この町で『麦の穂』っていうパン屋をやってるカミラ・ベルクって言います」
「ほう、『麦の穂』の。いつも市場の入り口で、活気のある声を響かせておられますな」
わしの言葉に、カミラ殿は「へへ、それだけが取り柄なんで」と少し照れ臭そうに頭を掻いた。やがてリオナが運んできた温かいハーブティーのカップを手に取ると、彼女はようやく少し落ち着いたのか、意を決したように顔を上げた。
「すみません、先生。先生は少し魔法が使えるって、聞いて。こんなことで頼るのは筋違いだとは思うんですが…、もう他に頼れるところもなくて…」
「わしはもう隠居したじじいですが、少しばかり魔法に心得があります。どんな些細なことでも、お気になさらず」
しかし、それでもまだカミラは言いにくそうに、
「でも……、ほら、魔導士には、いろいろ物騒な噂があるじゃないですか? なんでも、王都の、あの【王国最強】の首席なんたら魔導士様は『指をふるだけで山を真っ二つにした』とか『太陽を七個作れる』なんて話もあるじゃない? 私、それを聞いて以来、魔導士と会うのが怖くなっちゃって」
「ふぉっふぉっふぉ。それはまた、ずいぶん物騒な噂ですな」
わしは、わざとらしく指を左右にふってみせる。
「ふむ。今のところ、何も起きないようですな。どうやら、わしにはそのようなことはできないようです。ご安心くだされ」
そして、促すように言った。
「そんなことより、カミラ殿の悩みをお聞かせいただけますかな?」
その言葉で、カミラの表情が真剣なものに変わった。
「実は…最近、どういうわけか、パン生地の発酵がどうにも上手くいかないんです。先祖代々受け継いできた、うちの大事な酵母の元気がなくなっているような気がして…」
「まあ…」
隣に座ったリオナが、眉を寄せて心配そうな声を上げた。
「毎日心を込めて作っているパンが上手くいかないなんて、悲しいですね…」
その言葉には、カミラの悔しさに寄り添う、深い共感がこもっていた。カミラはリオナのその一言にうなずき、
「ええ、そうなのよ、リオナちゃん。うちのパンはみんなが『美味しい』って言ってくれる自慢のパンなの。気候のせいか、材料か、他にも色々と試したんだけれど、どうにも…それが本当に悔しくて…」
わしは静かに耳を傾け、彼女が話し終えるのを待ってから口を開いた。
「ふむ…なるほど。よろしければ、その酵母を少し見せてもらってもよろしいかな?」
カミラは驚いた顔をしたが、すぐに「はい!」とうなずき、小さな麻袋から蓋のついた陶器の壺を取り出した。ずっしりと歴史の重みが感じられる、年季の入った壺だ。
わしはそれを受け取ると、そっと目を閉じた。意識を集中させ、指先から蜘蛛の糸よりも細い魔力の糸を紡ぎ出し、壺の中へと通わせる。そして唱えた。
【インスペクティオ・アニマエ(生命力鑑定)】
わしの脳裏に、壺の中に眠る無数の小さな生命体が放つ光が映し出される。だが、その光はあまりにもか細く、今にも消え入りそうだ。まるで、風の前の灯火のように揺らめいている。
わしはそっと目を開け、
「これは病気などではなく、酵母の生命力そのものが弱ってしまっておる。怪我や病気ではないため、老化と同じで治癒魔法の類では解決できぬ問題ですな」
わしのその言葉に、カミラの肩ががっくりと落ちた。
「そんな……。先生の魔法でも、ダメだなんて……」
最後の望みが絶たれたかのように、彼女の声は力なく震える。わしは、彼女の誤解を解くように、穏やかに首を横に振った。
「カミラ殿。あくまでこれは、わしが使うような『魔法』では解決できぬ問題、ということです。まぁ、無理をするとできないこともないのじゃが、世界の理を少しばかり歪めることになります。酵母のために世界の法則を捻じ曲げるのは、さすがにやりすぎでしょう? そこでじゃが……」
わしはそう言うと、隣で固唾をのんで成り行きを見守っていたリオナに、その壺を手渡した。
「リオナ。酵母が元気になるように、強く念じてごらん」
「え? 私が?」
リオナは不思議そうな顔で、きょとんと目を丸くした。しかし、わしの真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、こくりとうなずくと、大切なものを抱きかかえるように壺を胸元でぎゅっと抱きしめた。
「元気になーれ、美味しくなーれ…」
その唇からこぼれるのは、子どもがおまじないを唱えるような、純粋で素朴な祈りの言葉。
その瞬間だった。
リオナの手のひらから、ふわりとかすかな青白い光が放たれ、壺全体を優しく包み込んだのだ。それは、まるで月の光のような、清らかで神々しい光。これこそ【清浄なる波動】。
(やはり、この子の中には、計り知れない力が眠っておる… )
わしは満足げに静かにうなずくと同時に、この大いなる力が、いつか彼女自身を過酷な運命へと導くのではないかという、一抹の不安を覚えた。
やがて光が収まり、わしはリオナから壺を受け取る。
ふむ、これで酵母はひとまず生命力を取り戻したはずじゃ。だが、どうにも妙じゃな。弱り方が、自然な衰えによるものとは思えん。これだけでは足りぬ気がする。
ならば……。
わしは、壺を返す前に、そのざらついた陶器の表面を、人差し指でそっと撫でた。指先にわずかな魔力を集め、ごく小さな守りの紋様を刻み込む。
【シグヌム・クストーディアエ(守護の印)】
わしの指が離れると、紋様は一瞬だけ金色の光を放ち、すうっと消えていった。これで、外部からの邪気をある程度は遮断できるはずじゃ。
わしは、何が起こったのか分かっていないカミラへと、その壺を返した。
「おそらく、これで大丈夫じゃろう」
「え…? あの、先生…?」
狐につままれたような顔のカミラに、わしはただ穏やかに微笑みかけるだけだった。彼女は半信半疑のまま、それでもわしとリオナに礼を言うと、首を傾げながら帰っていった。
そして、翌日のことである。
相談所の扉が、今にも壊れんばかりの勢いでバンッと開いた。
「先生! リオナちゃん! すごいわ!」
飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべたカミラだった。その腕には、抱えきれないほどの焼きたてのパンが抱えられている。香ばしい小麦の香りが、相談所いっぱいに広がった。
「今までの人生で一番ってくらい、最高に美味しいパンが焼けたのよ! 見て、この膨らみ! この艶! 本当に信じられないわ! ありがとう! 」
カミラはそう言うと、一番ふっくらと焼けたパンを一つちぎり、まだ熱気を帯びたそれをリオナに手渡した。わしにも一切れ、差し出してくれる。
「わ、ありがとう! それじゃあ、いただきます!」
リオナは温かいパンを大きく一口、頬張った。次の瞬間、その青い瞳が驚きに見開かれる。
「んー、おいしいーっ! こんなに美味しいパンは初めて! 王都で食べたどんなパンより、ずっとずっと美味しいよ!」
わしもそのパンを口に運ぶ。
「うむ、これは見事なものじゃ」
ただ美味いだけではない。酵母の一つ一つが、喜びに満ちて歌っているかのような、力強い生命力の味がする。体に力がみなぎるような、まさしく『生きているパン』じゃな。
「酵母もそうだけど、このパンが美味しいのはやっぱり麦のおかげもあるのよ。このあたりで取れる麦は特別で、王都のものよりも質がいいそうよ」
わしらの反応に、カミラは満足げにうなずくと、テーブルの上に、革袋に入った依頼料をぽんと置いた。
「先生、これはお約束の依頼料です。でも、本当に、これっぽっちじゃ感謝の気持ちは表しきれないわ!」
カミラは興奮気味にそう言うと、テーブルの上にパンの山を築いた。
そして彼女が嵐のように去っていった後、テーブルの上に積まれた温かいパンの山を見て、リオナは満足そうににっこりと微笑んだ。そして、わしに向き直ると、その青い瞳をきらきらと輝かせた。
「うまくいったね! さすがおじいちゃんだね!」
その屈託のない笑顔に、わしもまた、優しく目を細めてうなずき返すのだった。
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