7.5-6 お母さん
◇
そして、その日の夜のこと――。
「――でね? そのときのミーアったら、すぐに棒きれつかんで、飛びだして行っちゃったのよ。お父さんが、慌てて追いかけてくれたけどねー」
「ふぁ……んぅ、ねりひゅ、おねえひゃま……その話、三回目れふ……」
そう返事をしながらも、レティシャが眠気をこらえて耳を傾けているのは、それが敬愛する姉の幼少期を語るものだからだ。
とはいえ、さすがに同じ内容がくり返されては、飽きもこようというもの。
それでなくとも今朝は、収穫のためにずいぶんと早起きしていたし、その収穫作業で身体も疲れきっている。
布団の上で、くったりと力尽きかけてしまっても、仕方のないことだ。
「姉さん、レティはもう限界でしょうから――ん、レティ?」
「そうねぇ、もう寝ちゃったみたい。お布団、ちゃんとかけてあげてね」
先ほどのつぶやきが、意識を保てた最後のひと言だったのだろう。
枕を抱くように丸まり、くぅくぅと寝息を立てる妹は、天使のような寝顔を晒していた。
相好が崩れそうになるのを懸命に食い止め、キリリと引きしめた表情で布団をかけてやると、ミーアも自分の寝床へ戻る。
「……姉さん、ありがとうございました。こんな遅くまで、レティに付き合っていただいて」
「なに言ってるの、かわいい妹の妹が相手なんだもん。まだまだいくらでも、お話してあげられちゃうよ?」
そんな言葉どおり、ネリスにはたしかに、疲れた様子は見られない。
収穫作業は午前で終わったが、それから汗を流したあとは、夕刻までレティシャを案内し、あちこちを歩いて回っている。
農作業の慣れがあるとはいえ、姉の体力も相当なものだ。
「あ、そうそう――忘れるとこだったわ」
そんなことを考えていると、ネリスが不意に立ち上がり、壁際へ向かう。
そこには、幼いころに二人が共用していた、小物用の棚が置かれていた。
「一応、ただ起きてただけじゃなくてね……こっちが本命の用事だったのよ」
そう言いながら、引きだしを開いた彼女は、小さな箱を手に戻ってくる。
「レティシャに見てもらってもよかったんだけど、この子はなにかと気が回るし、頭もいいでしょ? 気を遣わせちゃったら、可哀想だもんね」
短期間で、妹の気質をすっかり見抜いてしまった姉の洞察力に感服しつつ、ミーアは差しだされたその箱を受け取った。
「……開けてもよろしいですか?」
「なにかは聞かないんだ?」
意外そうな姉の反応に、フッと唇が緩む。
「先ほどの物言いと、状況からして……産みの母に関係するものでしょう?」
「……うん。本当は、男爵家に行く前に渡したかったみたい」
木箱を開くと、白い布地で覆われた台座に、赤い宝石をあしらったペンダントのトップがおさめられていた。
「だけど急な話で、手入れなんかもできてなかったからね。次に帰ってくるまでに仕上げようと思って、すぐに職人さんのとこに預けたんだって」
それがつい先日、メンテを完了して戻ってきたらしい。
両親が直接、手渡さなかった理由は、姉と同じ考えからだろう。
レティシャに気を遣わせるような話を、居合わせた場でするはずもない。
彼女が寝入ってから渡せるよう、姉に託しておいたのだ。
「……きれいですね、とても。それに――大事にされていたことが、わかります」
今回のメンテナンスで施された修繕だけでなく、古い修理のあとがいくつか見受けられ、この石が歩んできた過去を感じさせる。
何度、母の手に触れ――何度、その目に映ったのだろう。
「ミーアに渡してほしいって、言っておられたそうよ」
「……そう、なのですね」
顔も覚えていない――けれど、自分にそっくりだという実母。
彼女がいたから――そして自分を守り、生き抜いてくれたから。
いまの自分はここにいられる、生きている。
大勢の愛すべき家族に、友人に恵まれ、幸せな人生を歩めている。
言いようのない想いが胸に込み上げ、目頭が熱くなった。
「……っ……ありがとう、ございます……お母さんっ……」
母がなにを思い、どのような最期を迎えたのか、想像もつかなかった。
かつての自分は、突発的な行動で反射的に動いてしまい、なにかを考える間もなく命を失っている。
なにかを思う時間などかけらもなかったが、十二分に時間があったとしても、待ち受けるのは避けられぬ悲劇だ。
その時間を座して待つというのは、想像すらできない恐怖もあっただろう。
母が想っていたのは娘のことか、あるいは夫のことか。
自分を抱き、あやしながら、まもなく命が失われるという状況に瀕して、それでも強くあったのだろうか。
死ぬ前にひと目、夫に会いたいと願っていたかもしれない。
そんなことを思いながら、赤く澄んだ宝石を見つめていると、ふと気づく。
これはきっと、男爵が母に贈ったものなのだろう。
根拠はない――だが、わかる。
母親との思い出は残せず、父親のこともなにひとつ伝えられなかったが、それでも――彼女の歩んだ人生そのものを、この石に託したのだ。
自分はもう傍にいられないが、これを自分だと思って――。
あるいは逆に、せめて宝石だけでも一緒に過ごしてほしいと、願ったのかもしれない。
思い出であり、絆であり、ともすれば実父の手がかりにもなろう。
いつかミーアが、これをつけて町に出かけて――それを男爵が目にし、家族の時間が動きだすのを、母は期待していたのだろうか。
それとも――。
「……これは、お父さまにお渡しするべきでしょうか」
最後に、父の手の中に戻りたかった――そう母が願っていたとしても、なにもおかしな話ではない。
自分に幸せな人生を残してくれた母に、なにか恩を返せるのだとすれば、最愛の人の手元に、届けてあげることではないのか。
そうしたい――だが、自分の勝手な想像で、判断してよいものだろうか。
逡巡するミーアの頭に、フワリとやわらかな手が触れる。
「――いいんだよ、それで」
「姉さん……」
息がかかるほどの至近距離で、姉の大きな瞳が見つめていた。
「それはもう、ミーアのものなんだから。ミーアのしたいようにしてあげたほうが、きっと……お母さんも、喜んでくれるよ」
ううん、と彼女が小さく首を振る。
「絶対に――だね。ミーアのお母さんは、そんな風に言ってくれる人だよ。私が保証してあげる、それなら安心でしょ?」
「っ……はいっ……」
最後を看取り、娘を託した友人夫妻――それが、養父と養母だ。
その娘である姉が言うのなら、これ以上の保証はないだろう。
「では、そのように……心のままに、従おうと思います。お母さんを――お父さまのもとに、帰して差し上げようかと」
「うん……それがいいと思う、私も賛成」
ミーアの判断こそが最良だと、姉が微笑む。
そんな二人を見守るように、赤い宝石は静かに輝いていた。




