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踵を返し、ジャニスをおぶって車へと駆ける。ヨーリヒ氏の驚く顔が見えた。車が止まる前に後部ドアを開け、私たちはそこに飛び込む。
「えっ!!?もうっ!!?」
「いいからっ!!車を出して下さいっ!!」
私は恩寵の効果を切って荒い息で叫んだ。群衆が車に迫って来ている。ヨーリヒ氏は頷くと、アクセルをふかし僅かな前方の間を抜けた。
「助かりましたっ!しかし、なぜ??」
「万一何かあったら、と思って待ってたんですっ!もし戻られなかったら、私自ら行くつもりでしたっ」
「無茶な……どうなるか分かったものじゃないですよ?」
「ええ、分かってます。ただ、これ以上彼女が人を殺めるのは看過できない。それに、今のところ彼女は私に手出ししてない。貴方がたが無理なら、私がやるしかないんです」
ヨーリヒ氏としても、2人も祓い手を死なせたことの負い目があるのだろう。その覚悟と機転に、私たちは救われる格好になった。
それにしても、マリーはやはりヨーリヒ氏は操っていないらしい。恩寵の対象を任意で選べるのか?いや、むしろ……「ヨーリヒ氏が恩寵の対象にならないようにした」というべきか。しかし、何故そんなことを?
私の混乱をよそに、ジャニスが大きな溜め息をつく。唇を噛み、悔しそうに肩を震わせていた。
「お嬢様」
「……分かってるわよ。ヨーリヒさんに感謝の言葉を、でしょ。本当に助けられた、心から礼を言うわ。
……でも、私たちが逃げ切れたのはただの運。それを思うと……」
振り向くと、もう聴衆たちは追ってきていない。車と衝突し傷付くリスクまでは負えない、ということなのだろう。
私はポンと、彼女の肩に触れた。
「運も実力のうちですよ。何より互いが無事で、なおかつ私たちは誰も傷付けなかった。マリーについては、また後で考えればいいことです」
「……そうね。ヨーリヒさん、ごめんなさい」
「気にしてないですよ」とヨーリヒ氏が笑う。私はポンと、ジャニスの肩を叩いた。
車は曇天の中を進んでいく。ヨーリヒ氏の家は郊外にある。後ろからさらに誰か来ている気配がないことに、私は安堵した。
にしても、マリーをどうするか。あれでは近付くことすらままならない。
猜疑心も相当なものだ。私たちが恩寵の対象になっていないと見るや否や、すぐに聴衆を動かし捕まえようとした。居場所すら掴めないなら、打つ手はかなり限られてくる。
手っ取り早いのは実力行使だ。多少一般人に被害が出るのを承知でごり押す。多分、やってできないことはない。
ただ、それは私だけでなくジャニスも嫌がるだろう。さっき彼女が屈辱で震えていたのは、それしか選択肢がなくなっていたからに他ならない。10年前のトラウマは、まだ互いに癒えていないのだ。
ではどうする?彼女に接近しないことには話にもならない。
私は車を走らせるヨーリヒ氏を見た。もはや彼すらマリーには簡単には会えないという。だが、何故か彼だけは正気のままだ。
彼がマリーの歌を聴いていないということはないだろう。聴いた上でなお、彼だけは操られていない可能性が高い。その理由は分からないが、これを利用しない手はない。
「ヨーリヒさん、ちょっといいですか」
「え?」
「マリーは、貴方と会うことも拒んでいる。そういう理解でいいですか」
「は、はい。……実は、心当たりが」
「心当たり?」
コクン、とヨーリヒ氏が頷く。
「それは家でお話しします。今のマリーの中にいる人物が、どういった者かも含めて」
*
「どうぞ」
ヨーリヒ氏はコーヒーによく似た「マタリ」という飲み物をカップに淹れた。コーヒーと見た目はよく似ているが、より苦みと香ばしさが強い。これに大量のザラメを溶かして飲むのが、この世界の風習だ。ベトナムコーヒーに少し近いかもしれない。
「で、マリーが会うのを拒むようになった理由って?」
ジャニスの問いに、ヨーリヒ氏が一瞬言い淀んだ。
「……マリーの様子がおかしくなったのは1カ月ほど前です。聞き慣れない言葉を言ったり、聞いたこともない楽器を作って欲しいとその設計まで口出ししてきた時点でおかしいとは思いました。そこまでは、昨日お伝えした通りです。
ただ、決定的だったのは……おかしくなり始めてから1週間ぐらいしてからでしょうか。彼女が私の寝室に来たことです」
「寝室……まさか」
「ええ。『抱いて欲しい』と。マリーは絶対に、あんなことは言わない。私は拒絶しました。『どういうつもりだ』と」
「そこで確信したわけね。彼女が転生者だと」
マタリを一口飲み、ヨーリヒ氏が苦渋の表情を浮かべる。
「……ご承知の通りです。彼女は『ずっと先生のことを想っていたのに、何故断るのよ』と泣きました。ですが、マリーは色仕掛けなどする人間じゃない。
平手打ちし、『君は転生者だな』と告げると……一転して邪悪な笑みを浮かべたんです。『面白いじゃない』と」
「面白い?」
「ええ。『人の物を手に入れるなら、障害は多い方がいいわね』と。その晩出て行って、それっきりです」
ジャニスはうーんと唸って天井を見上げた。
「何かよく分かんないわね。恩寵を使ってその場で貴方を支配すればそれで済んだはずよね?何で使わないで出て行くのよ。……ハンス、貴方の意見は?」
「……少なくとも合理的ではありませんな。ただ、『支配』に対して強い拘りのある人物と見受けました」
「どういうこと?」
「本当に支配したい物は、苦難の果てに手に入れたいとする信条があるようです。あるいは、彼女にとってこれは一種のゲーム――遊戯なのです。
多分、ヨーリヒさんを支配するのはたやすい。ただ、彼が足掻いて足掻いて、本来の彼女を取り戻そうとして、それでも実現できずに時間切れを迎えるのを待っているのです。
そして、その時に屈服させることに喜びを感じる……そんな嗜虐趣味が彼女にはおありのようだ」
「……なるほどね」
ジャニスがちらりとヨーリヒ氏を見た。
多分、ヨーリヒ氏はマリーを愛している。それが1人の女性としてのものなのか、娘のような庇護の対象としてなのかは分からない。ただ、だからこそ転生者の求愛を撥ね付けたのだろう。「偽物に愛されても仕方がない」と。
それを「マリー」は察した。そして敢えて恩寵を使わず屈服させようとしているのだろう。そこからもこの人物の歪んだプライドの高さがうかがえた。
そして、それは言ってみれば「舐めプ」だ。そこにつけいる隙がある。
「とりあえず、一案は思い付きました。ただ、猜疑心が強い彼女のことです。すんなり乗るかどうかですが……」
「一案?」
「ええ。一芝居打つのですよ。そして多分、これは彼女の恩寵の効果を減じることにもなる」
「???」
私は腹案をジャニスとヨーリヒ氏に説明した。話し終わると、ジャニスは「貴方、ほんっとに性格悪いわねえ」と呆れた。その辺りの自覚はある。
「ですが、これなら彼女は恐らくは来ます。ある意味、『彼女が最も恐れていること』ですからな。
ヨーリヒさん、こちらは援護もしますが貴方の力も必要です。小芝居がすぐにバレたら意味がない」
「……自信はないですが、やってみましょう」
こうは言ったが、ヨーリヒ氏の演技力にはそこまで期待していない。猜疑心が強い「マリー」は、この真意を容易く見抜くだろう。
だが、彼女を歌劇場から引き離し、「信者」の数を減らすことが重要だ。数の不利さえ解消できれば、後は如何様にでもなる。
「では、歌劇場に連絡を。『ホープ峠にて待つ』と言付けておいて下さい」




