1-2 身体の記憶
◇
翌朝、ミーアは早くから厨房に立っていた。
昨日までは長く流していた黒髪も、生前にそうしていたように、頭の高い位置でポニーテールのようにまとめている。
「ミーア? どうしたんだ、こんな朝早くから」
「たまたま目が覚めまして。なにかお手伝いできることがありましたら、申しつけてください」
ミーアの生家は、パン屋を営んでいた。
パン作りを担当する店主はもちろん、父のジョン。
母のアンナは店番をし、配達があるときはネリスが届けに行っている。
そうなると、ミーアの役割はなんだろうか。
(……一応、片づけの手伝いなんかはしていたつもりなんだがな)
そもそもの知識不足もあるが、おとなしい性格と体力のなさも影響し、あまり役には立てていなかった気がする。
(ともかく、ひとつずつ改善していくしかないのだろうな)
そう考えて、今朝から気持ちを新たに、手伝いをすることに決めたのだ。
性格については、ある程度は解消できているだろう。
そして作業の手伝いや片づけについては、こちらも問題はない。
ミーアが見てきた光景と、生前の結月が持ち合わせていた経験と知識を照らし合わせることで、今日にかぎってはそれまでより、格段に役立つことができた。
「ミーア……いや、驚いたぞ。ずいぶんと勉強してくれたんだな、助かったよ」
手放しで褒めてくれる父の言葉に、ミーアは恐縮しつつも頭を下げる。
「お役に立ててなによりです。ただ、まだまだ力不足のようで……」
「なに言ってるんだ。お前くらいの年で、これだけできれば十分だよ」
大きな手でミーアの頭を撫でると、父は歯を見せて笑った。
「少しずつできるようになればいいんだ。さ、今日はもういいから、外で遊んでおいで」
「……はい、ありがとうございます」
朝の営業が落ち着いたところで、そう送りだされるミーアだったが、腕力と体力の低下――もとい不足は実感している。
(これは、早急に鍛えなおさねばな……)
そう思い立ったミーアは、休憩に入ろうとする父の背に呼びかけていた。
「すみません、父さん。先ほど見かけたのですが、差しつかえなければ――」
…
父の快諾を得たミーアは、その手に木製のめん棒――パン作りローラーを握り、身体に染みついた素振り稽古をおこなっていた。
ただの木の枝では軽すぎ、かといって木刀のようなものがあるかといえば、もちろんない。
その代わりにと父に借り受けたのが、この使われなくなったローラーだ。
発注の際に手違いがあったのか、納品されたこれは通常のものより長く、パン作りには使いにくくなっている。
そのため、新しいものを手配してからは棚にしまわれていたのだが、小柄なミーアの素振り棒としては、この上なくぴったりだった。
(思ったより重量があるな、いまの腕力とのバランスもいい)
そんなことを考えながら素振りを続けるが、本来こなしていた数の半分どころか、四分の一もこなさないうちに、身体が悲鳴を上げ始める。
(はぁ、なんてひ弱な身体なんだ……)
思わず我が身を嘆くが、それも仕方のないこと。
いまのミーアは、いままでろくに運動をしたこともない、7歳の少女なのだ。
しかもただ得物を振るだけではなく、振り抜きに合わせて、すり足による体重移動や、各種足さばきも必要となる。
前進と後退、左右や斜めへの移動に加え、上段からの振り下ろし、袈裟がけ、斬り上げ、突き、払い――。
それだけの種類を腕だけでなく、全身を使っておこなうということだ。
並の体力を持つ大の男でさえ、大多数が弱音を吐くだろう。
そもそもの素振りの数からして、同年代の女子や剣道部に話したところ、なんの苦行だと突っ込まれていたことは、さておいて――。
「まったく、これでは稽古にならないな……」
今後はランニングなども取り入れ、腕力だけでなく体力作りにも励む予定だったのだが、基礎体力の低さが予定を狂わせてきそうだ。
汗を拭きつつ、木陰に腰を下ろして小休止していると、村の教会のほうから、数人の少年少女がやってくるのが見える。
その中には、姉の姿もあった。
(姉さん……そういえば、姉さんはもう10歳だったか)
村の教会は、いわゆる寺子屋のようなこともやっている。
子供たちは10歳になると、義務教育のような形で教会に通い、一年から二年ほどかけて、読み書きと計算の基礎を習うのだそうだ。
朝は家の商売や畑仕事を手伝い、それが終われば教会に。
午後からは自由になることが多いようだが、繁忙期なら手伝いを、そうでないなら遊ぶ、というのが子供たちの過ごし方だ。
そうして12歳になれば、ほぼ一人前という扱いを受け、本格的に家業を継ぐため、働き始めるものらしい。
ミーアの家ならパン屋、それ以外にも商売をしている家は商売を、あるいは村の仕事である農作業を、といった形である。
伯爵領の穀倉地帯というだけあり、多くの家は農家で、収穫期には家業を問わず村全体で、農作業に従事する決まりとなっていた。
(私もそのころまでには、納得できるだけの体力を戻しておきたいが――)
そんなことを思いながら、教会帰りの子供たちを見つめていると、その視線に気づいたネリスが周囲に声をかけ、こちらに走ってくる。
「ただいま、ミーア! こんなところでなにしてるの、お昼寝?」
「おかえりなさい、姉さん。お疲れさまです」
すくと立ち上がり、きれいなお辞儀で出迎えたミーアは、手にしていたパンローラーを示した。
「私はこれを使い、素振り稽古をしていました。いまのままでは、腕力にも体力にも、大きな不安がありますので」
「すぶりげいこ?」
「こういったものです――はっっ!」
正眼から振りかぶり、すり足とともに振り下ろす――唐竹、真向と呼ばれる太刀筋である。
腕力不足から鋭さはいまいちだったが、見ていたネリスは目を丸くし、パチパチと手を叩いた。
「すごいわミーア! 本物の騎士さまみたいよ、見たことないけど!」
「ありがとうございます。お目汚しでなかったなら、幸いです」
そんな会話をしていると、姉と連れ立っていた子供たちも集まってくる。
その中には、帰り道で拾ったのか、頑丈そうな木の棒を持った、例の少年――ユリアンもいた。
「昨日はすまなかったな、ケガはもういいのか?」
不意打ちだったとはいえ、気絶するほどの一撃を入れたのだ。
気遣うように声をかけるが、彼は真っ赤な顔で、枝を突きつけてくる。
「うるせぇ! 泣き虫ミーアのくせに……もう一回、俺と勝負しろ!」
なかなかの鼻っ柱の強さだ、とミーアは少し感心させられた。
しかしそれは、蛮勇というものだ。
「私はかまわないが……いいのか? この身体では、あまり手加減できないぞ」
「なっ……このっ、バカにしやがって!」
おそらく教材や筆記用具が入っていたのであろうカバンを投げ捨て、彼の両手が木の棒を握る。
はっきりと身構えられたのであれば、もはや見逃すことはできない。
剣士にとって得物を構えられるのは、宣戦布告も同然だ。
「ちょ、ちょっとユリアン、やめなさいよっ!」
「うるせぇ! ブスは黙ってろ!」
諌めようとする姉への暴言に、ミーアの瞳がスッと細められる。
「――かまいません、姉さん。すぐに終わらせます」
「もうっ、ミーアまで!」
どうやって止めたものかと苦悩するネリスとは異なり、周囲の学友たちはおもしろいことが始まったと囃すように、遠巻きに見物していた。
子供たちに囲まれた範囲をリングと定め、ミーアはルールをあらためる。
「武器を落とせば負け、ということでどうだ? 痛い目に遭いたくなければ、武器を捨てればいい」
本来なら気を失うまでというルールにするところだが、姉があれだけ心配しているのに、危ない取り決めにはしたくなかった。
これならば相手にケガさせることなく、無力化できるだろう。
「はっ、上等だ! いつもみたいに、ピーピー泣かせてやるよ!」
どうやって泣かせてくれるのか見ものだ、ミーアは余裕の笑みを浮かべた。
「では姉さん、合図をお願いします」
「巻き込まないでよ、もうっ! 知らないからね!」
観念したようにネリスが片手を掲げ、それを振り下ろす。
「は、始めぇっ!」
「おりゃあっっ!」
姉の声が響くより早く、ユリアンが不意打ち気味に殴りかかってくる。
昨日のミーアの一撃に対する、意趣返しというところか。
合図より早い攻撃に、周囲からもあっと非難するような声が上がった。
とはいえ、その程度の動きでは、不意打ちと呼ぶのもおこがましい。
予備動作も見えみえで、なにより声まで上げて襲いかかってくるのだから、攻撃の軌道もタイミングも、手に取るようにわかる。
それを見据えていたミーアは、先端を下げたパンローラーを、相手の振り下ろしに合わせて勢いよく跳ねさせた。
「――――はっっ!」
「いぎぃっっ!?」
刹那、ユリアンの悲鳴が上がるも、手を打ったわけではない。
ミーアの振ったパンローラーは、彼の握る棒を下から、柄の部分を跳ね上げるように叩いており、得物だけをはじき飛ばしていた。
飛び抜けた棒に手をこすられた痛みくらいは、我慢してもらおう。
「いだっっ、だっっ……いでぇぇっっ!」
「なかなか鋭い振りだったが、動きがおおげさだ。もっとコンパクトにしろ」
宙を舞い、落下してくる棒をつかむと、地面をころげる少年に差しだす。
「まぁ、我流では限界があるだろうがな――型を習うつもりがあるなら、指導するくらいはかまわないぞ」
ユリアンは悔しそうな顔をしていたが、差しだされた棒と投げ捨てたカバンをつかみ、そのまま走り去ってしまった。
「むぅ……やはりこういう勧誘は、私には難しいな」
前世でもそういった仕事は、姉や母がやっていたことを思いだす。
いずれにせよ、強引に引き入れたところで、本人にその気がなければ、剣が上達することはない。
彼の自主性に任せることとし、ミーアは再び、素振り稽古に戻る。
そんな淡々とした姿と、先に見せた一瞬の立ち合いのギャップに、居並ぶ子供たちが言葉を失い、呆然としている中――。
「はぁ~……ミーアって本当に、すごいのねぇ」
ネリスだけが、そう感嘆するような声をもらしていた。
要するに、握っていた棒を振り下ろした瞬間、手の中からスポーンと抜けた感じです