白羽姉妹の休日
ファーストキスはレモンの味らしい。
いつか見た百合漫画には、そう書いていた。
しかし現実になってみると、キスは背徳感と罪悪感の味。
ほっぺただからノーカンってことに、神様はしてくれそうに無かった。
結局、あの後は眠れなかった。
洗面台で顔を洗いながら、何をしてんだ私って、自問している。
なぜ。あそこで私は、唯の頬に唇を添えたのか。
その行動で得られたものがあるとしても、分からなかった。
最近は、どうも分からないことが多い。分かろうとしていないだけかもしれない。
顔を拭いた後に、唇を撫でてみたら、唯の頬の感触は残っていた。
柔らかい。けど少しだけひんやりとした感触。
なんて言えばいいのか。私の唇が頬を包み込んでいる感覚、とでも言えばいいのか。
兎も角は。とんでもないことをしてしまった。それだけは分かる。
好きなのか、と問われると違う。違う? うん、違う。
恐らく唯の影響で、私もシスコンになりつつあるだけなのだ。
と。言い訳がましく、言い聞かせ続けていると、時間はかなり経過していた。
バイトの時間を迎えて、そのまま新聞配達に赴く。
マフラーを巻いて、手袋を着けて、厚いコートを羽織る。
自転車に跨って、いつものルートを回った。ペダルは少し重かった。
やがて新聞配達が終わる。
達成感は割とあった。
伸びをして身体を反らす。
上に見える空はまだ暗く、けど奥の方は薄い。
時計を確認すれば、まだ七時にもなっていなかった。
自転車を家に戻して方向転換。
私はそのまま、堤防に向かった。
理由は特に無い。強いて言うなら、家に入るのが気まずく感じたから。例えるなら、家に帰れば親に怒られると分かっている小学生が、意味も無く寄り道をして、時間稼ぎをする様なものだった。
つまり。意味のある行動では無かった。
数分弱で堤防沿いに辿り着く。
風は少し強く、服の隙間から入り込む冷気が肌を巡る。
寒いのに。不思議と肌に心地良かった。
朝のランニングをする面々に頭を下げられ、下げ返しながら。
ただ、とぼとぼと歩く。けど、やはり。その際も、私の頭はキスの事が支配していた。
「キス……」
とんでもない二文字だと思った。
弓波侑杏との配信で『私、侑杏ちゃんのほっぺたにキスしたよー!』って言ってみたら、と空想してみる。
恐らくコメントは盛り上がる、投げ銭も沢山貰えて、登録者も増える。
そしたら新聞配達も程々に、Vに専念できそうなものだけど。
でも。私の中の何かが擦り減ってしまう様な気がしてならなかった。
「…………」
奥から陽が顔を見せてくる。
白くも見える光は、徹夜の私には少し痛い。
そろそろ帰ろうかと、踵を返した。
「ただいま」
家に辿り着き、部屋のドアを開いて、私はそう口にした。
閉じられたカーテンの奥からぼんやりと差し込む、温かな光。
ベッドの上で眠っている唯が照らされて見えた。
隣に並んで、唯の髪に手櫛を入れる。
髪は絡まることなく、スッと流れた。
こんななんでも無いことが、少しだけ特別に感じる。
そう思うと同時に、焦点が合うのは唯の頬で私は咄嗟に目を逸らした。
薄っすらと存在する眠気に任せて、私は横たわり目を瞑る。
──あぁ、私。何やってんだろ。
※
──ピンポーン♪
意識が戻ったのは、インターホンの音が入ってきた時だった。
無意識に身体を起こして、無意識にスマホを開く。時刻は13時前。
隣に唯はいない。こんな時間だ、起きているのも当然と言える。
それより、インターホンの音が聞こえた。宅配便でもきたのだろうか。
しかしどうも。起きる気が起きない。
あぁでも。唯が来客に応答してくれるだろう。
部屋の外から聞こえる足音が、それを教えてくれた。
目をゆっくりと閉じた私は、再び寝る体勢に入る。
「あーごめんなさい。もうちょい待って!」
唯の明るい声が飛んでくる。
友達なのかな。遊びにでも行くのだろう。
夜はコラボ配信らしいけど、それまでに帰って来れればいいんだけど。
思いながら、私には大して関係の無いことだと、さして気にならなかった。
「今から行きますー!」
子機に呼びかけ、ピッと電源を落とす音が聞こえる。
続く慌ただしい足音と、玄関のドアが開き、鍵が閉められる音。
数秒後に聞こえるは、家の前を通過する、二人の話し声。
一人は唯で。もう一人は──あれ? もう一人は。
聞き覚えのある声に、私はベッドから跳ね起き、カーテンを勢いよく開ける。
既視感と共に私は目を見開き、唯の隣に並んだ人物を凝視する。
眼鏡をかけた、長い髪を軽く巻いた一人の女性。
そして。高校で一番仲の良い、私の友人。
及川恵、その人物が、唯の隣に並んで、楽しそうに、笑い合って、見つめ合って、距離を詰めて、「唯ちゃん」と呼んで、それに「どうしたの」と呼ばれた人物が答えて、歳の差を感じさせないくらい仲良さげに、笑って、笑い返されて、笑って、笑い返されて、それを繰り返しながら、私の視界から消えるまで、本当に楽しげな、そんな様子で。一緒に歩いていた。
途端に。私の中に住み着いている奇妙な虫が、私の心を蝕む。
変なモヤモヤが広がって。
よくない考えが私を襲う。
なぜこんなことを思い付いたのか。
自分が恐ろしくなりつつも、でも止まれない。
少しだけ。後を尾けてみたいと思った。