第10話:おじいちゃんの友達、変わってるね
自警団長のダリウスが、重い足取りで帰って行った。陽だまり相談所には、まるで夕闇そのものが流れ込んできたかのような、重苦しい沈黙が満ちていた。瘴気、魔物、そして魔王。今までおとぎ話の世界の出来事だと思っていた物騒な言葉たちが、急に現実味を帯びて私の胸にずしりとのしかかってくる。
これから、この町は、私たちは、どうなってしまうんだろう。
そんな緊張の日々が、数日続いた。町の人たちの笑顔はぎこちなく、市場の活気も心なしか潜んでしまったみたいだった。陽だまり相談所を訪れる人も少なく、私とおじいちゃんは、ただ静かに、嵐の前の静けさのような時間を過ごしていた。
そして、事件の予兆が訪れてから三日目の昼下がりのことだった。私が淹れたハーブティーの優しい香りが、ようやく少しだけ強張った心を解きほぐしてくれた、そんな時だった。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
突然、相談所の入り口の扉が、今にも蝶番が壊れてしまいそうなほど乱暴に叩かれた。その音の大きさに、私はびくっと肩を揺らす。
「アルセイン、いるか! ゴドルフだ! 開けろ!」
扉の向こうから響いてきたのは、雷鳴のように大きな、そしてどこか楽しげな声だった。その声の主が誰なのか、私には見当もつかない。おじいちゃんは、ふう、と一つため息をつくと、重い腰を上げて立ち上がった。その表情には、呆れと、でもほんの少しだけ、嬉しそうな色が混じっているように見えた。
おじいちゃんが扉を開けると、そこに立っていたのは、まるで岩を削って作ったかのような、がっしりとした体格の老人だった。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その瞳は長年の戦いを経てきたかのような鋭い光を放っている。でも、口元はニヤリと楽しそうに歪んでいて、怖いというよりは、なんだか豪快な人だな、という印象を受けた。
「よう、アルセイン。まだ生きてたか」
「お主こそ相変わらずじゃな。もう少し静かに入れんのか、ゴドルフ」
おじいちゃんが呆れたように言うと、ゴドルフ・ローレンツと名乗ったおじいさんは「がっはっは!」と腹の底から笑い、ずかずかと相談所の中に上がり込んできた。そして、ソファに座っていた私を一目見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「ほう、こいつが例の孫娘か。お前に似ず、愛嬌があっていいじゃねぇか」
「え、あ、は、はじめまして! リオナです!」
突然のことに驚いて、私は慌てて立ち上がってお辞儀をする。ゴドルフは、そんな私を面白そうに見下ろすと、どっかりと私の向かいのソファに腰を下ろした。彼が動くたびに、着古した革鎧のベストがきしりと音を立てる。
私が淹れたお茶を、ゴドルフは「おう、気が利くな」と言いながら、湯呑みをぐいっと一気に煽った。そして、ぷはーっと満足げに息をつくと、再び私に向き直った。
「なあ、リオナ。お前のじいさんは今でこそ賢者様みたいな澄ました顔をしておるが、若い頃は実にとんでもない石頭でな」
「は、はあ…」
「ゴドルフ、よさんか。孫の前で、昔の話をむし返すでない」
おじいちゃんが少し困ったように制止するけど、ゴドルフは全く意に介さない様子で、にやりと口の端を吊り上げた。
「なに、よいではないか。この石頭が、若い頃はどれだけ融通の利かん奴だったか、孫娘にも教えてやるのが親切というものだろう。なあ、リオナ、聞きたいか?」
「え、ええと…はい、少しだけ…」
おじいちゃんの、見たこともないような困り顔と、ゴドルフの楽しそうな顔に挟まれて、私はどう答えていいか分からず、とりあえずうなずいてしまった。それを聞いたゴドルフは、待ってましたとばかりに膝を叩いた。
「よしきた! あのな、こいつは昔から魔法のことになると周りが一切見えなくなる悪癖があってな。研究に没頭して二、三日、研究室から出てこないなんてのはしょっちゅうで、俺が無理やり引きずり出して飯を食わせたことも一度や二度じゃない!」
「ええっ、おじいちゃんが!?」
いつも規則正しい生活をしているおじいちゃんが? 信じられない。私が驚きの声を上げると、ゴドルフはさらに楽しそうに話を続ける。
「ああ、そうだとも! しかも、一度こうと決めたら絶対にテコでも動かん。大魔導戦争の頃なんざ、俺と作戦の方針で対立して、取っ組み合いの喧嘩になったこともあるくらいだ!」
「喧嘩まで…!」
私がおじいちゃんの方を恐る恐る見ると、こちらに背を向けて、棚に並んだハーブティーの瓶を整理するふりをしている。でも、その耳がほんのり赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「極めつけはあれだな」と、ゴドルフは思い出し笑いを堪えるように、肩を震わせた。
「当時、王国一の美女と評判の聖女がいてな。この石頭もその娘に夢中で、ある日、国王陛下の御前で行われる行進の最中、その聖女に気を取られて見事にすっ転びよった!」
「ええええーーっ!?」
今度こそ、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。おじいちゃんが!? 女の子に気を取られて、国王様の前で転んだ!?
「がっはっはっは! 王国騎士団の切り込み隊長として名を馳せたこのゴドルフの、すぐ目の前でな! おかげで、厳粛な行進は台無しだ! こいつは不敬罪だなんだと大騒ぎになって、結局、一週間の謹慎処分になっとったわい!」
「あは、あははは! うそ、おじいちゃんがそんな! あはははは!」
もう我慢できず、私はお腹を抱えてしまった。涙が出るほど可笑しくて、笑いが止まらない。いつも穏やかで、威厳があって、完璧だと思っていたおじいちゃんの、信じられないような大失敗。
「ゴドルフ! そのくらいにしておけと言っているだろう!」
ついに、おじいちゃんが顔を真っ赤にして、ゴドルフを睨みつけた。でも、その声にはいつもの迫力がなくて、私には照れ隠しにしか聞こえなかった。
昔話で盛り上がった後、ゴドルフはふと、真面目な顔つきになった。彼は湯呑みに残っていた茶を静かに飲み干すと、その鋭い視線を、まっすぐに私に向けた。
「…それで、リオナ。お前さんはどうだ。神殿から勇者候補なんぞという、面倒なものを背負わされて……。お前も災難だな」
その言葉に、私の背筋がぴんと伸びた。ゴドルフも、私が勇者候補であることを知っていたんだ。彼の声には、さっきまでのからかうような響きはなく、私の身を案じる、静かで温かい響きがあった。
「いえ、今は特に何も…。私は、ただ相談所のお手伝いをしているだけですから」
「そうか。…ならいい」
ゴドルフはそれ以上何も聞かず、ごしごしと無精髭の生えた顎を撫でた。そして、立ち上がると、窓の外に広がるアルモニエの町並みに目を細める。
「しかし、いい町だな、ここは。王都の息苦しさとは大違いだ」
「うむ。わしもそう思うておる」
おじいちゃんも、ゴドルフの隣に並んで、静かにうなずいた。多くを語らずとも、二人の間には、共に激しい時代を戦い抜いてきた者だけが共有できる、深い絆のようなものが流れているのが分かった。
「…だがな、アルセイン」
ゴドルフの声が、ふと低くなった。
「最近、森の獣が妙に落ち着かないと、自警団の若い連中がぼやいてたぜ。こいつはちょいとまずい気がするぜ……」
その言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。嵐の前の、束の間の陽だまり。ゴドルフの豪快な笑い声が、不安な影を一時的に追い払ってくれたけれど、その影が完全に消え去ったわけではないことを、私はもう、知ってしまっていた。
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