5-4 レイクス伯爵と伯爵夫人
◇
男爵領から、王都街道を北へ向かうと、伯爵領を横断する領道へつながる。
その十字路から西へ進めば、その行きつく先は目的地となる高原だ。
男爵家の四人と従弟のリュナン、それぞれの侍女、侍従に護衛――。
それだけでも十五人という大所帯だというのに、それ以外にも荷物や人員を加え、ずいぶんな貴族行列となって、一行は避暑地へ向かう。
幾度かの休憩を挟み、馬を替え、気がつけば周囲の風景は、いかにも高原らしいものに変化していた。
白樺などの林が見えるようになり、一面に草原が広がるといった景色も増え、心なしか空気も澄んでいるように感じる。
極めつけは気候、そして気温だ。
かなりの高地まで進んできたのか、周辺も馬車の中も、すっかり涼しくなっていることには驚く。
それはあるいは、ただの高低差による気温変化ではなく、この世界の法則によるものなのかもしれないが――。
「もうそろそろつくよ、レティ」
「うん、楽しみね。伯父さまたちに会えるのも、久しぶりだもの」
窓から景色を眺め、二人が楽しそうにしているなら、それでよかった。
それにミーア自身、こうした避暑地への旅行というのは初めてで、いまさらながらに昂揚していたりもする。
なにしろ前世で山や高原といえば、レジャーではなく、道場の合宿というサバイバルだったり、部活の合宿という鍛錬だったりしたのだから。
(――まぁ、それはそれで、存分に楽しませてもらったがな)
なんだかんだ、周囲から引かれるくらいに鍛錬が好きだった彼女にとっては、内容が過酷であればあるほど、やりがいがあったのである。
(そういえば、別荘での鍛錬はどうしたものか……習慣どおりの生活でいいというなら、いつもどおりにさせてもらうか? しかし、風呂はどうしようか……)
そんなことを考えながら、二人の邪魔にならないよう眠ったふりをしていたミーアは、いつしか本当に眠気に襲われ、寝入ってしまっていた――。
…
(ん……ここは、いったい……あれは――)
自意識はあるが動けない、いかにも夢といったシチュエーションの中で、目の前ではレティシャが、林の中を駆けていた。
周囲がほの暗いのは、夢の曖昧さによるものか、夜明け前だからか。
ともかく暗闇を駆け抜けた彼女がたどりついたのは、広く美しい湖だった。
『……ふんっ……これがなくなれば、どんな顔するかしらね……』
チャプンッとなにかが投げ込まれ、暗い湖にそれが沈み込んでいく。
『いい気味よ、あんたが悪いんだから……私のものに手をだす、あんたが……』
どうやらそれは、『あんた』とやらの大事なものだったのだろう。
沈みゆくなにかを見つめ、彼女の顔は複雑に歪んでいた。
(……それが私のことなら、あれは……木刀?)
樫が素材なのだから、浮かないこともないとは思うが、おそらく沈む。
とはいえ立ち合いにも使う木刀は、いわば消耗品だ。
折れたところで、また作るだけ――手間はあるが、困るほどではない。
(だから――そんな顔をしないでくれ、レティシャ……)
その歪んだ顔は、嗜虐による愉悦ではなく、その逆――。
自らの行為に対する、嫌悪と後悔に苛まれ、泣きそうになっているものだ。
(いいんだ……君は、そうする権利がある……だから、泣かないでくれ――)
もっとも、実際には彼女が、こんなことをするわけがない。
両親――特に母親から与えられた高潔な精神は、どんな理不尽に遭おうとも、彼女を人道からはずれさせないはずだ。
仮にしたというなら、相応のことを、彼女にしでかした者がいる。
(……いや、だからそれは、私になるのであって……ん、あれ……?)
そうして――報復対象を探していると、不意に身体がガクンッと跳ねた。
…
「ん――はぁ、いけない……どうにも、この揺れは眠気を誘うな……」
尾を引く眠気から解放され、傾いていた頭を持ち上げると、馬車が止まろうとしているところだった。
先ほどの揺れは、車輪が石でも噛んだのだろう。
そのことを裏づけるように、馬車のドアが軽くノックされた。
「申し訳ございません、とんだ粗相を……おケガはございませんか?」
「私は平気です……レティシャたちは?」
同じ馬車で移動していた二人を見るが、リュナンは大事ないという様子で微笑み、レティシャはミーア同様に眠っていたのか、目をこすっている。
なにが起きたのかも、まだ把握できていないようだ。
「三人とも、問題はありません。到着しましたか?」
「はい、さようでございます。いま、開きますので――」
御者がそう言ったところでドアが開き、外の光が差し込んでくる。
草木が香る、高原の爽やかな匂いが、風とともに流れ込んだ。
「長旅、お疲れさまでございました」
「こちらこそ、運転をありがとうございました」
差しだされる手を取り、ステップを踏んで降りると、眼前には目を見張るような大邸宅が置かれている。
「これが――」
「伯爵家の別荘です。驚かれましたか、従姉さん?」
振り返ると、同じく手を借りて降りたリュナンが、まだ眠そうにしているレティシャに手を貸し、降車を手伝っていた。
「ああ――驚いた。こんな大人数で大丈夫なのかと、心配していたんだ」
「住み込みの管理人や、料理人などもいますからね。奥は使用人が住める、寄宿舎のようになっているんです」
なるほど、それなら収容には困るまい。
手前の屋敷部分だけでも男爵邸より遥かに大きく、その奥のホテルのような建物が寄宿舎ということか。
管理するだけでも、大勢の人間が必要だろう。
(こうしたところにも雇用があるなら、勤め先として考慮できるな……)
そんなことを思いながら、両親らと合流し、屋敷へ案内される。
こういうとき、荷物を下ろさなくていいのかと心配するのは、やはり平民ならではの感覚なのだろうか。
荷下ろしをする使用人たちに感謝しつつ、ミーアも玄関へ向かった。
…
出迎えるひと組の夫婦に、使用人たち――という光景には、どこか既視感がある。
「やあ、いらっしゃい。新しい家族に会うのが楽しみで、待ちわびていたぞ」
「リュナン、ご迷惑はかけなかったでしょうね?」
そう言って微笑むのは40代くらいの、いかにも上位貴族といった貫禄のある、レイクス伯爵夫妻だ。
「ご無沙汰しております、レイクス伯爵――いえ、トラルディ殿」
「ははは、ハンクは変わらんな。妹を泣かせておらんようで、なによりだ」
男爵の挨拶に応じる紳士が、夫人の兄、レイクス伯爵らしい。
ダークブラウンの髪を、ゆとりのあるオールバックに固め、いかにもダンディな雰囲気ではあるのだが、瞳には年若い、少年のような輝きが浮かんでいる。
薄く澄んだグリーンの瞳は、兄妹なだけあり、男爵夫人によく似ていた。
「兄さんったら、疑ってもないくせに……お久しぶり、エイプリル義姉さん」
「ルフィーナ、元気そうでよかったわ。私のかわいい姪っ子もね」
男爵夫人の抱擁を受けて微笑む淑女は、伯爵夫人。
非常に洗練された気品からして、おそらくはどこか、さらに上位の貴族から嫁いでこられた方だろう。
リュナンによく似たアッシュブロンドの髪には艶があり、たたずまいも、まるで隙がない淑女の雰囲気だというのに、笑みには人懐っこさがあった。
「トラルディ伯父さま、エイプリル伯母さま、お久しぶりですっ」
本当ならカーテシーを披露したいのかもしれないが、まだ習っていない未熟な仕草では失礼だと思ったに違いない。
レティシャはスカートをつまむことなく、しゃがんでくれた伯爵夫妻に抱擁し、その親愛の情を伝えていた。
「ははははっ、よくきたレティ! リュナンに泣かされておらんか?」
「なにかあったら遠慮なく言うのよ。娘を泣かせる男には、容赦しないから」
両親の言葉にリュナンが苦笑し、レティシャは困ったように首を振る。
「リュナンはとってもやさしい、素敵な婚約者です」
それを聞いて安心したように、夫妻は立ち上がり、彼女の頭を撫でた。
「ほう、それはよかった。私も愛しの息子を、勘当せんで済むよ」
「まったくですわ、あなた」
これは、リュナンもずいぶんと振りまわされていそうだ――そんなことを思っていると、全員の視線がゆっくりと、ミーアのほうへ向けられる。
それを待っていたわけではないが、まるで主役のようになってしまった。
とはいえ、この状況で待たせるわけにもいかないだろう。
ミーアはスカートをつまみ、軽く膝を折り、目を伏せるように頭を下げた。
「――お初にお目にかかります、伯爵、伯爵夫人。縁あってミルロワ家に引き取っていただきました、ミーアと申します。どうぞ、お見知りおきください」
一瞬、相手を見定めようとする――というべきか。
そうした鋭い視線を感じ、肌がわずかにひりついた。
しかしそれは警戒というより、それを受けてミーアがどう反応するか、そこをうかがっているようにも感じられる。
だからこそ、ミーアは動じなかった。
教えられた時間どおりの礼を済ませ、ゆっくりと頭を上げる。
いつものようにまとめていた髪が、スルリと首筋を撫で、背中に流れた。
時間にして二秒ほど――。
わずかに流れた沈黙を、伯爵の満足げな笑いが破る。
「ふっ――いやぁ驚いた。ずいぶんと鍛えられているようだね、ミーア」
やはりなにかの試験だったのだろうか。
しかしミーアとしては、これほどの達人に褒められることなど、いまだなにひとつ、なしとげてはいない。
「過分なお言葉、おそれいります」
そんな言葉を返しながらミーアは、改めて伯爵を見つめる。
偉丈夫というのがぴったりだろうか、その体躯は背丈、肩幅ともに大きく、対面しているだけでも気圧されかねない。
普通に立っているだけだというのに、まるで隙が見当たらなかった。
いや、実際にはいくつかあるのだが、それはおそらく誘い込むためのもの。
好機と見て切りかかろうものなら、その瞬間に刈り取られる――。
頭の中で軽いシミュレーションをしたが、どうにも打ち込めそうにない。
「――どうかしたかね?」
「いえ……まいりました」
「はぁっはっはっはっ! 初対面で挑んでくるとは、実に頼もしい!」
剣に通じた者の、ほんのたわむれのようなやり取りに、周囲はポカンとしていることだろう。
「私はカーテシーの美しさに感心していたというのに、あなたは違うようね」
伯爵夫人はあきれたように夫を見つめ、ミーアの前にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさいね、うちの人が……ところで、いまのはなにをしていたの?」
妙に目がキラキラしているのは、結局のところ夫人も、伯爵と同じ気質の持ち主ということだろう。
おもしろいもの、変わったことに目がないように思われた。
「私が剣をたしなんでいると、お気づきになったらしく。ひとかどの剣士であるかどうか、確認してくださったようです」
「んまー、こんなかわいいお嬢さんに! なんてことかしら!」
おおげさに叫んだ夫人は、夫をからかうように睨んでいる。
「それで、この人はなんと言っていて?」
「……可もなく不可もなく。これからも精進せよ、かと」
自身の感触を忌憚なく伝えると、背後で伯爵が小さく笑った。
「いやいや、そこまで厳しくはしとらんよ。良と判断し、この調子で励めというところだな、うむ」
伯爵、それも武門の棟梁であるような人物に認められ、つい心がはずむ。
いや、ここで心を浮つかせてはいけない。
「それは……ありがとうございます。お言葉に恥じぬよう、研鑽いたします」
表情を変えずに告げたつもりだが、真正面からジーッと見つめていた伯爵夫人には、その内面の変化が手に取るようにわかったのだろうか。
「ふふっ……かわいいわねぇ、ミーアも。やっぱり女の子っていいわぁ」
「おたわむれを――わぶっ、うっ、くっ……」
伯爵夫人はレティシャにしたように、ミーアもその腕の中へと、強く抱きしめるのだった。




