第34話:みんな、勝手だよ。私の気持ちも知らないで
嘘だ。こんなの、嘘だ。
「いや……いやだ……」
私の世界から、音が消えた。色が消えた。おじいちゃんが……。私の大好きなおじいちゃんが……。
「アハハハ!くたばったか、アルセイン! これが魔王の力だ! 貴様の守りたかった娘とこの世界を、消し炭にしてやろう!」
静寂を切り裂いて、エルンストの狂気に満ちた高笑いが洞窟に響き渡る。その声は、ひどく遠くに聞こえた。
見渡せば、仲間たちも満身創痍だった。ゴドルフも、ダリウスも、壁際でぐったりと倒れ、立ち上がることができない。クララも、魔力を使い果たしたのか、膝をついて荒い息を繰り返している。
ノエルは、隣で恐怖に震え、トーマスは、自分の唇を強く噛みしめていた。
完全な、絶望。
圧倒的な、劣勢。
「なんだ、その腑抜けた顔は。勇者といえど、所詮は小娘か」
いつの間にか、エルンストはゆっくりと、私の方へとにじり寄ってきていた。その歪んだ爪が、まるで弄ぶように、無慈悲に振り上げられる。
私は、ただ、呆然とそれを見上げていた。
おじいちゃんでも、勝てなかったんだ。私に、勝てるはずがない。
思考が、完全に停止していた。
ドゴォッ!
衝撃で、私の体は枯れ葉のように弾き飛ばされ、瓦礫の上に無様に転がった。全身が軋むように痛い。でも、それ以上に、心が痛くて、もうどうでもよかった。
「くそったれー!」
瓦礫の中から、ゴドルフがよろよろと立ち上がり、折れた剣を構えてエルンストに立ち向かう。だが、
「黙れ、この虫けらが!」
エルンストは、その決死の抵抗を、まるで虫でも払うかのように、片腕の一振りで再び壁へと叩きつけた。
もう、終わりだ。
誰もが、そう思っただろう。
その、時だった。
「お願い、誰か、助けて!」
ノエルの悲痛な声が聞こえる。その声に呼応するように私の近くに飛んできたフィーが、強い緑色の光を放った。
私の周りから、再び音が消えた。
血の匂いも、瘴気の気配も、エルンストの禍々しい存在感も、すべてが遠のいていく。私とノエルは、フィーが放つ、温かい緑色の光の中に、優しく包み込まれていた。
頭の中で声が聞こえる。
(ノエル、僕はね。かつての勇者と一緒に魔王と戦った存在の生まれ変わりなんだ。だから僕はまだこの幼い姿で、この先リオナといっしょに成長するはずだったんだけど、予定が大きく変わってしまった。今の僕にできるのは、リオナに言葉を届けるくらいだ。だからノエル、君の力を借りてリオナに直接言葉を届けさせてもらうね)
ノエルの潤んだ瞳が、驚きに見開かれる。
(私、そんなこと、できないよ)
(できるよ。君は、人ならざるものの声を聞き、神の意思を勇者に伝える『神託の巫女』。神獣である僕の言葉なら、もちろんリオナに届けることができるはずだ)
(……神託の巫女?)
(それじゃあ、確かめてみよう。ねえ、リオナ、僕の声が聞こえてるよね? フィーだよ)
(…フィー? 本当に、フィーなの!?)
私が答えると、
(そうだよ。この状態を長く維持できないから手短に言うね。かつての僕は魔王復活にそなえて、勇者の魂を輪廻転生させることにした。そう、君は勇者の生まれ変わりだ。ただ、君の魂のすべてが勇者のものじゃない。僕は勇者の魂を五つに分けたからね。だから、君は勇者であると同時に、誰でもないリオナなんだ。だから、勇者であることを、あまり思い詰めないでほしい。君は、君の人生を生きればいいんだ。ただ、僕が見てきたところ、君はこれまで僕が見てきた中でも最高の勇者になれる可能性がある。君には素晴らしいおじいちゃんがいたからね。君がこれほど短期間に成長したのは、僕の想像を大きく上回っていた。だからね、お願いがあるんだ。リオナ、君自身の力を信じてほしい。君には、守りたいものを守り切るための力があるんだ)
(嘘よ! 私は、おじいちゃんを守れなかった!)
(そうだね。だからこうしよう。僕が自分の命と引き換えに、おじいちゃんを助けてあげる)
(フィー、ダメよ! あなたが犠牲になったら、何の意味もないじゃない!?)
(僕は、勇者に寄り添い、勇者を導く存在。だからこれでいいんだ。ただし、君が負けてしまったら、どのみちこの場で全員が死ぬことになる。だから、リオナ、君がみんなを守るんだ!)
フィーの優しい声と共に、温かい光が溢れていく。
(それじゃあ、バイバイ。【ドヌム・ウィータエ(生命の贈物)】)
「ダメーーーーーッ!」
私の絶叫と共に、時間の停止が解ける。
目の前で、フィーの体が、その光を失い、ぽとり、と力なく地面に落ちる。
フィーの最後の言葉が、頭の中で何度も響く。
(君は、これまで僕が見てきた中でも最高の勇者になれる可能性がある。君には素晴らしいおじいちゃんがいたからね)
私は、溢れ出してくる涙を、ぐっと乱暴に拭った。
そして、おじいちゃんが落としたおばあちゃんの形見のペンダントを、強く握りしめた。
私の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
(どうして、こうなっちゃったんだろう…)
ただ、おじいちゃんと一緒に、穏やかに暮らしたかっただけなのに。
陽だまり相談所に来てくれる人たちの、ささやかな悩みを解決して、美味しいパンを食べて、ハーブを育てて。そんな、温かい毎日が、ずっと続くんだって、信じてた。
ゴドルフとの稽古で、剣を振るうことの『覚悟』を問われた時、私は答えられなかった。命を奪うことの重みから、ずっと目をそらしていた。強くなりたいと願いながら、その先に待つ本当の痛みを、見ようともしていなかったんだ。
(私のせいだ…)
私の力が足りなかったから。私の覚悟が、半端だったから。
だから、おじいちゃんは無理をして、フィーは命を懸けて、みんなボロボロになって…。
「…ごめんなさい」
誰にともなく、か細い声が漏れた。もう、戦いたくない。怖い。痛い。
諦めてしまえば、楽になれるんだろうか。
――その時。
握りしめたペンダントが、まるで心臓みたいに、一度だけ、とくん、と温かく脈打った。
脳裏に、たくさんの笑顔が、次々と浮かんでくる。
『陽だまり相談所、素敵な名前だね!』と、はしゃぐ私に、目を細めるおじいちゃんの顔。
『最高のパンが焼けたのよ!』と、誇らしげなカミラの顔。
『で、できました』と、薬の完成を喜ぶトーマスの顔。
『ふふ、気持ちよさそうですね』と、フィーの湯浴みを眺めるノエルの顔。
みんなが、いた。
私が大好きになった、アルモニエの、温かい日常が、そこにあった。
(違う…)
唇を強く噛みしめる。口の中に、鉄の味が広がった。
(私が守りたかったのは、これだ…!)
勇者だからじゃない。
ただ、リオナ・レーンフォルトとして、この愛しい人たちが笑い合える、あの陽だまりのような毎日を、取り戻したい。
そうだ。私は、もう目をそらさない。
この手で命を奪うことの痛みも、その責任も、全て引き受ける。
その覚悟がなければ、本当に守りたいものは、何一つ守れないと、ゴドルフが教えてくれた。
おじいちゃんが、命を懸けて守ろうとした、この温かい世界を。
今度は、私が……。
私は、ゆっくりと立ち上がった。震える指でペンダントの留め具を外し、自分の首にかける。ひんやりとした鎖の感触と、胸元に落ちた石の確かな重みが、私の覚悟を肯定してくれているようだった。
溢れ続けていた涙は、いつの間にか止まっていた。
私の目は、目の前の絶望を、狂える魔人を、まっすぐに見据える。
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