第38話:まだ、68歳は、働けるよね?
ここからはしばらく、アルセイン視点です。
エルンストの攻撃から仲間を守り、力尽きた瞬間、わしの意識は、まるで深海の底へと沈んでいくかのように、どこまでも静かで、冷たい暗闇へと落ちていった。痛みも、重さも、もはやない。ただ、すべてから解放されたかのような、不思議な安らぎだけが、わしの魂を優しく包み込んでおった。
(これで、終わりか…)
それで、よい。わしは、もう十分に生きた。
わしの脳裏に、今は亡き妻、エリアーナの陽だまりのような微笑みが浮かぶ。
(ずいぶんと、待たせてしまったな。これでわしも、またお前と、静かに暮らせる)
そう、わしが安らかな眠りに身を委ねようとした、その時だった。どこまでも続いていた冷たい暗闇のただ中に、ふと、陽だまりのような、温かい光が灯った。その光の中から、一人の女性が、ゆっくりと姿を現す。 艶やかな亜麻色の髪。慈愛に満ちた、優しい瞳。そして、わしが何よりも愛した、穏やかな微笑み。在りし日のままの、美しい姿だった。
「エリアーナ…?」
また、お前に会えた…。心の底から、どうしようもないほどの喜びが、泉のように湧き上がってくる。わしの唇から、かすれた声が漏れる。
「そうか、わしもとうとう逝く時が来たか…。長かったな。…これでわしも、お前とまた暮らせるな」
わしは、震える手を、彼女に向かって伸ばした。しかし、エリアーナはその手を、優しく、しかしきっぱりと制した。そして、少しだけ悲しそうな、それでいて、どこか叱るような眼差しで、わしを見つめてくる。
「あなたって人は、ちっとも変わりませんね。いつも理由をつけては休もうとするんですから」
予期せぬ言葉に、わしは戸惑った。
「エリアーナ…?」
すると、彼女は、ふっと花が咲くように微笑みかけた。
「ふふ。でも、そこがあなたの良いところだと、私は誰より知っていますよ。私の体のために、いろんなところに連れていってくれました。そう、アルモニエにも。…本当に、ここまでよく頑張りましたね、あなた」
その労りの言葉が、わしの胸の奥にじんわりと染み渡っていくようだった。だが、彼女はすぐに、真剣な表情に戻ると、静かに首を横に振った。
「でも、こちらに来るのはまだ早すぎます。リオナが、泣いていますよ」
その言葉と同時に、わしの耳に、確かに聞こえてきた。わしの名を呼び、泣き叫ぶ、愛しい孫娘の悲痛な声が。その声に、わしは、はっと我に返った。
「そうじゃった! エルンストはどうなった!? 皆は無事なのか!?」
わしが取り乱したように尋ねると、エリアーナは「ええ、大丈夫ですよ」と穏やかにうなずいた。
「あの子が、リオナが、見事に打ち破りました。あなたの旧友の、苦しみに満ちた魂を、力でねじ伏せるのではなく、その優しさで、解放してあげたのです」
「なんと…! あの状態のエルンストに、リオナが…。そうか、そうか! さすがは、わしらの孫じゃな!」
わしは、心の底から安堵し、そして誇らしく思った。
「あの子には、もう、わしがいなくても大丈夫じゃな」
「いいえ」
エリアーナの、凛とした声が、わしの言葉を否定した。
「リオナには、まだあなたが必要です。いくら肉体的に強くなったとしても、あの子はまだ子どもです。それに、勇者の力は、これからあの子に、さらなる過酷な運命を強いることになるでしょう。一人でしっかりと立てるその日まで、あなたが、その知恵と経験で、あの子を見守ってあげなくてどうするのですか。それが、今のあなたの役目でしょう?」
その言葉は、何よりも強く、わしの魂を揺さぶった。そうだ。わしは、まだ死ねぬ。あの子を一人にはしておけぬ。
「そうか……、そうじゃな。おじいちゃん失格じゃ」
わしは、自嘲気味に笑い、そして、エリアーナをまっすぐに見つめ直した。
「まだわしにはやるべきことがあるようじゃ。もう少しだけ、そちらに行くのは待ってもらおうかの」
「ええ。いつまでもお待ちしていますから。それに、こっちはこっちで大変なんです。だからあなたはリオナのそばにいてあげてください」
エリアーナはいたずらっぽく微笑むと、わしに近づき、その手を、そっとわしの胸に当てた。彼女の手から、温かい、陽だまりのような光が、わしの体の中へと流れ込んでくる。
わしは、最後に今一度だけ、彼女の顔を目に焼き付けた。
「エリアーナ、そなたはいつまでも美しい。愛している」
「私も愛しているわ。これからも、あなたとリオナを見守っていますね」
その言葉を最後に、わしの意識は、温かい光に包まれながら、急速に現実世界へと引き戻されていった。冷たい暗闇の底から、光の差す、水面へと向かって。愛しい孫娘の、泣き声がする、あの場所へと。
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