第1話:陽だまり相談所、はじめました
王都から馬車に揺られること数日。
風にも、土にも、陽光にさえ、懐かしい妻の面影が宿る。そんな気がして、わしはここ、温泉と薬草の町『アルモニエ』を終の棲家に選んだ。
なだらかな山々と清流に抱かれたこの町は、時間が止まっているかのように穏やかで、それでいて人々の営みの温かさに満ちている。その町を見下ろす小高い丘の上に、わしと孫娘の新しい生活の拠点はあった。
古いが頑丈な一軒家。王国首席宮廷魔導師などという物々しい肩書を、定年退職を機に捨てたわしには、これくらいが分相応というものだろう。わしはもう【王国最強】ではなく、ただのアルセイン・レーンフォルトなのだ。
「がんばれー、おじいちゃん! 腰が悪いんだから気をつけてね! もうちょっとだけ右かな? うん、そこ!」
降り注ぐ柔らかな光を一身に浴びながら、快活な声が弾む。わしの最愛の孫娘、リオナ・レーンフォルト。彼女の指示に従い、家屋の入り口に真新しい木の看板を掲げるべく位置を微調整する。
「ふむ、これくらいかの?」
「うん、ばっちり! 『陽だまり相談所』、素敵な名前だね! これならきっと、たくさんの人が来てくれるよ!」
リオナが屈託なく笑う。看板に記された『陽だまり相談所』という名は、その名の通り温かい場所になればと思いわしが名付けた。わしが指先に微弱な魔力を込めて木肌に書いた文字は、リオナの太陽のような笑顔を写し取ったかのように、温かく丸みを帯びていた。
「ふむ、曲がっていては格好がつかん」
わしは最後の釘を打ち込む。とん、とん、とん、と乾いた音が春の空気に響き、わしらのささやかな城の門出を告げた。
二人して少し離れた場所から、掲げられたばかりの看板を見上げる。
長きにわたる宮廷生活。そこにあったのは、敬意や羨望、そして嫉妬と陰謀が渦巻く、息の詰まるような不自由な日々だった。定年を迎え、ようやくその重責から解放されたわしが望んだのは、ただ静かな余生。そんなわしのわがままに、孫娘は二つ返事でついてきてくれた。友人たちと離れることになるというのに、不満一つ言わずに。
「リオナよ」
「ん、なに? おじいちゃん」
「本当に王都に残らなくってよかったのか?」
ずっと胸の内にあった問いを、ようやく口にした。彼女の未来の可能性を、わしの都合で摘んでしまったのではないか。その懸念は、このアルモニエの心地よい風に吹かれても、完全には消え去ってはいなかった。
しかし、リオナは少しも迷うことなく、亜麻色の髪のポニーテールを揺らしながらふり返った。わし譲りの澄んだ青い瞳が、まっすぐにわしを射抜く。
「当たり前じゃない! おじいちゃんのいるところが、私のいる場所だよ。お父さんもお母さんも地形調査だなんとかでずっと家にいないし」
そう言ってリオナはわしの腕にぎゅっと抱きつき、顔を上げて満面の笑みで続けた。
「それに……私、おじいちゃんのこと、だーいすきだもん!」
リオナはそう言い切ると、悪戯っぽく笑って続けた。
「都会の窮屈さより、ここの方が空気も美味しいしね」
その曇りもない笑顔に、胸の奥でくすぶっていた最後の靄が、すうっと晴れていくのを感じた。
「そうか……。ありがとう、リオナ。お前がいてくれて、わしは心強い」
自然と、感謝の言葉がこぼれた。リオナは「えへへ」と少し照れ臭そうに鼻をこする。
わしは彼女の隣に並び、眼下に広がるアルモニエの町並みを改めて見渡した。石畳の道と、オレンジ色の屋根、活気ある市場からは人々の賑わいが風に乗って届き、パン屋の煙突から立ち上る煙が、空に細く溶けていく。平和で、愛おしい光景だ。
かつて、この手は王国を守るため、あまたの敵を退け、大地を揺るがすほどの魔法を放ってきた。だが、これからは違う。この知識と、ささやかな魔法と、残りの人生のすべてを、困っている誰かのために使おう。そして目の前の、この愛しい孫娘との穏やかな日常を守っていこう。
この地は、かつて若かりし頃に、今は亡き妻エリアーナと二人で訪れた思い出の場所でもある。体の弱かったエリアーナとは、湯治のために何度かこのアルモニエを訪れていた。彼女もきっと、空の上からこの決断を微笑ましく思ってくれているだろう。
「この町で、わしらにできることをゆっくりとやっていこう」
わしはそうつぶやき、第二の人生への静かな決意を新たにした。隣でリオナが「うん! おじいちゃん!」と力強くうなずく。
陽だまり相談所、はじまりの日。その空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
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