6-5 奮闘
◇
人とは異なる気配ゆえに、少し気づきにくくはあったが、虫の声がやみ、流れてくる空気に獣の匂いが混ざれば、察することはできる。
耳を澄ませば、グルグルと低くうなる声が響いており、ゆっくりと近づいてくるのが感じられた。
ミーアは手近な枝にランプをかけ、木刀を引き抜き、身構える。
「お、お義姉さま、どうしたの……?」
独特の害意を感じ、気配を張りつめさせたミーアの背に、レティシャが怯えた様子ですがりついた。
「下がって……いや――」
獣が狩りをするなら、囲みを作ってから――弱いほうを狙う。
気配は前からの一匹だけだが、ミーアが気づいていないだけで、背後や左右の茂みに伏せているかもしれない。
(まずはレティシャを逃がさねば……)
もちろん、前や後ろに走らせるなど論外だ。
逃げた獲物を追うのも、狩りをする獣の本能なのだから。
「――レティシャ、落ち着いて聞いてほしい。難しいことは言わない、言ったことだけを考えて動いてくれ、いいな?」
「は……はい、お義姉さま……」
ミーアの張りつめた声音と緊張感から、ただならぬ気配を察したのか、彼女は従順に答える。
その弱々しい声音が、ミーアを奮い立たせた。
彼女だけは、なにがあろうと守ってみせる――と。
「ランプを置いて、ゆっくりついておいで……ころばないよう気をつけて」
先ほどランプを枝にかけたその木は、周囲のものより立派で、頑丈そうだ。
前方の気配に意識を向けたまま、木の傍まで近づき、幹の様子を確認する。
(……これなら、なんとかなるか?)
幹にはほどよいコブやくぼみが多く、剪定された枝の付け根なども、足場のように出っ張りを作っていた。
根元には、間引かれたのであろう切り株もあり、なお都合がいい。
手順を組み立てたミーアは木の前でしゃがみ、蹲踞の体勢で構えなおすと、背後に隠したレティシャに告げる。
「切り株に右足を乗せ、左足を私の肩に――右手は、目の高さにあるくぼみにかければ、登りやすくなるはずだ」
「のぼっ……お、お義姉さまっ、私っ……木登りなんて、したこと――」
「……落ち着いて、レティシャ」
突然の状況で、彼女が混乱するのも仕方がないことだ。
焦らせないよう、落ち着いた声音でやさしく言い聞かせていく。
「少し複雑な階段を上がるようなものだ……手順は私が教えるし、どれだけ失敗してもいい。登りきるまで、私が必ず守ってみせる」
「っ……わ、わかっ……わかり、ましたっ……」
泣きだしそうな声をもらしながらも、彼女は涙をこぼすことはなく、激しく取り乱すこともなかった。
言われたとおりに足を乗せ、ミーアの肩に体重をのしかからせる。
「お義姉さまっ……い、痛く、ない……ですか?」
「ああ、平気だ――そうすると、左手が枝かコブにかかるだろう? それをつかんで身体を支えたら、私の肩を足場にして、右足を持ち上げる――」
「っ……はいっ……」
切り株に乗せた足を、少し上の枝に乗せかえ、くぼみにかけた手も、それに合わせて上の枝へと移す――。
そうした一連の動作をすぐに理解してくれたのか、彼女は力強く左足を踏み込んで、ミーアの肩を蹴った。
わずかにかかとのふくらんだ彼女の靴は、そこにかかる体重もあいまって、容赦なく素肌を削り、骨肉をえぐろうとするが、ミーアの身体は揺るがない。
「あうっ……ご、ごめんなさい、お義姉さまっ……」
「大丈夫、痛くはない。落ち着いて……もっと強く蹴ってもかまわない」
「はぁっ、はっ、はいっ……んっ、くっっ……」
ガツッ、ガシッと何度もかかとが食い込み、容赦なく肌が裂かれる。
いや、肌だけではない――肉までが削られ、鈍い痛みが走るのと同時に、その奥から熱いなにかがあふれるのを感じた。
(出血したか……レティシャの足が、すべらなければいいが――)
そちらも気にはなるが、深刻なのはもうひとつの問題だ。
(っ……きたな――)
血の匂いに誘われたように、暗がりから『それ』が姿を見せる。
「グルッ……グルルッ、ガルゥッ……」
獲物が負傷したことを喜ぶかのように、涎を滴らせた大口が、牙を剥いて嗤っていた。
想像していたより大型の、おそらくは野犬のたぐいだろうか――それが地を掻くように足を進め、にじり寄ってくる。
「ひっっ……だめっ、お義姉さまっ……もうっ……」
「大丈夫――やつは近づけない。私が、近づけさせないっ……」
言い放つと同時に深く息を吸い、そしてすべてを吐きだす。
ただの深呼吸ではなく、空手でいうところの息吹のようなもの。
精神を安定させ、肉体を強固にし――意識を研ぎ澄ませていく。
(さぁ、こい――かかってくるがいい……動いたときが、お前の最期だ――)
両目はまっすぐに野犬を見据え、向けた木刀の切っ先から、相手を威圧するような鋭い気を放ち、叩きつける。
それは俗に、殺気と呼ばれるものだ。
「グルゥッ……グルッ、グッ……フッ、フッ……」
野生の中でもありふれた、純然たる敵意を向けられた野犬は、すぐさまこちらを警戒しなおし、円周をたどるような動きで、遠巻きにねめつけてくる。
また少し、時間を稼げそうではあるが――もって数分というところだ。
(レティシャが避難するまでは、いくらでももたせるつもりだが――)
そのときにはなるべくなら、爪や牙が突き立てられていないことを願う。
でなければ目の前の獣と、その仲間までを相手取るのは、なかなかに厳しい。
「ぁ――お義姉さまっ、届きましたっ……」
そう考えながら牽制を続けていた矢先、そんな声が耳を打った。
「よしっ――ぐっ……ぅっ……なら、次が最後だ――」
わずかに気が緩みそうになるが、痛みが肩を突き抜けたことで引きしめなおし、ミーアは蹲踞の姿勢を維持したまま、次の指示をだす。
「右の手足で身体を支えて、今度は左足を持ち上げるんだ……右手をかけている木の枝がいい。そこに跨れば、なんとかしのげるだろう」
「えっ……で、でもっ、それじゃ――」
「……かまわない。いいか、思いきり蹴って上がるんだ。届かなければ、また肩に足を下ろせばいい……私のことは、踏み台だと思ってくれ」
彼女の左足――肩に乗せられた足が、逡巡するように体重を浮かせた。
すでに幾度も踏みにじり、蹴りつけ、そこが傷だらけになっていることは、彼女も察しているだろう。
そこに再び体重をかけるばかりか、今度は失敗すれば、勢いのついた足が振り下ろされ、傷口を踏みにじることになるのだ。
人の痛みがわかるなら、されるより、するほうが痛いかもしれない。
「がんばれ、レティシャ……ここを乗りきれば、私は剣を振るえる。そうすれば、こんな獣ごとき相手ではない――何十匹いようと、すべて片づけてやる」
「お義姉さま……っ……わかりましたっ……」
ミーアの言葉をどこまで信用してくれたかはわからないが、意を決した彼女は足をつけ、そこに思いきり体重を乗せる。
「いきますっ……くっっ……あっ――」
かかとが傷をえぐり、重みが跳ねたが――すぐさま足は叩きつけられ、骨にまで響いたのではと思うような痛みが、身体の奥に突き抜けた。
「ぐっ……大丈夫か、レティシャ? 落ちていないな?」
「は、はいっ……でも、お義姉さまがっ……」
「私は平気だ……きみがあきらめないなら、いくらでも支えてみせる」
彼女を勇気づけるよう、声を震わせることなく告げ、木刀を握りしめる。
痛みを押し殺し、代わりに殺気を剥きだしにし、目の前の獣をこれでもかと威嚇し続けていた。
表情もまるで歪ませず、目をそらしもせず、ただ冷徹に獣を見据えている。
それこそ――相手が飛びかかってくれば、すぐにも喉笛を打ち抜けるように。
「さぁ、続けて――」
「――はいっ」
レティシャのほうも、ようやくためらいが消えたようだ。
自分が早く登れば、それだけミーアが楽になる――。
そのことを意識してか、容赦なく脚を振り上げ、肩を蹴りつけ、懸命によじ登ろうと動作を繰り返していた。
そうして、十数回ほどの挑戦を続けたところで――。
「んぐっ、うぅぅっ……の、ぼれっ……ましたっ、お義姉さまっ!」
「よしっ――よくやった、レティシャ!」
彼女の歓喜の声が響き、痛みをえぐっていた重さが消える。
もはや左肩の感覚もかなり薄れてはいたが、ジクジクとした熱い疼きが残っているということは、神経に異常はないようだ。
(ああ――それなら、十分だ)
剣さえ振るえるならば、なんの支障もない。
…
「待たせたな、かかってこい――」
蹲踞の姿勢から腰を上げ、正眼に木刀を構える自分の姿は、獣の目にどう映っているだろうか。
顔は汗に、肩口は血にまみれ、付近には泥や砂が跳ねてもいるだろう。
気力でごまかしてはいるが、痛みも相当なものだ。
表情は取り繕っているが、そんな疲弊の色が態度ににじんでいたのか。
それとも、レティシャの安全を確保できたことで、殺気が緩んだためか。
「グルルゥッ……フッ、フゥッ……ガァッ……」
遠巻きにしていた獣が再び嗤うようにうなり、距離を詰めてくる。
(くるかっ……)
前傾の低い姿勢から、地をすべるように駆け、獣は一瞬で眼前に迫っていた。
斜走というのか、跳ねるように斜めから飛びかかる動きは不規則で、闇雲に打ちかかれば狙いをたがえ、致命的な隙を生んでしまうだろう。
だが、ミーアにとっては、けして見切れない動きではない――。
(――待て、なぜ容易に見切れる?)
獣が跳ね、向かって右――左前足の爪が振り下ろされようとしている。
ミーアの行動は当然、それを外側へ回避しつつ前に出て、すれ違いざまに胴をなぎ払うこと――。
「ぐっっ……そういうことかっ――」
背後からヒタリと迫った気配に、ミーアは全力で反応していた。
右に流れかけた身体を無理やり制止させ、すんでのところで逆へ引き戻す。
刹那、鋭い爪が空を切り、服の肩部分を大きく引き裂いた。
そのまま右に流れていれば、死角から迫る爪と牙に、肩から背中までが裂かれていたかもしれない。
かろうじて奇襲をまぬがれたミーアは、前からの攻撃を木刀で受け流しつつ、左側をすり抜け、立ち位置を入れ替えた。
振り返ったミーアの前には、二匹目の獣が姿を現しており、獲物を狩りそこねた苛立ちに、牙を剥いて威嚇を放っている。
「道理で――ずいぶんと、おとなしかったわけだ……」
先ほどまでの遠巻きな動きは、警戒していたのもあるが、二匹目が配置につくまでミーアたちを逃がさないよう、時間を稼いでいたということだ。
野生にしては動きが緩慢だったことも含め、こちらの気を引き、背後からの奇襲へ誘い込むことが、一匹目の役割だったらしい。
「お、お義姉さまっ……」
「レティシャ、絶対に下りるな――」
そちらに目も向けず、冷たく鋭く、ミーアは告げる。
(ひどい言い方になったな、すまない……だが、ようやく――)
痛みで鈍っていた感覚が、再び研ぎ澄まされていくのを感じる。
周囲の気配をさらに深くたどるが、相手はこの二匹のみ――群れから離れたはぐれ者、というところか。
(それだけならば、後れを取る理由はない――)
ケガの具合、残る体力と気力、そして相手の数と強さ。
すべてを勘案した上で、ミーアは勝てると断じていた。
心は波打たない水面のように静まり、木刀に血が通うような感覚が伝わる。
その気配の変化に、獣たちはうろたえたようにも見えた。
しかし、最近はロクな獲物にありついていなかったのか、ここで逃がす手はないと考えたらしい。
二匹は同時に身を低くし、左右から挟み込むように襲いかかってくる。
「ギャウウゥゥゥッッ!」
前がかりになって先に飛びかかってきたのは、二匹目の個体だ。
大型の一匹目より、ひと回りほど小さい体躯ではあるが、その分だけ速い。
だが、それだけだ――。
愚直に正面から襲ってくるなど、速さの優位を放棄したも同然である。
「痴れ者が――はっっ!」
爪による引き裂きではなく、致命的な一撃を見舞おうとするように、大口を開いて噛みついてくる獣。
ミーアの突きだした木刀は、その無防備に晒されたやわらかな喉笛へ、吸い込まれるように突き立てられていた。
「グギュゥンッッ!?」
衝撃と痛みにはね飛ばされた獣は、悲鳴のような声を響かせ、もんどり打ってころがる。
たしかな手応えが木刀には残っており、十秒や二十秒で復帰できるような、生半可なダメージでないことは明白だ。
地に伏せ、カフカフと咳き込むように悶える獣を視界端に捉えつつ、ミーアはすぐさまもう一方に目を向け、突きだした木刀を上段に構えなおす。
突きの速さ、正確さ、ダメージの大きさに、切り替えの早さ――。
そのすべてが規格外であり、自分たちにとっての脅威なのだと、獣はいまさらながらに気づかされていた。
だが、もう遅い。
先の犠牲者と同じく跳躍していた獣には、加速も減速も、身をひるがえすこともままならない。
「ああああぁぁぁぁ――っっっ!」
咆哮のような気合いの叫びを響かせながら、ミーアは躍りかかる獣の頭に、ためらいなく木刀を振り下ろした。
――ガッッッ……ゴスゥッッッ!
人の骨格とは異なる、野生の大型獣であることを実感させる硬さと衝撃が、木刀を伝って手のひらを痺れさせる。
そして――その何倍もの衝撃と痛み、そして混乱が、黒い獣の思考と感情を大きく狂わせた。
「グギャンッッ、ギャウゥゥッッ!」
苦しげな悲鳴を上げながら、獣はたたらを踏むようにフラフラとし、意識が朦朧としているのがわかる。
それでもなんとか踏んばり、もがいていたもう一方のもとへ近づくと、撤退を指示するように小さくうなった。
気のせいかもしれないが、その目にはミーアに対する恐怖がにじんでいる――そんな風にも見えた。
「――去れ。私とて、血肉にならん獣を狩るつもりはない」
近隣の村や、人里に仇なすというなら話は別だが――いずれにせよ、いまの状況では去ってくれるほうがありがたい。
もちろん、姿が見えなくなったとて、楽観視できるわけではないが。
ともあれ、ミーアの言葉が通じたのか、そもそも余力がなかったのか――。
フラつきながらも立ち上がった獣たちは、まさしく這う這うのていといった様子で、林の奥へ姿を消す。
茂みをかきわける音が小さくなり、やがて消え――しばしの静寂が、あたりを支配していた。
十数秒か、数十秒か、あるいは数分――。
呼吸すらひそめ、周囲の気配を念入りに探っていたミーアはやがて、ひとまずの安全を確保したことに、安堵の息をもらす。
そして――それが限界だったとばかりに、ガクリと膝をついた。
「…………はぁっ……ぐっ、うぅっ――」
「お義姉さまっっ!?」
「だ、めだっ……まだ、下りるなっ……そこにいろっ……」
「ですけどっ――」
慌てて飛び降りようとする義妹を制し、木刀を杖代わりにして、ミーアはなんとか身体を支える。
そして、別荘のほうから向かってくる明かりを見て、唇を緩めた。
「大丈夫だ、迎えがきた……私たちがここにいることを、知らせてくれ……」
出血と疲労、そして張りつめた緊張の糸が切れたことで、もはや声にも覇気が感じられない。
そんな義姉の様子に血相を変え、レティシャは枝のランプに手を伸ばし、それを掲げて大声を上げる。
「ここよっ、こっちにきて! 早くっ……このままじゃ、お義姉さまがっ――」
明かりが激しく揺れ、慌ただしく近づいてくる様子からして、無事に声を聞きつけてくれたらしい。
視界がぼやけていく中で、自分や義妹の名を呼ぶ声を聞きながら――安心したミーアの意識は、そこでぷっつりと途絶えた。
噂では結月のころ、熊を狩ったこともあるらしい




