第13話:初めてですが、何か?
相談所を飛び出すと、外の空気は血と鉄の匂い、そして人々の恐怖の叫びで満ちていた。夕日が、いつもは穏やかなアルモニエの町並みを、まるで戦場の空のように赤く染め上げている。
町の中心にある広場は、地獄のような有り様だった。
荷馬車はひっくり返り、露店の品々が石畳の上に無残に散らばっている。家の扉や窓は固く閉ざされ、その向こうから子どもの泣き声が聞こえてくる。
「陣形を崩すな! 怯むな、一歩も引くな!」
ダリウス団長の怒声が響き渡る。彼が率いる自警団は、多数の魔物を相手に必死の防衛線を築いていた。だが、その戦況は誰の目にも明らかなくらい、絶望的だった。
魔物は、ダリウスが言っていた通り、黒ずんだ体毛を持つ巨大な狼の姿をしていた。その目は不気味な赤い光を宿し、涎を垂らしながら、人間ではありえないほどの俊敏さで自警団の盾を、槍を、いともたやすく弾き飛ばしていく。あれが、魔物…!
「ぬぅんっ!」
その一方で、ひときわ大きな雄叫びを上げて奮戦しているのは、ゴドルフだった。彼の振るう大剣は、老齢とは思えないほどの力と速さで魔物の一体を捉え、その胴を深く切り裂いていた。魔物は甲高い悲鳴を上げて黒い霧となり消える。さすがは元王国騎士団の切り込み隊長。でも、彼の相手は一体だけじゃない。すぐに別の魔物が、飢えた獣のように彼に襲いかかっていく。
その時、私の頭の上から、ぴかっ、と翠色の光が放たれた!
「きゅぴいいいっ!」
フィーが、私の髪の中から飛び出して、自警団の一人に襲いかかろうとしていた魔物に向かって、光の玉のようなものを打ち出したのだ。光が当たった魔物は、一瞬だけ動きを止め、その隙に自警団員がなんとか体勢を立て直す。
「フィー!? すごい…!」
驚く私をよそに、フィーは小さな体で健気に戦っている。
私は、町の惨状に、ただ立ち尽くすことしかできない。怖い。足が、石になったみたいに動かない。
(おじいちゃん…!)
助けを求めるように隣を見ても、そこにいるはずの温かい存在は、いつの間にか消えていた。
どこ? どこに行ったの?
必死に視線を彷徨わせると、広場の隅で、杖を静かに構えるおじいちゃんの背中を見つけた。おじいちゃんは、物陰に隠れていた親子を庇うように立ち、迫りくる一体の魔物を、杖先から放った小さな光の矢で、的確に牽制している。
派手な魔法じゃない。でも、その落ち着き払った横顔は、あまりにも頼もしくて…。それに比べて、私は…。
自分の不甲斐なさに、唇を噛みしめることしかできない。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
悲鳴は、私のよく知っている声だった。花屋『フェアチャイルド花園』の前。
視線を向けると、そこには、恐怖で腰を抜かしてしまったのか、その場にへたり込んでいるノエルの姿があった。その腕の中には、売り物だったのだろう、小さな花の苗が、まるで自分の子どものように大切に抱きしめられている。
一匹の魔物が、そのか弱く、震える獲物に狙いを定めていた。ゆっくりと、いたぶるように、ノエルへとにじり寄っていく。
ダメッ!
そう思った瞬間、私の体は勝手に地面を蹴っていた。
恐怖で動かなかったはずの足が、嘘のように前に進む。風を切る音だけが、耳元で鳴っていた。
「リオナ、なんで来たんだ!? 待っとけと言っただろう!」
どこかから、ゴドルフの叫び声が聞こえた。でも、もう私には届かない。私の目には、ただ、震える友の姿と、その命を脅かす邪悪な影しか映っていなかった。
魔物が、ノエルに飛びかかろうとした、まさにその瞬間。
私は、抜き放った剣で、その禍々しい爪を、甲高い金属音と共に弾き返していた。
「ノエルから、は、離れて!」
絞り出した声は、震えていたかもしれない。
「わ、私が、相手よ!」
初めて間近で対峙する魔物。その体から発せられる、冷たく、ねっとりとした邪悪な気に、全身の産毛が逆立つ。獣の臭いと、血の匂いが混じり合って、吐き気を催す。怖い。足が、すくむ。今すぐ逃げ出したい。
(怖い…怖い…、でも…)
私の脳裏に、涙を流しながら訴えた、自分の言葉が蘇る。
『ただ、何もせずにここで待っているだけなのは、もう嫌なの…!』
そして、おじいちゃんの、あの厳しくも優しかった声が響く。
『戦場では、決して迷ってはいかん』
そうだ。迷ってはいけない。守られるだけの女の子でいるのは、もうやめたんだ。
私の視線の先で、ノエルが涙に濡れた瞳で、私を見ている。私が、彼女を守らなきゃ!
私が友人を守りたいと、心の底から強く念じた、その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
私の瞳に、目の前の魔物の姿が、まるで別のもののように映り始めたのだ。黒く濁った体毛の内側に、まるで血管のように流れる、歪んだ赤黒い魔力の奔流が視える。そして、その流れが集まる中心、心臓の位置に、ひときわ濃く、ひときわ邪悪な光を放つ、「核」のようなものが、どくどくと脈打っているのが、はっきりと分かった。
(あれを…切ればいい…?)
私はそう直感した。同時に、握る剣の刀身が、ふわり、と青白い光を帯びた。それは、フィーが放つ光でも、おじいちゃんの魔法の光でもない。もっと清らかで、神々しくて、そして力強い、聖なる光。私の内側から湧き出てきた光が、剣に宿っている。
これが、私の力。命を、奪う力。
一瞬、その事実に戸惑いが心をよぎる。でも、魔物が再び私に向かって襲いかかってきた時、その迷いは霧散した。
爪による薙ぎ払いを紙一重で身をかがめてかわす。直後、繰り出された噛みつきを、剣の腹で受け止めて弾き返す。体が、勝手に動く。
そして、好機は訪れた。
魔物が大きく振りかぶった、ほんの一瞬の隙。
私は、狙いを定めた。視える。あの、赤黒く脈打つ「核」が。
「はあああっ!」
私は低く、地を這うように踏み込むと、全身のバネを使って、聖なる光をまとった剣を、真横に薙ぎ払った。風を切る鋭い音が私の耳に届く。まるで、時間が引き延ばされたかのように、世界の動きがゆっくりと見えた。私の白刃が、魔物の胴体に吸い込まれるように触れ、そして――通り過ぎる。手応えは、驚くほど軽かった。分厚い獣の体も、その中にある邪悪な核も、まるで柔らかな水の塊を切るように、私の剣は何の抵抗も感じなかった。
「キシャアアアアアアアアアアッ!」
魔物が、人間には到底聞き取れないほどの、耳を劈くような苦悶の叫びを上げた。その体は急速に輪郭を失い、真っ黒な霧を周囲に撒き散らしながら、足元からサラサラと、塵になって崩れ落ちていく。
後には、不気味な静寂と、夕暮れの赤い光だけが残されていた。
私は、聖なる光が消えた剣を握りしめたまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
(私が…やったの…?)
友人を守り抜いた安堵感と、初めて自らの手で命を奪ったことへの、言い知れぬ痛みと衝撃が、私の心の中で、ぐちゃぐちゃに入り混じっていた。
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