7-1 心地よい目覚め
「ん……あ……朝、か――」
閉められたカーテン越しにもわかる、まばゆい朝の光に照らされ、ミーアはうっすらと目を開いた。
少し頭はぼんやりするが、昨夜のことは覚えている。
そしてベッドで目覚めたということは、無事に帰ってきたということだ。
それにしても、あれだけ疲れていたというのに、寝坊することなく起きられるとは思わなかった。
(やはり高校生とは違う、子供の身体だけはあるな――)
体力のタンクは小さく、消耗は早いが、その分だけ回復も早いのだろう。
ただ、体力が戻ったからといって、すべての疲労が抜けたわけではない。
起き上がろうとするだけで、腕や脚の筋肉がひきつるように痛みを発し、肩の傷口もズグッと激しく疼いた。
「つっ……はぁ、まったく……本当に軟弱な身体だ……」
傷のほうはともかくとしても、筋肉痛のような痛みについては、ミーアの鍛錬不足と言わざるをえない。
十数年ほど鍛えた前世の肉体であれば、いかに実戦で酷使したとて、翌日にこんな痛みが残ることはなかっただろう。
三年と数ヶ月ほど、基礎的な鍛錬をしただけの幼い身体では仕方ないが、もっと己を鍛え直さねば――と、ミーアは改めて気持ちを引きしめていた。
(……とはいえ、どうしたものかな)
無理に起きるのでもいいが、痛みにフラついていたのでは、家族にいらぬ心配をかけてしまいかねない。
ここはやはり、そのうち起こしにくるであろうサラに、助力を求めるべきか。
そんなことを考えていると、ちょうどよいタイミングでドアがノックされる。
「――失礼いたします、お嬢さま」
(おっと……これは、サラにしては珍しい)
朝とはいえ、返事を待たずに入ってくるというのは、少なくともこれまでのサラには見られなかったことだ。
なにか急ぎの用事だろうか、そう思ったミーアはなんとか身体を起こし、入室した侍女を迎え入れる。
「おはようございます、サラ。なにかあったのですか?」
腰を下ろしたままヘッドボードにもたれかかり、行儀の悪さを気にしつつ問いかけると、こちらを見た彼女の目が見開かれた。
そして、その手にあった洗面器が、支えを失ったようにすべり落ちる。
「サラ、大丈夫ですかっ? どうしたのです、そんな顔をして――」
「ぉ――お嬢、さま……お嬢さまぁっっ!」
「な、なにごとですかっ……んぐぅぅっ!?」
お湯を床一面にまき散らすという粗相をしでかしながらも、サラはそれに頓着することなく、ベッド脇にひざまずき、ミーアにすがりついた。
(いっっ――づぅっ……ぐっ、身体に響くっ……)
予想外の行動による不意打ちが、思ったほどでないとはいえ、かなりのダメージを筋肉に刻み込む。
そんなミーアの苦悶に気づくことなく、サラはわんわんと泣きじゃくり、ミーアの腰を抱いて、布団越しの太ももに顔をうずめていた。
「お嬢さまっ、よかった……よかったです、意識が戻られて――ひぐっっ、えうぅぅっ……」
「それは……心配してくれていたのですね、ありがとうございます」
言いながら彼女の頭を撫でつつ、ミーアはクスリと笑う。
「まぁ、出ていった状況もあれでしたから、その心配はわかりますが……たかだかひと晩、眠っていただけですよ? 少しおおげさでは――」
「なにを言っておられるのです、お嬢さまっ……」
おやと思う間もなく、泣き濡れた顔を上げ、サラが声を震わせた。
「お嬢さまが出ていかれたのは、一昨日のことですっ! お嬢さまは昨日、熱にうなされながら、一度たりとも目を覚まされなかったのですよっ!」
「なんと――」
彼女の口からもたらされた衝撃の事実に、ミーアはしばし絶句する。
うなされていた――つまり悪夢を見ていたという記憶はないし、今朝の目覚めもすっきりとした心地よいものだった。
たしかに、やや身体が固まった感覚はあるが、着衣の下が、汗などでベタついた感覚はない。
とはいえそれは、彼女がぬぐってくれたのだろう。
そうした看護を受けなければならないほど、身体は疲労しきっており、一日以上の休息を必要としたらしい。
「――それは……気の毒に」
「他人事のようにおっしゃらないでくださいっっ!」
ごもっともなお叱りを飛ばしながら、再び涙目になり、サラはミーアの手をそっと包み込んだ。
「お嬢さまにもしものことがあれば、私は後を追う覚悟でおりました……」
「――サラ、そんなことは許しません」
反射的にそう返すが、彼女の瞳には揺るがない決意が見られる。
「はい……ですからどうか、お嬢さまも御身を大切になさってください。私の命も背負っているとなれば、少しは無鉄砲もお控えくださるでしょう?」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
いや、もとより軽々に命を落とすつもりなどないが、自分の蛮勇に彼女を付き合わせかねないとなれば、より考えて行動するようになるだろう。
「……だからといって、命を賭け金にしないでください」
「お嬢さまの理性を信じてのこと。勝率が高いものは、賭けではありません」
「詭弁です、それは……」
ああ――どこかでそう指摘され、意見を押しきった記憶がよぎる。
そんなミーアの懊悩を知ってか、サラはにこやかに微笑んだ。
「もう、お嬢さまをお止めするつもりはございません……こうした危機も、お嬢さまならば乗りきってくださるものと、信じております」
ですから――彼女はそう、重ねて告げる。
「どうか、御身をお大事に……残された者を、悲しませないでくださいませ」
「……はい、申し訳ありませんでした」
そういえば、あの無茶な飛びだしも、昨夜――ではなく、一昨夜か。
その夜の森での騒動についても、まだ詫びていなかった。
「本当に、心配と苦労をかけてしまって……申し訳ありません、サラ」
「お嬢さまの侍女ですから、それはもう、いたし方ありません」
その納得――もとい、開き直りはいかがなものか。
しかし彼女の言葉はあきらめたというより、むしろうれしそうで、どこか誇らしげにも見えた。
「その分――こうした状況で、最初にお嬢さまとお言葉を交わせるのです。少しくらいの気苦労など、飲み干してみせましょう」
「はは……今後は、なるべく控えるようにします」
なぜそこまで、彼女が慕ってくれるのかはわからないが――。
もう少し令嬢らしく振る舞い、彼女を心安らかにしてあげたい。
ミーアはそう、ひそかな目標を立てておいた。
…
その後、お湯と布巾で丁寧に身体をぬぐってもらいながら、ミーアは身体の感覚を確認する。
熱が出たというのはおそらく、肩の傷が原因だ。
いまだに痛みはあるが、包帯と軟膏のおかげで、ずいぶんと楽になっている。
ならば、皆の前に出る前に、お湯に浸からせてもらえないだろうか。
そう申し出たミーアに対し、サラはこう答えた。
では、お医者さまに伺ってみましょう――と。
お願いしますと素直に答えたのは、あまりに軽率であろう。
…
「お義姉さまっっ! お義姉さまっ、お義姉さまぁっ……よかったぁぁ……」
半分は想定内、半分は想定外、といった事態だった。
医者に許可を求めれば当然、その医者を呼んだ男爵――つまり父や、家族一同にも伝えられる。
熱にうなされ、目を覚まさなかった娘が起きたと聞かされれば、一同がそろって駆けつけてくるのは、自明の理というもの。
けれど、その先頭に立ってくるのがレティシャになろうとは、予想だにしていなかった。
「……私は大丈夫だよ。心配をかけてすまなかった、レティシャ」
「お義姉さまはっ、なにも悪くなんてっ……全部、私がっ……私が、悪かったんですっ、お義姉さまぁっ……」
先のサラの反応も相当だと思っていたが、レティシャの号泣ぶりはそれを上回っている。
腰の下まで覆った布団にしがみつき、顔をうずめ、涙はその下までをしっとりと湿らせていた。
ミーアが戦う姿を間近で見ていたこともあり、気が昂っているのだろう。
そんな彼女を気遣い、なだめていると、ベッドを取り囲む親戚一同の隙間からひょっこりと、背の低い老人が顔を覗かせた。
「失礼いたします、お嬢さま。ちょいと、お肩を拝見――」
「お医者さまですか、よろしくお願いします」
やさしそうな老人は、レティシャを無理に引き剥がすようなこともせず、その様子をにこやかに見守りながら、肩を触診する。
寝かされたときに着替えさせられたのか、ミーアが着ているのはバスローブのような前開きの服で、それをはだけて診察されていた。
「いやぁ、すばらしい回復力……傷はほとんど塞がっておりますし、熱が引いたということは、悪い毒素も残っておらんでしょう」
傷を化膿させる菌のたぐい、ということだろうか。
言いながら医師は、生々しい傷を家族の目に晒さないよう気を遣いながら、包帯を替えて薬を塗りなおし、入浴の許可をくれる。
「ただし、包帯の範囲はなるべく濡らさぬように。湯から上がられましたら、またお呼びください。包帯は交換いたしますので」
肌に触れる感覚が、先ほどの包帯とは少し異なっていた。
おそらく伸縮には乏しく、水に強いタイプの包帯なのだろう。
「ありがとうございます。では――浴室まで手を貸してもらえますか、サラ」
…
ミーアがそう言った数分後には、大きなバスタブがえっちらおっちらと、部屋まで運び込まれていた。
男爵夫人がレティシャを説得し、なんとか姉の身体から引き離すと、一同は部屋をあとにする。
ミーアとしても、そのまま入浴まで見守られるのかとヒヤヒヤしていたが、そうならずに済み、ホッとしていた。
「それにしても――まさか、部屋で入浴できるとは思いませんでした」
「……私としましては、浴室へ行くつもりだったとは、思いもしませんでした」
まったくお嬢さまは――と、やさしい声でつぶやきながら、サラは丁寧にお湯をすくい、髪についた石けんの泡を流してくれる。
湯は、頭を差しだしたバスタブの外に流れるが、床を濡らすことはない。
バスタブは、大きなお盆というべきか――ビニールプールのような受け皿の中に置かれており、外に流した湯はそちらへ流れ込む。
受け皿にはホースもつなげられ、排水は別の袋へ注がれる形だ。
バスタブから減った分は、新たに沸かされ、足されていく。
数人がかりでの入浴介助は、自分が重病人にでもなったようで、妙に落ち着かない気分にさせた。
(しかし――こうして見ると、よくわかる……全員、まぎれもないプロだ)
包帯を濡らさないというオーダーはもちろん、部屋にも水をこぼすことなく、ミーアの髪と肌を丁寧に磨きあげていく。
それでいて身体の、特に筋肉痛のある部分などには負担をかけない。
世話をする相手を心地よくしようとする技術、あるいは心というものに秀でた面々であることは、疑いようがなかった。
「……勉強になります、私も見習いたいものですね」
「申し訳ありませんが、お嬢さま――」
ミーアの考えているところをすぐさま察したように、サラがため息をもらす。
「今後は、お嬢さまのメイドとしての働きを禁ずるようにと、きつく仰せつかっておりますので」
「――そう、でしたか」
あれだけの無鉄砲、かつ勝手な指示をして、事態を大きく、深刻なものにしたのだから当然だ。
これまでは目をこぼしてもらっていたが、今後はそうした行動を禁じ、おとなしく令嬢として振る舞えというのだろう。
「……わかりました、私はそれでかまいません」
「ご承知いただき、私どもも安心しました」
「ただ……レティシャがどう思うか、それだけが気がかりです」
流れで姉と呼んではくれたが、それで自分が調子に乗って、メイドであることをやめたと思われはしないだろうか。
自分が目覚めたとき、彼女は泣きついて無事を祝ってくれたが、それとこれは別の話ではないかと思われる。
彼女の態度が少し軟化したからこそ、改めて気を引きしめなければ。
勝って兜の緒を締めよ、というやつだ。
そんな風にミーアが考えをめぐらせていると、周囲のメイドたちは、なにかを言いたいけど言えないという様子で、うずうずしている。
その空気を感じ取ったのか、彼女らを代表するように、サラが告げた。
「お嬢さま、ご心配にはおよびません」
「私もそう思いたいですが……どうして言いきれるのですか?」
不安げな面持ちのミーアに、はい――とサラがうなずく。
「――仰せになったのは、レティシャお嬢さまご自身でございますので」




