2-3 別れの日
◇
「――そりゃあねぇ、怒られるし泣かれちゃうわよ」
「言葉が足りず、まことに申し訳ありませんでした……」
風呂場で髪を洗われながら、姉のあきれたような声に、ミーアは肩を落とす。
あのあと、なんとか落ち着いてもらった両親と話し、この家がいやになったわけでないことは理解してもらえた。
両親のことは大好きだし、実の子でない自分を育ててくれたことには、感謝しかない。
姉との年齢差を考えれば、母は母乳が出る状態ではなかったはずだ。
乳飲み子を育てるのも、並大抵の苦労ではなかっただろう。
だからこそ、二人に恩返しがしたい、その方法を身につけたい。
どうか、その気持ちを汲んではいただけないか――と。
何度もそう訴え、家族への心からの感謝を伝えた。
気にしなくていい、いつまでもこの家にいてくれていい――。
両親はそう言ってくれ、家を離れることに難色を示していたが、最終的には認めてくれた。
両親以上に反対すると思われた姉が、ミーアの気持ちを汲み、両親にとりなしてくれたおかげである。
ただ、無条件でというわけにはいかない。
年に一度は、必ず家に顔をだすこと。
頻繁でなくてもいいから、手紙で近況を知らせること。
その二つを約束し、ミーアは男爵家に入ることを許された。
「姉さんには、なんとお礼を言えばいいか……」
「気にしないの。私も逆の立場だったら、同じようにすると思うもの」
水くさいわよ、と笑いながら、彼女の手が頭を優しく撫でた。
「それにしても……お父さんたちに恩返しするなら、私のほうが先だと思ってたのに。ミーアに先を越されちゃったわね」
「私だって、まだ方法を見つけただけで……本当の意味で恩を返せるのは、きっと、もっと大人になってからです」
「うん……そうよね。私たちなんて、まだまだ子供だもん」
家業を継ぐつもりで手伝っている彼女だからこそ、その言葉は重みがあった。
思わず身を固くしたミーアの髪に、ぬるくなったお湯が流される。
「寂しくなっちゃうね、ミーア……っ……」
少し震えた彼女の声を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。
その言葉と、そこに込められたやさしさを噛みしめ、小さくうなずく。
「はいっ……」
姉の手でそっと肩を抱かれたミーアは、しばらく動くことができなかった。
…
翌日、村の面々に急な別れを告げた、さらにその翌日――。
ミーアは家族とともに、迎えの馬車を待っていた。
前日に、老紳士がよこした先触れの使者を通し、こちらの希望は伝えてある。
先方からの返事は、必ずやお嬢さまのご要望にはお応えしますので、安心してお待ちになっていてください――とのことだ。
指定された時間になると、例の家紋の入った馬車が到着する。
降りてきた老紳士は両親に深く頭を下げ、そうしてミーアに向きなおった。
「本日より、よろしくお願いいたします、お嬢さま」
「こちらこそ、お世話になります――なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
姿勢を正して頭を下げるミーアに、老紳士はにっこりと微笑む。
「私はロアンと申します、長らく旦那さまの秘書を務めておりました。現在はお屋敷のほうで、管理の一部を任されております」
旦那さま――つまりは男爵に、商人時代から仕えていたということだ。
手紙にもそう書かれていたが、だとするなら、実父は目の前の老紳士より年嵩なのだろうか。
そんな疑問が顔に出てしまったのか、ロアンは微笑んだまま首を振る。
「私は若いころ、旦那さまに命を救われておりまして――その恩もあり、私のほうが年上ではありましたが、下についてお仕えする運びとなったのです」
聞けば男爵は、まだ30前半という若さだそうだ。
(ということは、私が生まれたころは20そこそこ。若いな……ん?)
そんな話をしていると、ロアンの目がうっすらと潤んでいることに気づく。
「っ……ああ、失礼を。その御髪に、瞳の色……面立ちからなにから、先の奥さまに生き写しでいらっしゃいますもので……申し訳ございません」
「いえ、お気になさらず……そうですか。私は、母に似ているのですね」
生みの母親については、昨夜のうちに両親から聞いていた。
村にきて一年足らずの付き合いだったとはいうが、二人とは仲がよく、ミーアを大事に育てると聞かされ、安心して逝ったらしい。
そのことを思いだして振り返ると、二人はロアンの言葉を肯定するように、やさしくうなずいていた。
そんなしんみりとした空気の中、それまで黙っていたネリスが歩み出て、ロアンに頭を下げる。
「……妹のこと、よろしくお願いします。私の、大事な妹なんです。最近は全然ですけど、昔はよく泣いていて……そんなことにならないよう、お願いします」
「姉さん、大丈夫ですよ」
ミーアが安心させるように囁くと、ロアンも重くうなずき返した。
「この身に代えましても、お嬢さまはお守りいたします。私だけでなく、旦那さまも同じ気持ちでいらっしゃいますので――どうぞ、ご安心くださいませ」
そこまで言ってもらうのは面映ゆく、恐縮させられるが、彼の本心だというなら心強いことではある。
ロアンの言葉で安心した姉と、両親に向きなおったミーアは、これまでの礼を伝えるように、晴れやかな笑みを浮かべて口を開いた。
「それでは、父さん、母さん――姉さん。行ってまいります」
少し声が上擦ってしまい気恥ずかしかったが、三人はただ、やさしい笑みを向けてくれる。
「……身体に気をつけてな」
「あなたが元気でいてくれることが、母さんは一番うれしいんだからね」
「家のことはお姉ちゃんに任せて、ミーアは好きなことしてらっしゃい」
そんな思いやりに満ちた言葉に見送られ、ミーアは馬車に乗り込んだ。