第9話:それっておとぎ話ですよね?
陽だまり相談所には、最近、ひっきりなしに人が訪れている。そのほとんどは、「猫が木から下りてこない」とか、「玄関の鍵がなくなったので、なんとかしてほしい」とか、暮らしの中でふと立ち止まってしまうような悩みごとばかりだ。私もおじいちゃんも、そんなささやかな日常のお手伝いができることが、たまらなく嬉しかった。
この温かくて優しい毎日が、ずっと、ずっと続けばいいな。私は心からそう願っていた。
でも、そんな穏やかな日々に、ほんの少しずつ、けれど確実に、不穏な影が差し始めていることに、私はまだ気づいていなかった。
最初に異変を感じたのは、カミラだった。
「どうも最近、おかしいのよ」
ある日の昼下がり、「パンの味見をしてほしい」と相談所に来たカミラが、不思議そうに首を傾げた。
「パンがね、なんだか妙に早く傷んでしまうの。朝に焼いたばかりなのに、もうパサパサになってる。こんなこと、今までなかったんだけどねえ…」
その時は、「今年はいつもより暑いからじゃない?」なんて、のんきに答えていた。
次に相談に来たのは、農家のおじさんだった。
「うちで飼ってる乳牛の、乳の出が悪くなっちまった。餌も変えてないし、病気ってわけでもなさそうなんだが…なにかにずっと、怯えてるみてえなんだ」
そんな小さな不幸が、町のあちこちで囁かれ始めた頃。私も、漠然とした不安を感じるようになっていた。
なんだろう、この感じ。
上手く言葉にできないけれど、町の空気が、ほんの少しだけ、淀んでいるような気がするのだ。まるで、綺麗な水に、一滴だけ黒いインクを落としたみたいに。
その淀みは、日を追うごとに濃くなっている気がした。私の肩の上が定位置になったフィーも、最近はあまり元気に飛び回らず、私の髪の中にじっと顔をうずめていることが多い。ノエルに聞いても、「フィー、『なんだか空気がチクチクする』って」と、心配そうに眉を寄せるだけだった。
「おじいちゃん、なんだか最近、町の空気が変じゃない?」
ある日の午後、書斎で本を読んでいたおじいちゃんに、私は胸の中のもやもやを打ち明けてみた。おじいちゃんは読んでいた本から顔を上げると、静かに窓の外に視線を向けた。その穏やかな瞳が、ふっと険しく細められる。
「……リオナもそう思うか」
彼の指先が、窓枠をそっと撫でる。その何気ない仕草に、私はなぜか緊張を覚えた。
「この町を覆うマナの流れに、澱みが生じておる。おそらく……それは瘴気……」
おじいちゃんの口からこぼれた『瘴気』という言葉。それは、邪悪で、冷たく、生命の活力を奪う気配なのだという。おじいちゃんの表情から、いつもの穏やかさが消えていた。
なにか、良くないことが起ころうとしている。
そして、その予感は現実のものとなった。
森で薬草を摘みに出かけていた町人が、血相を変えて町に逃げ帰ってきたのだ。
「ま、魔物が…! 森の中に、魔物がいたんだ!」
その絶叫が、市場の喧騒を切り裂いた。一瞬にして、人々の陽気なざわめきが凍りつき、恐怖と混乱が伝染していく。
「嘘でしょ、森に魔物だなんて…」
「どうしよう、子どもたちを早く家に…!」
町は、一瞬にしてパニックに陥った。あちこちで悲鳴が上がり、人々が我先にと家路を急ぐ。昨日までの、あの温かくて平和なアルモニエの姿は、もうなかった。
その日の夕暮れ。
陽だまり相談所の扉が、これまでとは違う、固く、そして迷いのない音で叩かれた。私がおそるおそる扉を開けると、そこに立っていたのは、見上げるほど背の高い、がっしりとした体格の男性だった。
短く刈り込んだ黒髪に、日に焼けた真面目な顔立ち。動きやすさを重視した革鎧の上から、町の紋章が刻まれた胸当てを身に着けている。その強い意志を感じさせる瞳は、まっすぐに私を通り越し、中にいるおじいちゃんを捉えていた。
「レーンフォルト殿。自警団長のダリウス・グレンジャーと申します。緊急の要件にて参りました」
彼の声は低く、そして重かった。おじいちゃんはダリウスと名乗った男性を応接間へと促した。
ダリウスはソファに腰を下ろしたが、その背筋は少しも緩むことなく、まるで彫像のように固まっていた。彼の全身から、町の治安を預かる責任者としての、強い緊張感が伝わってくる。
「昼間の騒ぎは、お聞き及びのことと存じます」
ダリウスは、単刀直入に切り出した。おじいちゃんは、静かにうなずく。
「町の近くの森で、魔物を目撃しました。これは噂などではない、我々自警団が確認した、確かな情報です」
魔物。
その言葉の響きだけで、私の背筋がぞくりと冷たくなる。
「魔物…ですか? おとぎ話に出てくる?」
リオナが恐る恐る尋ねると、ダリウス団長は重々しくうなずいた。
「ああ。だが、魔物はおとぎ話の中だけの存在ではない。数百年前、人間は魔物と争っていたという。最近でも、いくつかの国で報告例がある。森にいたのは、ただの『グレイウルフ』だったはずなんだ。しかし、我々が対峙したそいつは…体毛が黒ずんで針のように硬質化し、目は不気味な赤い光を放っていた。もはや普通の獣ではない」
ダリウスの言葉に、おじいちゃんが静かに続けた。
「瘴気じゃな」
その言葉に、ダリウスは「はい」と短く応じる。
「感受性の高い動物が『瘴気』と呼ばれる邪悪な気に長く晒されると、理性を失い、凶暴な存在へと変わり果ててしまうのです。…人々は、それを『魔物』と呼んでいます」
「ご存知かもしれませんが、レーンフォルト殿」と、ダリウスは続けた。
「魔物は体内に歪んだ魔力を蓄積させ、元の動物が持ち得なかった原始的な魔法――火を吹いたり、異常な速さで傷を癒したりといった能力を発現することもあります。さらに、その中でも特に強力に進化した個体は、『魔獣』と呼ばれ、その脅威は計り知れません。実際、昨年には、隣国で魔獣が現れ、国でも指折りの騎士が10名出動して討伐に成功しましたが……そのうちの6名が重傷、2名は命を落としたということです」
私は、ごくりと息をのんだ。カミラのパンが傷んだのも、牛がお乳を出さなくなったのも、全てはこの『瘴気』のせいなのかもしれない。そして、それはついに、魔物という、目に見える牙となって、私たちの日常を脅かし始めた。
「古くからの言い伝えによれば…」
ダリウスの声が、さらに一段、低くなった。
「魔物の出現が各地で頻発し始めるのは、世界を闇に陥れるという魔王の復活が近いことの、最も顕著な前兆であると…」
魔王。
その言葉も、おとぎ話の中でしか聞いたことがなかった。でも、ダリウスの真剣な表情と、おじいちゃんの険しい沈黙が、それがただの伝説ではないことを物語っている。そして、私は勇者候補……。いつかその魔王と戦うべき存在。
「町の平和は、我々自警団が全力で守ります。しかしあなたは、類稀なる魔法を使われるとか。そのお噂は町人よりお聞きしております。その知恵と経験を、どうかこの町のためにお貸しいただきたい」
ダリウスはそう言って、深く頭を下げた。
「それに、もしやあなたたちは……」
そこまで言いかけて、ダリウスははっとしたように口をつぐみ、再び顔を伏せた。
「……いえ、なんでもありません。どうか、お力添えを」
話を聞き終えたおじいちゃんの表情から、いつもの穏やかさは消え失せていた。
おじいちゃんは窓の外に広がる、夕闇に沈み始めたアルモニエの町並みを見つめ、静かに、しかし重い響きを帯びた声で言った。
「団長殿、お気持ちは分かります」
そして、私の方をちらりと見て、再びダリウスへと視線を戻す。
「…どうやら、我々の穏やかな日常は、少しばかり騒がしくなりそうですな。わしもできる限りのことはさせてもらうよ」
その言葉は、まるで嵐の前の静けさのように、私の心に重く響き渡った。
陽だまり相談所が始まって以来、初めて感じる、冷たい緊張感。私たちの温かくて優しい毎日は、どこかへ行ってしまうのかもしれない。私の胸の中では、恐怖と、そして「なんとかしなきゃ」という焦りが、ぐるぐると渦を巻いていた。
本話をお読みいただき、誠にありがとうございます。本作は書籍化を目指しており、少しでも「面白い」と感じていただけましたら、ブックマークやページ下の評価(☆☆☆☆☆)で応援いただけますと、大きな励みになります。どうぞ作品を育てていただきますよう、よろしくお願いいたします。第一部完結まで、毎日朝7時頃に更新します。




