第32話:おじいちゃんの全力
自らの甘さが招いた仲間たちの危機。ゴドルフの怒声が、わしの心に突き刺さる。わしは、奥歯を強く噛みしめ、揺らぎかけた覚悟を、今度こそ鋼のように固め直した。
「…すべての罪と責任は、わしが負う」
それは、揺るぎない誓いの言葉だった。脳裏に、今は亡き妻、エリアーナの陽だまりのような微笑みと、その言葉が蘇る。
『力とは、それを正しく導く知恵と、弱きを助ける優しさがあって初めて意味を成すのです』
わしは、優先順位を間違えてはならん。今ここでこの友を止めねば、わしが愛したこの世界も、守るべき仲間も、そして何より、リオナの未来も、すべてが闇に飲み込まれてしまう。
「皆、下がるのじゃ!」
わしは、これまでにないほど強い口調で、仲間たちに命じた。リオナが「おじいちゃん…」と不安げな声を上げるが、今は振り返るわけにはいかん。彼女の目に映るわしの背中が、どれほど悲しく見えていることだろう。
全身から、これまでの比ではないほどの魔力が、嵐のように吹き荒れる。
「見せてやろう」
わしはあらゆる感傷を、心の奥底に無理やり押し込めた。
「エルンスト…、貴様の絶望も理解している。だが、それでも世界には、守るべき価値がある。わしが生涯を懸けて練り上げた究極の魔法を、その身に刻むがよい…!」
わしは、静かに杖を掲げ、禁忌とされている術の詠唱を開始した。世界の理そのものを一時的に書き換え、悪意あるものの存在を決して許さぬ聖域へと変貌させる超級魔法。
「師匠、いけません!」
クララの悲痛な叫びが、背後から聞こえる。
「その魔法は…! 世界の理を書き換えるなど、ご自身の命が持ちません!」
じゃが、もう止まれぬ。わしの足元から、神々しい白光の波紋が広がり、洞窟の禍々しい空気を、清浄なものへと塗り替えていく。壁も、床も、天井も、すべてが聖なる紋様を刻んだ白亜の聖堂へと姿を変えた。
【サンクタリアム・ゲネセオス(創世の聖域)】
聖域の中で、魔人エルンストの体が、聖なる光に焼かれてじゅうじゅうと音を立てる。彼は、これまで見せなかった苦悶の表情を浮かべ、この檻から逃れようともがく。
「ガアアアアッ! なんだ…この魔法は!」
クララが息をのむのが分かった。
「これが師匠の全力の魔法…。やはり次元が違いすぎる…」
エルンストは、わしに向かって禍々しい瘴気の奔流を放とうとする。だが、その邪悪な力は、聖域の光に触れた瞬間に、音もなく浄化され、霧散していく。
わしは、薄れゆく意識の中で、魔力を振り絞り、杖を強く握りしめた。
光よ、もっと、強く…!
わしの意志に応え、聖域の光は一度、強く輝いた。エルンストの禍々しい体に、無数の亀裂が走る。硬質化した皮膚は、まるで黒曜石が砕けるように、端からパキパキと音を立てて剥がれ落ちていった。
「グ…アアアッ…!」
エルンストは、血を吐く代わりに、口から黒い瘴気の煙を激しく噴き出した。聖なる光が、その魔人としての存在そのものを、内側から焼き尽くしている。
その体は、もはや立っているのもやっとというように、ぐらりとよろめき、片膝をついた。禍々しい翼は力なく垂れ下がり、その赤い瞳も光が消えかけていた。
黒い皮膚が剥がれ落ちたところから、わずかに人間の肌が覗く。額から生えていたねじくれた角は、根本から光の粒子となって霧散し、背中の翼もまるで燃え尽きた紙のように、はらはらと崩れ落ちていく。
あと少し…! もう一息じゃ…!
その瞬間、ぷつり、と。まるで糸が切れるように、わしの魔力の供給が、途絶えた。
足元から広がっていた白亜の聖域に、急速に亀裂が走る。神々しい光はまたたく間に色を失い、ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、『サンクタリアム・ゲネセオス』は消滅した。
洞窟は、再び、瘴気に満ちた元の禍々しい姿へと戻ってしまった。
「ぐ…っ!」
わしは、膝から崩れ落ち、杖を手放して血を吐く。
くそ、魔力の底が見えてしまうとは。全盛期のわしであれば、決してありえなかった失態よ。……これこそが、老いるという現実か。
そのわしの無様な姿を、片膝をついたままのエルンストが、見上げておった。やがて、その喉から、くつくつ、と低い笑い声が漏れ始める。
「…終わりか、アルセイン。貴様の究極の魔法とやらも、その程度か…!」
エルンストは、ミシミシと音を立てながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、再び立ち上がった。剥がれかけていた黒い皮膚がみるみるうちにその体を再び覆い、消えかかっていた角が再び額から突き出す。その瞳に宿る憎悪の光は、以前にも増して、どす黒く燃え上がっていた。
「貴様も老いたものよな。私ごときを倒しきれんとは! ……いや、違うな。別の超級魔法ならたやすく私を殺せただろう。お前はまだ私を救おうなどと考えているようだ。今の魔法は、私の魔王の力のみを消し去ろうとしたものだった。世界の理を書き換えるという神の所業にも等しき禁呪を使い、人の身を保てているのが不思議なほどよ。つくづく甘い男だ。それこそが貴様の致命的な弱点だ! アルセイン! 」
立ち上がったエルンストは、背後にある『嘆きの魔心臓』にその手を突き刺し、魔王の力を、さらに深く、その身へと引きずり出した。
「見せてやろう! 世界の絶望を! 強大な魔王の力を!」
エルンストの身に漆黒のエネルギーが渦を巻いて凝縮していく。
「今度は私の番だ!かつての魔王が世界を恐怖に沈めたとされる至高の魔法。堕ちよ、黒き星。罪を刻みて闇に還れ!」
【ノア・オーディー(原罪の黒き星)!】
エルンストの頭上に、漆黒の闇の球体――まるで光さえも吸い込むかのような無の塊が出現した。
わしは、残された最後の力を振り絞り、杖を構え直した。
「射せ、黄昏の光よ。終わりに道を示せ」
【クレプスキュルム・レイ(黄昏の一条)!】
聖なる白光と、すべてを飲み込む漆黒の闇。二つの力が、この狭い洞窟内で激突する。空間そのものが、断末魔の悲鳴を上げるかのような、耳をつんざく轟音が鳴り響き、わしらを白と黒の奔流の中へと飲み込んでいった。
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