2-1 謎の来訪者
それから三年の月日が流れ、ミーアは10歳を迎えていた。
性格の変化に困惑していた家族や周囲も、いまやすっかり落ち着きを取り戻し、現在のミーアを受け入れている。
そのおかげなのか、ミーアの強さを認め、心酔するようになった少年たちは、彼女に剣を習う門下生となっていた。
その一番手は、なんとユリアンである。
門下生が増えたとなれば、いつまでもパンローラーとはいかない。
ミーアが少し成長したこともあり、いま稽古に使っているのは、森の樫の木から時間をかけて加工した、通常よりは短めの木刀だった。
そこで見かける動物や植物からして、生態系においても、日本や地球のものとさして変わらないことがうかがえる。
多少の疑問はあったが、生前の知識が使えるならと、さほど深く考えることはなく、門下生全員に木刀は用意された。
竹があればなお望ましかったが、贅沢は言えないだろう。
(しかし――いまさらだが、師範代ですらない自分が指導というのは、少しおこがましかったかもしれないな)
前世の祖父と父、そして姉に心の中で頭を下げておくが、言ったことを違えるわけにもいかない。
そうして指導を続けているうち、門下生の年齢層も拡大しており、中にはユリアンのように、すでに教会の教育課程を修了している少年たちもいた。
姉のネリスも卒業済みで、いまは配達の仕事だけでなく、店番や会計はもちろん、すでに帳簿付けまでこなせている。
当時から片鱗はあったが、この三年でさらに美しく成長した姉は、すっかり看板娘としての立ち位置を確立していた。
以前、母に話して叱られた酢リンスについても、効能を示すことで認められ、ネリスを含めた母娘三人は、村中の羨望を集める美髪となっている。
同年代の少年にとってはマドンナであり、少女たちにとっては頼れるリーダーという存在なのだから、当然、コナをかける男はあとを絶たない。
そうした魔の手から姉を守るのも、この三年間で力をつけ、剣技にさらなる磨きをかけた、ミーアの仕事だった。
そのミーアは教会で勉強する立場になったのだが、教わる内容は予想どおり――というより姉から聞いていたとおり、日本語と四則計算である。
計算記号やアラビア数字も同じで、範囲は日本の小学校で習う半分ほど。
やはり日本と関係がある世界なのか――。
それとも、記憶を取り戻したミーアの脳が錯覚しているだけなのか。
ミーアは時に悩みながら、日々、剣を振り続けていた。
…
そんなある日のこと――。
教会から帰ってきたミーアは、家の前に、一台の豪奢な馬車が停まっていることに気がつく。
「珍しいな、こんな馬車が村に……これは、貴族のものか?」
村には行商人が訪ねてくることもあって、馬車自体は珍しくない。
しかしそれらはいわゆる幌馬車で、人を運ぶというより荷運びが専門の、荷車のようなものだ。
これほど豪奢な、それもあきらかに家紋と思われるレリーフが彫られたものは、いままで見たことがなかった。
「しかもうちに……ただパンを買いにきた、というわけではなさそうだが」
近辺で貴族といえば、領主のレイクス伯爵だろうか。
我が家がなにかしら伯爵の不興を買い、その制裁としてここまできた――貴族社会においては、ありえる話かもしれない。
(しかし、そこまで剣呑な気配はないな……)
中の気配を感じ取りながら、馬車の様子も調べてみるが、残っているのは御者だけで、荒くれ者や私兵が控えてもいなそうだ。
わざわざ家紋入りの馬車を使っているのだから、要人がきているのは間違いないだろう。
とはいえやはり、用向きは見当もつかなかった。
(……父さんを、自宅のパン職人として招聘する、とか? まさかな……)
いっそ御者に聞いてみようかと近づいた、そのとき――。
「いまさら何様のつもりだっ、ふざけたことをぬかすなっ!」
「えっ――」
いまのは父の声だろうか。
温厚な父にしては珍しい怒声に、ミーアが慌てて入口に駆け寄ると、叩きだされるようにスーツの男性がころがり出てくる。
ロマンスグレイの髪を撫でつけた、いかにも執事といった風貌の老紳士――といっても、50くらいだろうか。
その彼は倒れたままで、なおも訴えかけていた。
「ご無礼は承知の上で申しております、どうかお話だけでも――」
「うるさい! あんまりしつこいと、ただじゃおかんぞっ!」
興奮冷めやらぬ様子で叫ぶ父の手には、パンローラーが握られており、このままでは老紳士の身が危ぶまれる。
ミーアはとっさに割って入り、倒れたままの彼を助け起こした。
「大丈夫ですかっ……おケガは?」
「いえ、私めは問題ございません……お気遣い、いたみいりま――」
そう答えた老紳士の目が、なにかに気づいたように大きく見開かれる。
それをいぶかしがる間もなく、ミーアの腕は父の手に強く引かれた。
「ミーア、そんなやつは放っておいていいから、家に入りなさい」
「父さん……お年を召された方にこのような無体、いかがなものでしょうか。悪行はいつか、自分に返ってくるものです」
「む――いや、それはだな……」
老紳士をかばい立ち、諌めるミーアの言葉に、父もなにやら返答に困ったような反応を見せる。
しかし、背後で立ち上がる気配を見せた彼は、深く頭を下げた。
「いえ、私どものほうにこそ非がございます。もう一度、明日にでも出直させていただきましょう……お嬢さん、かばっていただきありがとうございました」
そんな彼の言葉に、父は再び目を剥き、腕まくりをして怒鳴りつける。
「二度とくるなと言ってるだろうがっ!」
「父さん! いいから、家に入っていてください!」
これでは話にならない――父親をなんとか店内に押し戻したミーアは、老紳士を振り返り、深く頭を下げた。
「父がご無礼をいたしました。穏便になどとあつかましいことは申せませんが、なにとぞご容赦を、お願いいたします」
「……いいえ。先ほども申し上げましたが、悪いのはこちらなのです。ご主人のお怒りようも、無理はございません」
老紳士はそう言って微笑み、懐から上質な封筒を取りだす。
「お父上の気持ちが落ち着かれましたら、こちらをお渡しくださいますよう、お願いできるでしょうか?」
「承りました……この封蝋は、馬車のものと同じですね?」
彼の背後に置かれる馬車を見て、ミーアがたずねる。
イカリに海蛇のような竜が絡みついた、どちらにも共通する紋章――。
「はい――こちらはレイクス伯爵領に隣接しております、ミルロワ男爵家の家紋でございます」
そう答え、老紳士は改めて深く頭を下げると、馬車に乗って去っていった。