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第28話:え、魔法が使えない? 君の番だよ

魔獣を討ち果たしたことで、わしらはわずかな安堵あんどを得た。だが、それも束の間。遺跡の深部へと進むにつれ、周囲の景色は、明らかにその様相を変え始めていた。


それまで続いていた、冷たく湿った石造りの回廊が途切れ、一行はまるで巨大な水晶の内部に迷い込んだかのような、奇妙な空間に足を踏み入れた。壁も、床も、天井も、すべてが淡い虹色の光を放ち、その表面はゆらり、ゆらりと絶えず揺らめいている。一歩足を踏み出すごとに、空気がまるで水中のように粘性を帯びてまつわりつき、言いようのない圧迫感が全身を包み込んだ。魔物の気配はない。だが、それゆえに、この静かな雰囲気が、かえって不気味だった。


「なんだ、こりゃあ…? 気持ちの悪い場所だな」


先頭を行くゴドルフが、警戒しながらも物珍しそうに、きらめく壁に不用意に手を触れた。その瞬間だった。


「くそっ、油断したぜ…!」


彼の指先から、腕にかけて、すっと鋭い切り傷が走る。まるで、見えない刃に切りつけられたかのようじゃった。


「ゴドルフ殿、大丈夫ですか!?」

ダリウスが声を上げる。


わしは即座にゴドルフのそばへ寄り、その傷口に治癒の魔力を送ろうとして、


「――癒やしの光よ、彼の者の傷をつくろいたまえ」


わしの手のひらから放たれた温かな光が、ゴドルフの腕に触れた、その瞬間。


「うぐっ!? ぎゃあああっ!」


ゴドルフが、これまで聞いたこともないような苦痛の叫び声を上げた。癒えるどころか、彼の傷は見る見るうちに悪化し、赤黒く腫れ上がっておるではないか。


「な、なんだこりゃ、アルセイン! てめえ、何をしやがる!」


「馬鹿な…!? 確かにわしは治癒魔法を!?」


全員が驚愕に目を見開く中、今度は通路の奥から、新たな魔物が五体、姿を現した。さきほど戦った黒狼よりも一回り小さいが、動きは俊敏そうだった。


「師匠、ここは私が!」


クララがわしを庇うように前に出て、魔法の詠唱を開始した。


「歪む重力よ、敵を砕け!――【プレッスーラ・グラウィア(巨人の手)】!」


じゃが、彼女が放った重圧の魔法は、魔物に何の影響も与えなかった。それどころか、魔物たちの体は一瞬、心地よさそうに光を放ち、傷一つなく平然とこちらへ向かってくる。


「そ、そんな…! 私の魔法が、全く効かないなんて…!」


クララの顔に、絶望の色が浮かぶ。しかしその時、彼女は何かを閃いたように、


「待ってください、師匠! ここはまさか…!」


彼女は、信じられないというように、震える声で叫んだ。


「他の遺跡の調査資料で読んだことがあります…! 『無秩序の聖域』…! あらゆる魔法の効果が、ここでは逆転してしまうのです! 攻撃魔法は回復に、回復魔法はダメージに、強化魔法は弱体化に…!」


「なんだって!?」


ゴドルフとダリウスが、愕然とした声を上げる。魔法が封じられるとなれば……。

わしは冷静に、顔面蒼白になっておる薬師見習いの青年へと向き直った。


「トーマス君、君の出番じゃ」


「えっ、ぼ、僕ですか!?」


「うむ。回復薬は魔法とは別のことわりで働いておる。この法則がねじ曲がった空間でも、その効果は変わるまい」


わしの言葉に、トーマスは一瞬戸惑ったようじゃが、すぐに意図を理解し、こくりとうなずいた。彼は震える手で革鞄から上等そうな回復薬を取り出すと、傷口を押さえてうめいているゴドルフへと駆け寄った。


「ゴドルフさん、動かないでください! 今、治します!」


トーマスが傷口に薬液を振りかけると、今度は見る見るうちに腫れが引き、傷が塞がっていく。


「おお…! 本当に治りやがった…! 助かったぜ、薬屋の小僧!」


トーマスはほっと胸をなでおろした。


だが、安堵したのも束の間。一体の魔物が、トーマスへと襲いかかった。


「危ない!」


トーマスが悲鳴を上げるよりも早く、閃光がほとばしる。甲高い金属音と共に、魔物の爪を弾き返したのは、ダリウスだった。


「魔法が通じぬのなら、斬るまでだ!」


ダリウスの剣は、ゴドルフの豪快な戦い方とは対照的だった。派手さはない。だが、一歩も引かず、盾で的確に攻撃を受け流し、剣で急所を寸分違わず貫く。その無駄のない動きは、まさに手練てだれのそれだった。一体、また一体と、魔物たちはその堅実な剣の前に、確実に数を減らしていく。そして、最後の一体が断末魔の叫びを上げた時、ダリウスは油断なく剣を構え直しながら、静かに息を吐いた。だが、それも束の間だった。


「リオナ殿、危ない!」


「きゃっ!」


突然、ダリウスがリオナを突き飛ばす。


「ぐっ」


と短いうめき声をあげるダリウスを見ると、その腕はひどい火傷のように赤くただれている。いつの間にか、わしらの周囲を、手のひらサイズの小さな妖精が、薄気味悪く笑いながら飛び回っておった。

「ダリウスさん、ごめんなさい。私のせいで……!」

 リオナが心配そうに駆け寄る。


「あれは…『ピクシー』! 悪戯好きで、厄介な精霊じゃ!」


二体のピクシーは、まるで嘲笑あざわらうかのように甲高い声で鳴きながら、目にも留まらぬ速さで飛び回り、わしらに近寄って治癒魔法を当ててくる。その小ささと速さに、ゴドルフの剣による攻撃は、ことごとく空を切るばかりだった。


「くそっ、ちょこまかと! 当たらねえ!」

「師匠、魔法は…!」

「無意味じゃ、クララ。攻撃魔法は奴らを癒やすだけじゃ。わしらがあの俊敏なピクシーに接近して治癒魔法や神聖魔法を当てるのは難しい。特にわしのこの年老いた体ではのう」


物理も、魔法も頼りにならぬ。


「…トーマス君」


わしは、再び彼の名を呼んだ。

「ぼ、僕ですか…?」


「今、頼りになるのはお主しかおらん」


わしの静かな問いに、トーマスはごくりと唾を飲んだ。


「わ、わかりました…。やってみます!」


彼はリュックから、ラベルの貼られていない怪しげな瓶を、何本も取り出した。中にはどす黒い液体が淀んでいる。トーマスは一度、周囲の顔を見渡し、「これをリオナか他の誰かが飲めば…」とつぶやき、すぐに首を振って「…いや、ダメだ。ここは僕が……」と唇を強く噛みしめた。トーマスはためらいを振り払うように、次々と小瓶の栓を抜き、一本目の瓶を一気に飲み干した。そして二本、三本と、その怪しげな液体を喉に流し込み続けた。


「お、おい、小僧! 大丈夫なのか、そりゃ!」


ゴドルフが心配そうに叫ぶ。じゃが、トーマスは全ての瓶を空にすると、苦笑いを浮かべた。


「ええ、まあ、後で地獄を見るだけですから…!」


次の瞬間、トーマスの体が、凄まじい勢いで床を蹴っておった。残像が見えるほどの速度で、彼はピクシーの一体に肉薄すると、その手に握りしめた毒薬の瓶の栓を瞬時に抜き、中身を浴びせかけた。


「ギィッ!」


液体を浴びたピクシーは、苦悶の声を上げて、ぽとりと地面に落ちて動かなくなる。じゃが、その直後、トーマスの体も、力なくその場にばたりと崩れ落ちてしまった。


「トーマスさん!」


ノエルが悲鳴を上げる。


もう一体のピクシーが、倒れたトーマスにとどめを刺そうと狙いを定めた、その時。


「動物さんたち、お願い!」


すると、どこからともなく、カサカサという乾いた足音と共に、影という影から、無数の大蜘蛛おおぐもたちが現れた。奴らは、一直線にトーマスへ向かうピクシーの進路上に割って入ると、瞬く間に、何重にも重なる分厚い網を張り巡らせた。

高速で飛んでいたピクシーは、その粘りつく罠に真正面から突っ込み、身動きを封じられてしまった。ジージーと羽音を立ててもがくが、蜘蛛の糸は切れるどころか、ますます固くその体を縛り付けていき、ピクシーを無力化した。

「今じゃ、クララ! 今なら魔法も当てられよう」


「はい、師匠!――【ルクス・イルミナティオ(浄化の聖光)】!」


クララが放ったのは、状態異常を治癒する神聖魔法。この『無秩序の聖域』においては、殺傷能力の高い魔法と化すはずじゃ。

案の定、聖なる光に焼かれたピクシーは、甲高い悲鳴を上げて、塵となって消滅した。


リオナとノエルが、倒れたトーマスに駆け寄る。

「トーマス! 大丈夫!?」

「うっぷ…」

トーマスは、青白い顔で一度、大きくえずくと、胃の中身をすべて床にぶちまけた。だが、その後、彼はにやっと力なく笑うと、震える手で、親指をぐっと立てて見せた。


その無事を知らせるサインに、リオナとノエルは、泣き笑いのような顔で、心底ほっとしたように胸をなで下ろすのだった。

わしらは、誰一人欠けても、この先へは進めぬじゃろう。その確信が、わしの心を温かく満たした。



本話をお読みいただき、誠にありがとうございます。本作は書籍化を目指しており、少しでも「面白い」と感じていただけましたら、ブックマークやページ下の評価(☆☆☆☆☆)で応援いただけますと、大きな励みになります。どうぞ作品を育てていただきますよう、よろしくお願いいたします。第一部完結まで、毎日朝7時頃に更新します。

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