2-8
ホープ峠はデルヴァー中心地からほど近い。峠というよりは小高い丘のような場所で、旅人はここを通ってケンディアス山脈へと向かうことになる、らしい。
坂道はそれほど急ではなく、デルヴァー市を一望できる景観もあって週末には多くの市民が訪れる憩いの場所……とマリーの知識にはある。
半面、道を少し外れると切り立った崖があり事故が絶えないという。あたしはもちろん行ったことはないけど、マリーは何度も足を運んでいるようだった。
孤児院を出た彼女が先行きに絶望して身を投げようとしたのも、それをニコラスが救ったのもこの場所だ。
そう。ホープ峠はこの2人にとっての思い出の場所なのだ。そこで死ぬ、というのがどれほどの意味を持つかは、きっとあたしにしか分からない。
あたしの恩寵はニコラスだけには何故か効いていない。何度も試したけど無駄だった。そして、身体で迫っても無駄だった。
あたしにとってあんな中年などどうでもいい。ただ、あたしがもはや「マリー」ではないとあいつに刻みつけないと気が済まない。あたしは完璧に、あの女に取って代わる。そうじゃなきゃいけない。
あたし……富永美由紀が決して得られなかったものを、マリー・ジャーミルは持っていた。
誰からも好かれる可愛らしいルックス。人々に好かれる謙虚な性格。そして、互いに愛し愛される、深い信頼で結ばれた師であり男。
その全てが妬ましかった。
そして、マリーの全てを奪い、この世界でのし上がってやろうと心に決めた。
ニコラスを屈服させ、絶望させることは、その重要な1パーツだ。
ニコラスの自殺は近いうちにあるだろうとは思っていた。だからあたしが誘いに乗ったのには、万一それが本当だった場合にそれを見届けるという意味もある。
もちろん助けたりはしない。マリーの全てを奪いきるには、ニコラスが死ぬか、あたしのものになることが必要だからだ。
だけど恐らくは、これは罠だ。ニコラスが絶望するには、まだあまりに早い。
あたしの中にいるマリーは、もうすぐ消えようとしている。だけど、まだ消えきってはいない。あと数日以内にはいなくなるだろうけど、まだかろうじて「生きている」。
祓い手の連中がどこまでそれを察知しているかはしらない。ただ、少なくともニコラスは諦めてはいないはずだ。だからこそ、彼はあいつらを助けに来た。その行動と今回の連絡とは、全く話がかみ合わない。
まあいいわ。罠だろうと本当だろうと、ホープ峠に行けば決着が付く。
その時が、あたしとマリーとの「お別れの時」になる。
あたしは「バンド」のメンバーと「親衛隊」を引き連れながら、「ククク」と笑った。
マリー、あなたの愛するものが壊れていくのを、そこで見てなさい。ま、あたしがいる限り外で何が起きているかは認知できないでしょうけどね。
*
「来てくれたようだね」
午後3時前。ホープ峠の見晴らしのいい場所に、ニコラスは一人で立っていた。デルヴァー市が一望できる、絶好のポイントだ。
「あいつらは」
「ヴァンダヴィル市に帰させたよ。とても無理だってね」
フン、と鼻を鳴らす。
「どうせ噓でしょ。ロンナとミカ、何人か連れて探してみて」
「分かりました」と、彼女たちは武装した冒険者数人と踵を返した。ニコラスが悲しげに笑う。
「本当に、君はマリーとは何から何まで正反対なんだな」
「ええ。あたしもこの子は大嫌い。健気でいつもあんたの言う通りの『いい子』を演じようとしてる。それがこの子がいまひとつ芽が出なかった理由なのに、それでもあんたを信じようとしてる。その頭の悪さも含め、虫唾が走るわ」
「……反論の余地もないよ。私では、マリーの才能を開花させてやるには足りない。壁に当たっていたのは確かだ」
「そうね。で、あたしが彼女の顔と声を使ってあげた。そうしたら化けるのはあっという間だった。まああたしとこの子の才能の差もあるけど、無能なあんたとあたしの差でもある。あんたじゃあたしのステージなんて、絶対に真似できないし考えも付かない」
「そうかもしれないね。……マリーが戻らない今、僕の役割はここまでみたいだ」
ニコラスが崖の方に向かって歩く。
「本当に自殺するつもりなの?」
「ああ。歌劇場に連絡した通りだ」
止めるつもりはない。ただ、何か引っかかる。
崖の手前でニコラスが立ち止まった。
「マリーは、本当にもう戻らないんだね」
「そう言ってるでしょ。彼女はもう『いない』。あんたの最愛の弟子にして少女は、もうあんたに話しかけることも、歌うこともないのよ」
「……そうか」
ニコラスの目から、涙が一筋流れた。
「マリー……ごめん。君を助けてあげられなかった。愛しているよ」
そして、ニコラスは崖から身を投げた。
「……本当に死にやがった」
高笑いしたい気分であるはずなのに、突然で呆気ない終わりに拍子抜けして、あたしはその場に立ち尽くす。「親衛隊」が崖の下を見て「森の中に消えたみたいです」と首を振った。
確か崖の高さは100メートル以上は確実にあったはずだ。森の木々がクッションになったとしても、まずもって助かるはずはない。
あたしの目標は達せられた。でも、何かがもやもやしている。
「……ロンナ、ミカ。戻っていいわよ」
返事がない。声の届かない場所まで探しに行っているのだろうか。
いや、そんなはずはない。あたしの「偶像の甘き調べ」は、あたしが求めたことを「信者」がやってくれる効果がある。別に声なんて届かなくてもいいのだ。
体中の毛穴から、ぶわっと汗が噴き出す。
……まさか……いや、「やはり」。
そう思った時、「フフフ」と奥から2人の人影が現れた。
「お気づきになられたようですな」
長身の眼鏡の男と、赤いドレスと髪の女。こいつらは、午前に歌劇場にいたあの2人組……!!
「やっぱり……!!ロンナとミカをどこにやった!!」
「ご心配なく。あの方々なら無事ですよ。ただ眠っていただいているだけです」
「眠っている!!?ざけんじゃねえよ、殺したんだろ!!?」
「やれやれ、麗しいご婦人がそのような乱暴な言葉遣いをされてはいけませんな」
長身の眼鏡が苦笑しながら肩を竦める。いちいち燗に障る言い方だ。
赤毛の女がロッドのようなものをこちらに向ける。
「ま、そんなわけで素直に浄化されなさいな。貴女に打てる手はもうないのよ」
「はあ??依頼人のニコラスはもう死んだわ。あんたたちがあたしをどうこうなんてする権利も何もない!!」
「お生憎様。依頼人が死のうがどうしようが、私たちがすべきことは一緒。『転生者の魂を浄化し、帰すべき所に帰す』。それだけよ。報酬は歌劇場から貰えばいいし」
チッと舌打ちし、あたしは「親衛隊」をあたしの前に展開した。いずれもデルヴァーに拠点を置く冒険者や騎士団だ。中にはレヴリア国武術会の本選まで行った凄腕もいる。
こいつらがどれだけの腕かは知らないけど、この人数差だ。絶対に勝てるわけがない。
男と女が手を繋いだ。恋人か何かか?
……いや、違う。こいつらは歌劇場でもこうしていた。これには何かしらの意味があるんだ。
次の瞬間、奴らの姿が、「消えた」。
「ぬおっ!!?」
「うがっ!!?」
呻き声と驚愕の叫びが響いた。前列にいた連中が、あっさりと崩れ落ちていく。
「野郎っ!!」
長剣を振りかざした剣士は、それを振り下ろした瞬間に前のめりに倒れた。
あたしからは、2人の人影が猛スピードで動いている残像しか見えない。男が手を出し、女がロッドを身体に触れた刹那に「親衛隊」は意識を失って倒れていく。
何なの??これは、何が起きているというの??
30人近くいたはずの親衛隊は、僅か10秒ほどで半分以上に減っていた。混乱と恐慌が場を支配するのが、あたしにも分かった。
甘く見ていた。こいつら、間違いなく場馴れしている。
あたしは大きく息を吸い込み、恩寵の発動に入った。無駄かもしれないが、やらないと負けてしまう!!
しかし、歌声は発せられなかった。いや、あたしがそれを止めたのだ。
なぜなら……親衛隊全員、そしてジェーンが意識を失い、残ったのはあたしだけになったから。
そして、鼻先に赤毛の女のロッドが突き付けられた。あたしにもう、勝ち目はない。それを否が応でも悟った。
赤毛の女が嘲笑う。
「残念。多勢に無勢、と言いたかったんでしょうけど、このぐらいならどうってことはないわ。ねえ、ハンス」
「然り。歌劇場では人数があまりに多過ぎましたし狭過ぎました。故に逃げしか打てませんでしたが、ここなら遠慮なく力を振るえます。
繰り返しますがご心配なく。全員寝ているか気絶しているだけです。貴女の『信者』の方々は全員ご無事です。標的以外は無傷、標的も無傷で浄化する。それが我々の信念故に」
……舐めやがって!
「殺すならさっさと殺せよ!!」
「いえいえ、そうはしませんよ。ねえ、ヨーリヒさん」
「……は?」
奴らが来た方向から、人影がもう一つ現れた。
……馬鹿な。身投げしたはずじゃ。
「ニコラスッッッ!!?」
死んだはずのニコラスが、哀れみの目をあたしに向ける。ハンスと呼ばれた男が微笑んだ。
「どうです、驚かれましたかな?ではこれより種明かし、及び最後の申し開きといきましょうか」