5-19
「来ないのか?」
アルバがオーソドックスに構えて言う。私がこの空間に連れてこられて1分。間合いを取りつつサークリングしながら、私はどうしたものかと思案していた。
互いの距離は3mもない。踏み込んで拳を出せば当たるであろう距離だ。ただ、この戦いは圧倒的に私が不利だとすぐに悟った。
理由の一つは互いの拳だ。アルバはガントレットだが、私は革のグローブ。拳を守る物の強度がまるで違う。軽さはこちらの方が上だが、当たったときのダメージは比較にならない。
一応、強力な誘眠効果を持つアマリアの汁で私の皮グローブは染められている。顔面にヒットすれば、触れるのが一瞬であっても強烈な眠気ぐらいは誘うはずだろう。ただ、ガードされるとこちらの拳がイカれる可能性もある。迂闊に手出しできないのだ。
「時を統べる者」を使い、認識できない速度で突っ込むことも考えた。普段の私なら、「10倍速」か「20倍速」を発動し、速攻でケリを付けようとしていただろう。
だが、アルバは憑依される前から「先読み」の力を持っていた。数秒後にどのような状況にあるのか、何となく知覚できるのだとかつてのアルバは言っていた。
酒の席で、戯れに彼に「5倍速」を使ってパンチを出したこともある。もちろん寸止めするつもりだったが、「あらかじめパンチがそこにくるのを分かっていたかのように」彼はカウンターの拳を突き出していた。向こうも寸止めだったが、もし食らっていたらと思うとゾッとしたのをよく覚えている。
もし私があのカウンターを食らっていたら――それはいわば、「5倍速」でのカウンターが直撃することを意味する。パンチ力は筋力ではなく速度とタイミング、そして当たり所によって定義される。つまり、「5倍速のカウンター」を食らえば――間違いなく顎の骨は粉々になっていたはずだ。
まして、「10倍速」や「20倍速」なら、それは私の骨を砕くどころか首ごと吹き飛ばしてもおかしくはない。そして、私の「恩寵」の性質をこの男はおそらく知っている。
「……これが『スティーブ・アルバ』が死合を焦がれた男か。拍子抜けもいいところだな」
アルバは薄く笑った。
「どういうことだ」
「アルバはあんたを終生の好敵手だと思っていた。自分が全力を尽くすのに足る、唯一の相手だとな。俺はその願いを叶えてやっただけだ」
刹那、奴の左拳が急に大きくなる。……速いっ!!?
バックステップで交わすが、鼻の頭に鋭い鈍痛が走った。血の臭いが濃くなる。鼻血が出たのだと、すぐに悟った。
「……ボクサー、か」
「2倍速」を使って後退し、距離を大きく取る。「フフフ」とアルバが再び笑った。
「あんた、随分前に転生した『先天性転生者』なんだろ。俺を知ってるわけもないか」
「……どういうことだ?」
「俺――上山伸介は、元スーパーバンタム級WBA、WBC王者だ。俺の名を知らない奴は、前の世界にはほとんどいなかった」
世界王者!?それも、2団体統一王者か。
道理で異常に踏み込みが速いジャブだったはずだ。私もこの世界に来てから鍛錬は欠かしていない。武道会にこそ出たことはないが、恩寵を使わなくてもそれなりに上位に食い込めたという自負はある。
アルバと仮に戦えばいい勝負だっただろうとは思っていた。もちろん、恩寵込みの話だ。仮に恩寵を使わなければ、正直勝ち目はほぼない。そのぐらい、素の実力には差がある。
「時を統べる者」なしでもそれなりにやれるよう、日々鍛えてはいた。ヴァンダヴィルの道場に通い、剣術も拳術も相応の水準にはなっている。それでも、本職のアルバには敵わない。自分の実力を過大評価するほど、私は若くはないのだ。
そして、目に前にいる「上山伸介」を名乗る男は……間違いなく強い。2団体統一王者など、私が生きていた時代にはいなかった。
「……道理で、だな」
「まだ上に行けたはずなんだがな。……伝説になる前に終わっちまった。だから、転生できて嬉しかったんだよ。俺に見合う相手がいるんじゃないかってな。
だが、正直期待外れだよ。憑依したこの男が強いというのを差し引いても」
アルバ――いや、上山は無詠唱で魔力を拳へと集めている。「朱の魔弾」の準備だと、すぐに悟った。
右ストレートと共に、朱い魔力の弾が猛スピードで襲いかかる。私はそれを避け、数メートル先の上山にステップインする。それを待っていたかのように、左アッパーが下から突き上げられた。
「くっ!?」
さらに体勢をかがめ、それをやり過ごす。頭頂部に拳がかすったのか、チリチリとした痛みが走った。
左ボディをリバーに叩き込もうと腰を落とす。刹那、右のこめかみに何かが近づいてくるのを感じた。読まれていたか!?
「ぐおっ!!?」
首を捻り衝撃を逃す。しかしそれでも鉄の塊で殴られた衝撃は重く、その場に崩れ落ちそうになった。辛うじて体制を立て直し、クリンチの要領でもたれかかる。
上山が嬉しそうに笑った。
「恩寵なしでもいいアタックだ。チョッピングライトは当たったと思ったんだがな」
「ず……随分余裕だ、な」
私はグローブを奴の頭部に近付けようとする。それを察したのか、「おっと」と上山は私を突き飛ばした。
「それで俺を眠らせようというのは考えが甘いな」
間合いができると左の速射砲が浴びせられる。今まで感じたことがないほど速く鋭く、しかも重い。ガードしている腕はたちまち痺れ、合間から拳が浅く当たった。
このままだと間違いなくジリ貧だ。世界王者というのはやはり伊達ではないということか!?
再び「2倍速」で大きく距離を取る。呆れたように上山が構えを解いた。
「恩寵は逃げるためにしか使わないのか?」
「……お前はこちらの行動が読める。迂闊に使えば、カウンターでこちらが致命傷だ」
「だが、使わなければこうやってやられるだけだ。そして距離を置いたら魔法で攻められる」
上山がシャドーボクシングの要領で拳を振るうと、朱い魔弾が雨あられのように襲ってきた。もちろん、これも一撃必殺の威力だとすぐに知れた。
回避のために「時を統べる者」を使うが、「2倍速」では対応できないと悟る。「3倍速」でさらに距離を取った。その距離、約20m。
「逃げ回るだけか……情けない奴だな。そのうちにあんたは魔力切れになり、俺にやられるだけだというのに。
全く俺に通用しないと分かっていても突っ込んできたあのザック・ウィルソンの方が、まだ勇気があるファイターだったよ」
「……そうだな。私は臆病者だ。それは認める」
接近戦ではまるで勝ち目がない。ボクシングの世界王者といってもピンキリだが、この男は……間違いなく強者だ。しかも、アルバの知識と肉体まで得ている。普通にやっていては勝てる相手ではない。
……もはや、「切り札」を使うしかない。
私は呼吸を整えた。鼻から流れる血が口を伝う。臭いが酷く不快だ。
「……一つ、聞きたい。シャキリ・オルドリッジとポーラ・ジョルディアはどこに消えた」
「ああ、その話か。確かに一騎討ちに応じることを条件に、こちらの狙いを教えると約束したな。殺す前に、そのぐらいは教えてやるか」
上山がふっと笑った。
「謝花さんたちは、今クリップスとかいう街に移動しているはずだ」
「……何だと!!?」
クリップス魔術学院には、様々な機密が眠っている。その警備体制は、生半可なモノではない。いかにオルドリッジとはいえ、単騎で突破できるわけがない。
だが、それを突破して得られる果実も、また大きい。もし奴らがクリップスまで辿り着けるのなら。そして襲撃を成功させる自信があるならば……
背筋が急に冷たくなるのを感じた。
「……狙いは、何だ」
「そこまで詳しくは俺も教えてもらっていない。ただ、俺たちが動いた目的は――最大の障害となるあんたたちをここに釘付けにし、できれば殲滅させることだ。それこそが第1の目的だ」
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。これはただの陽動作戦だったというのか!?クリップスにいるであろうレナード博士たちに、一刻も早く危機を知らせねばっ。
……だが、もう既に手遅れなのかもしれない。指名手配下にあるにもかかわらずあっさりとポルトラに入れたことからして、オルドリッジたちは転移魔法かそれに類する何かを使っている可能性が高い。既にクリップスにいるとすれば……ミミと博士が危ない。
……いや、もっと悪い可能性がある。ミミの恩寵「ハムラビの定め」の暴発だ。
3年前のことを思い出す。あの時の彼女は、狂乱のあまりに数千、いや数万の命を消し去ろうとしていた。死者が誘拐犯12人で済んだのは奇跡的とすら言える。
彼女の義体にはリミッターがかかっている。だが、それでもなお彼女の恩寵は極めて強い。もし彼女が強い恐怖を受けて恩寵を暴発させたなら――間違いなく惨劇が起きる。
私は拳を強く握った。最早猶予はない。
上山が何か魔法を詠唱しているのに気付いた。両拳がさらに朱く光っている。これは……!!?
「距離を取れば何とかなると思ったか!?……本当に期待外れだったよ、ハンス・ブッカー。アルバも買い被りすぎていたようだなっ」
上山が詠唱していたのは「朱の魔砲」。限られた魔法使いしか使えない、超威力の攻撃魔法だ。当たれば……いや、かすっただけでも致命傷になり得る。
私は確かめるように、もう一度拳を握る。完全に「切り札」を使えるだけの魔力が戻ってきた。
上山が両の拳を前に出した。
「終わりだっっっ!!!!」
閃光が辺りを包む。それと同時に、私は白い地面を蹴った。
「それはこっちの台詞だ」
逃げ回っていたのは、考えなしではない。人間の反射速度は、0.1秒。見てから動くまでに、どんなに先が読めようともそのぐらいの時間はかかる。
そして、アルバの「先読み」には実は射程がある。大体20mほど離れると、彼は未来の予測ができなかった。だからこそ、デバフで距離を強引に取り、遠距離からの魔法攻撃に徹した「パルフォールの奇術師」ヴィクトル・ウェンリーに彼は大武術会で敗れたのだ。
上山も、アルバの知識からそのぐらいは知っていたはずだ。だが、奴は前世での能力があまりに高いからか、その事実を軽視していた。自分なら、「先読み」の力などなくても勝てる、と。
その驕りが致命傷になることを、私は期待していた。
距離20m。ダッシュすれば3~4秒ぐらいで詰められる距離だ。それだけの時間があれば、十分仕留められる。
そう。私の切り札――「100倍速」なら。
上山に、少し弧を描くようにして接近する。直径3m程はあろうかという朱いレーザーのような何かが、すぐ横をゆっくりと通り過ぎるのが見えた。
そして、ほぼ止まった状態の上山の背後に回る。無論、奴は気付いていない。ここに来るまで、実際の時間では――0.03秒しかかかっていないのだから。
そして、私は渾身の一撃を腰の辺りに叩き込んだ。
「100倍速」のパンチ速度は、時速で約4000キロ。マッハ3を超える拳の威力は、簡単に人体を消失させる。
バァンッッッ!!!!
音速を超えたことによるソニックブームの破裂音。そして、骨が砕け、肉を抉る不快な感覚を拳に感じた。
「か……は……」
制限時間の0.05秒――私の体感時間で5秒が経過した時、上山の胴体には巨大な穴が空いていた。




