7.5-1 カップの犠牲は無駄にしない
「そろそろ、生家のほうに帰ろうかと思うのですが」
そんなミーアの言葉を聞いた瞬間、レティシャの手元からこぼれ落ちたカップが、ソーサーと打ち合わさって、見事に砕け散る。
「いやですっ! お姉さま、お願いですっ! 悪いところは直しますからっ、レティを見捨てないでくださいっ!」
「……すまない、言葉が足りなかったな」
カップの後始末をするメイドたちに視線で謝りながら、すがりついてくる妹を抱きとめ、なだめるように頭を撫でるミーア。
「帰るというより、一時帰省かな……年に一度は顔をだすようにと、姉さんや父さんたちから言われているんだよ」
避暑から帰ってふた月あまり、季節は秋になろうかというところ。
身辺やレティシャとの関係が落ち着いたこともあり、いまがその機会ではなかろうか、ということだ。
「いかがでしょうか、お父さま」
「うん、いいんじゃないか。あちらのご両親も、喜ばれるだろうし」
年に一度、ミーアに顔をださせることが引き取りの条件だったこともあり、男爵がそれに難色を示すことはない。
「私もご挨拶に伺えればいいんだけど、残念ながら、色よい返事はいただけていなくてね……」
男爵も、両親とは手紙のやり取りをしているのだが、アイリーン――ミーアの実母との関係から、まだよい印象は与えられていないようだ。
その状態で里帰りについて行こうものなら、監視しにきたのではと勘ぐられ、印象はさらに悪化しかねない。
「父が申し訳ありません……私のほうからも、とりなしておきますので」
そう答えはするものの、この件について強情な父を軟化させるのは、なかなかに骨が折れるだろう。
母や姉がそうしていないはずもないのだが、それでもなお、男爵に心を許そうとしていないのだから。
「はは……そうしてもらえると、助かるかな」
ロアンからの話で、その人となりを聞いているらしく、男爵も、仕方ないなという様子で苦笑いを浮かべる。
「送り迎えの馬車は、必要な荷物や人員と一緒に手配しておこう。くれぐれも、気をつけて行っておいで」
サラとハインはぬかりなく連れていくように、ということだ。
「はい、ありがとうございます――そういうことだから、レティ?」
男爵の言葉に素直にうなずきつつ、ミーアは妹の頭を撫でる。
けれど、いまだお腹にしがみついたままで離れない彼女は、イヤイヤをするように大きくかぶりを振った。
「いやな予感がするんです……行ってしまったきり、お姉さまがもう、戻られないんじゃないかって……」
「そんなつもりはないよ。かわいいレティが家で待ってくれているのに、帰らないわけがないだろう?」
万が一、ミーアがそう言ったところで、それを許す従者たちではなかろう。
首に縄をつけてでも、連れて帰られるに違いない。
(まぁ、むざむざ縄でくくられるなんてことには、ならないと思うが――)
いや、いま考えるべきは抵抗の手段ではなく、妹の説き伏せ方である。
泣きじゃくる妹の頭を撫でながら、どうしたものかとミーアが考えあぐねていると、壁際に控えていたメイドが静かに口を開いた。
「お嬢さま、僭越ながら――私に考えが」
「サラ、妙案がありますか?」
困った様子で彼女を振り返ると、サラは自信ありげにうなずく。
「レティシャお嬢さまも、お連れしてはいかがでしょう」
「えっ――」
「行きますっ! お姉さまっ、ご一緒させてくださいっっ!」
突拍子もないサラの言葉に、ミーアが困惑する間もなく、妹は瞬時に涙を止め、はっきりとそう宣言した。
「い、いや、しかし……それは、お父さまがなんとおっしゃるか――」
「ライラとアラドも連れていくなら、私はかまわないよ。もちろん、ルフィーナに聞いてからにはなるけどね」
「わかりましたっ、すぐに確認してまいりますっ!」
行動の早い妹は即座に食堂を飛びだし、夫人の執務室へ駆けていく。
それを見送る――というより、止める隙もなく呆然とするミーアに、サラは首をかしげた。
「なにか不都合でもございましたか、お嬢さま?」
「いえ、その……名案だとは思います。ただ、アルーヌ村は、本当に田舎の村ですから――」
その理由を語ろうかというところで、出ていったときと同じ勢いで、レティシャが駆け込んでくる。
「お母さまも許してくださいましたっ!」
「は、早かったな……だが、うん……二人がおっしゃるなら……」
村までの道中、および村の中でも、危険という危険は存在しない。
仮になにかがあろうと、レティシャを守る心積もりはある。
その上で――両親の許可もあるなら、ミーアに拒否する道理はない。
「では――レティも一緒に行こうか、アルーヌ村へ」
「はいっ、お姉さまっ! ありがとうございますっ!」
お礼を口にすると同時、彼女はいつものように、勢いよく飛びついていくる。
このクセはいずれ、矯正しなければならないだろうか――。
「ただ……いくつか言っておかなければならないことがある、約束もだ」
満面の笑みを浮かべる彼女を撫でながら、ミーアはそう告げる。
「これを忘れたり、たがえたりするようなら、その時点で屋敷に帰ってもらうつもりだ。それを踏まえ、心して聞いてくれ」
「は、はい……」
そうしてミーアが語るのは、アルーヌ村の暮らしについてだ。
広大な伯爵領の一部とはいえ、東端の農業地域であり、生活にしろ交通にしろ、男爵領にくらべて不便なことは多い。
物資も潤沢とはいえず、贅沢などもってのほかだ。
もとよりレティシャは贅沢を好む子ではないが、だからといって、男爵家のご令嬢が、満足に暮らせる場所とは言いがたい。
「――なにもない田舎で、退屈することもあるだろう。そのことは、あらかじめ伝えておく……現地についてから、不平をもらさないようにしてくれ」
まだ8歳の少女には、少し厳しい言い方になってしまっただろうか。
しかしミーアにも、こう言わねばならない理由がある。
そんな姉の意図を察したのか、否か。
先ほどまでのように即答することはなく、レティシャは時間をかけ――ゆっくりと言葉の意味を飲み込み、深くうなずいた。
「はい、承知いたしました。ワガママはけして申しませんし、すべてお姉さまのお言いつけに従います」
小さな両手が、ミーアの手を取り、キュッと包み込む。
「レティは、お姉さまのお育ちになった村を目にできるなら、それだけで幸せです……お姉さまのご家族にも、ぜひご挨拶させてください」
「……そうか。うん、そうまで言ってくれるなら……」
幼い彼女が、自分の意図を――育った村を、悪く思われたくないと。
そんな気持ちを理解し、それはありえないことだと口にしてくれた。
見くびっていたことを詫びるように、ミーアは彼女を抱きよせる。
「……私のほうからお願いするよ。一緒にきてくれ、レティ」
「はい! 喜んで、ご一緒いたしますっ!」
胸に抱かれた妹は、まるで想い人に抱かれているかのように――蕩けきった、甘い笑みを浮かべていた。




