1-1 妹と姉
◇
「――ってことがあったの。もう大変だったのよ」
夕食の席にて、身ぶり手ぶりを交えて語られる姉の説明に、母は困った顔を浮かべ、父は腹を抱えるように笑いだす。
「ははははっ、そうかそうか! まさかミーアがなぁ……くっ、ははははっ!」
「あなた、笑っていい話じゃありませんよ、まったく……」
父の反応としては、気弱でいじめられっ子だったミーアが、姉のような気の強さを見せてくれた、その成長を喜んでいるのだろう。
ただ、自分の子がよその子に暴力を加えたのなら、親としてはまず叱るべきであり、その子や家族への謝罪を考えるべきだ。
母の苦言はまさにそのとおりであり、反論の余地はない。
ミーアとしても、弱者を虐げた相手への仕置きとはいえ、ついやりすぎてしまったことを反省している。
(まぁ――それはそれとして、これまでのおこないは許さないがな)
いわゆるガキ大将のポジションにいるユリアンは、これまでに何度も、今日のようにミーアをいじめてきた悪ガキだ。
その恨みというわけではないが、今後の牽制も含めた今日の一撃には、反省はすれども後悔まではない。
そんな事情がわかっているからこそ、姉はこの事件を愉快そうに語り、母にとりなすように続ける。
「最近のユリアンは限度を知らなかったし、これくらいならいい薬よ。あっちのおばさんにも謝りに行ったけど、逆に謝られちゃったくらいだもの」
それは本当のことだ。
気持ちはわかるけど――と、ネリスに軽くたしなめられたミーアは、ユリアンが目覚めるのを待ち、姉と謝罪に赴いている。
先方の母親は目を丸くし、『うちのバカがごめんねぇ。ミーアちゃん、怖かったでしょう』と、いたわってくれたのだ。
「あら、そうなの? まぁ、それなら……うぅん、やっぱり両成敗よね。そのうち、お母さんからもお詫びしておくわ」
そう口にした母は、そこでようやく表情をフッと緩めてくれた。
「元気になってくれたのはうれしいけど、あまり無茶しないでちょうだいね?」
「はい、申し訳ありませんでした。以降は感情に任せて行動せぬよう、十分に注意いたします」
食器を置き、神妙に頭を下げるミーア。
当然、食卓はシンと静まり、両親は不安げな表情でネリスを見やる。
視線で問われた姉も、なんと答えればいいのかと苦笑していた。
「ミーア、その話し方はどうしたんだ? まさか、頭を打ったせいで――」
意を決したように問う父に、首を小さく横に振る。
「いえ、ご心配なく。頭はいたって正常ですし、健康上の問題もありません」
どう考えてもそうは思えない――そんな両親の視線を浴びるが、ミーアには押しとおすよりほかに道はない。
「ただ少し、思うところがありまして、今後はこのような口調で話させていただこうかと。どうか、ご理解ください」
子供が無理に大人ぶって話している――にしてはやけに堂に入った態度だと、おそらく思われているのだろう。
両親はさらに困惑した様子で顔を見合わせ、視線で会話していた。
『あなた、どうしましょう』
『少し遠いが、町から医者を呼ぼうか』
『まずは教会で、牧師さんに見ていただくのはどう?』
そんな会話が聞こえてくるようで、申し訳なくなる。
とはいえ、7歳という年齢に見合った話し方をするのも恥ずかしい。
(なんとか慣れてください、父さん、母さん……)
そんなことを思いながら、ミーアが頭を下げたままでいると――。
「――まぁまぁ、そう深刻になることないじゃない」
そんな重い空気を和らげてくれたのは、やはりネリスだった。
「いまよりずーっと心配になるくらい、ミーアはおとなしかったんだもの。このくらいハキハキしゃべる、元気な子になったってことで、喜んであげようよ」
そう言って、ネリスの明るい笑みが、両親に向けられる。
彼女にしても、ミーアの雰囲気の変化には驚いているはずだ。
その戸惑いを押し隠し、いまの自分を妹として、愛そうとしてくれている――その純粋な姉の気持ちが、心の底からうれしかった。
「姉さん……ありがとうございます」
「ふふっ、いいのいいの。わたしは、おとなしいミーアも好きだったけどね」
でもこっちのミーアも可愛い、と姉が隣の席から、笑顔で抱きしめてくる。
「んくっ……く、苦しいです、姉さん……」
つぶれるほどギュウギュウと抱きしめられ、黒髪をくしゃくしゃにかき撫でられ、苦しいはずなのに笑ってしまう。
そんなミーアたちを見て、両親の硬かった表情もフッと緩んだ。
「……そうね。乱暴はよくないけど、元気なのはいいことだわ」
「ああ。だけどミーア、調子が悪くなったら、すぐに言うんだぞ?」
姉同様、両親がいたわってくれるのを感じ、ミーアは改めて、深く頭を下げる。
その一方で、同じく自分を愛してくれたかつての家族――橘結月の姉や両親、祖父母のことを思いだすと、心が痛い。
自分の葬儀で、どれほどの嘆きを与えることになったのだろうか、と。
…
バスタブに溜められた湯船が、身じろぎに合わせてチャプンと波打つ。
(はぁ……やはりお風呂はいい、日本人の心だ……)
家の裏手にある、石壁と木材で囲われたスペースが、この家の浴室だった。
風呂の仕組みは単純に、バスタブに水を張り、下から加熱するというもの。
加熱は木炭でおこなうのだが、使われている木の性質なのか、炭の作り方の問題なのか、もしくは未知の技術があるのか――。
いずれにせよ、その木炭のエネルギーが、既知のものとはまるで違う。
(……とても、木炭で沸かしているとは信じられないな)
食事の支度で鍋を加熱しているときから思っていたが、ここで使っている木炭は、少量でも十分な熱が確保でき、燃焼時間も非常に長い。
それ一本で何日分ものエネルギーになるのでは、と思わせるほどだ。
(――とはいえ、基本的な考え方は省エネか。いいことだ)
姉妹で一緒に入るよう言われたのは、水や燃料の節約のためだろう。
二人で湯船に浸かれば、水は半分の量で済むのだから。
「どうしたのミーア、難しい顔しちゃって」
「いえ、なんでもありません」
「ん~? ほんとかなぁ~?」
向かい合って湯船に浸かる姉が、濡れた頬をツンツンと突いてくる。
「さっきはああ言ったけど、わたし、怪しいな~って思ってたのよね~」
「ぇ――」
ネリスのそんな指摘に、ギクリとさせられる。
前世の記憶が蘇った、なんて発想をされるとは思わないが、自分が以前のミーアでないことには、気づかれてしまったのだろうか。
そう考えはするが、ミーアは冷静だった。
鍛え上げられた精神力は動揺を表にださず、はてと首をかしげて見せる。
「なんのことでしょうか、姉さん」
「ふふっ……女の子が急に変わるなんて、理由はひとつよ! ミーア、あなた恋をしているわね!」
「していませんっっ!」
突拍子もない指摘には、鍛え上げられた精神力も形なしだった。
思わず赤くなって叫ぶミーアに、ネリスは不服そうに頬を膨らませる。
「えぇ~、ウソだぁ!」
「本当ですっ……まったく、なにをどう見れば、そうなるのですか……」
緊張して損をした、とばかりに湯を顔に浴びる。
銭湯ではマナー違反かもしれないが、自宅のバスタブなら許してもらいたい。
「どこをどう見てもよ! ミーアは肌も白くてきれいだし、黒髪も艶やかだし、いまでもすごく可愛いでしょ? 将来は間違いなく、美人になるわ!」
言いながらネリスはズイッと迫り寄り、ミーアの頬を両手で挟む。
「そんな子が元気まで手に入れちゃったら、もう無敵よ! 村の男の子たちだって、絶対に放っておかないわね!」
「それは姉の贔屓目が過ぎます、姉さん……」
あきれたようにつぶやきながら、ミーアはジッと姉の顔を見る。
自分にこんなことを言ってくるネリスだが、ミーアから見れば、彼女のほうこそどこにだしても恥ずかしくない、愛らしい姉だ。
今日以前のミーアはいつも、彼女のはつらつとした性格と、愛嬌ある笑顔に憧れ、自分もそんな風になれたらと思っていたものである。
…
(思えば……詩織姉さんもそうだった)
橘家長女である姉の詩織は、姉として優しく、そして厳しい性格だった。
家の義務を果たす一方で、妹には甘い。
かと思えば、次女としての義務を果たさせることにためらいもない
その厳しさに弱音を吐くときもあったが、それでも歯を食いしばって役目を負う妹に、彼女は優しく微笑み、語りかけた。
『よくがんばったわね、結月。この努力はきっと、あなたを助けるわ』
つらい修行の中で、その笑顔にだまされている――と感じたことは、一度や二度ではない。
しかし同時に、救われていたのも事実である。
結月は間違いなく、姉のことを尊敬し、彼女に憧れていた。
自分が姉であることを自覚し、それを強く意識し、長女として家に尽くしながら、妹を導くための努力を惜しまない――。
その凛とした姿と生き方が、結月は妹として誇らしかった。
…
(……そのせいなのか。私はどうも、姉という存在に弱いらしい)
プニプニと頬をへこませるようにミーアの顔を挟み、覗き込んでくるネリスは、精神的には年下であるはずだ。
それにもかかわらず彼女は、まぎれもなくミーアの姉だった。
「姉さん、いつまで私の顔で遊んでいるのですか」
「ん~、もうちょっと~……あれ?」
言いながら頬をもてあそぶネリスは、ふと気づいたように視線を合わせてくる。
「どうかされましたか?」
「う~ん、ミーアの目がね……前はこう、どこか不安そうにしてたんだけど……なんだかいつもより、キリッとしてるみたい」
性格の変化によるものだろうか、それで顔つきまで変わるとは思わなかった。
「そ、そんなことはないかと思いますが……なにか、おかしいでしょうか?」
「へ? ううん、そんなことないわ! むしろ可愛い!」
キリッとしている、というからには凛々しさを感じてくれたと思ったのだが。
「可愛くはないかと……逆に、可愛げがなくなってはいませんか?」
「も~、なに言ってるの? ミーアが可愛くないなんて、あるわけないでしょ!」
心外だとばかりに頬を膨らませ、ネリスはミーアを抱きしめる。
「きゃっ! ね、姉さん、暴れないでくださいっ」
「ミーアが変なこと言うからよ、お仕置きっ!」
そういえばと思いだされるのは、ミーアの記憶だ。
いじめられた日、からかわれた日――暗く沈んだミーアを慰めるため、彼女はよく、こうして抱きしめてくれていた。
「わたしの大事な、たったひとりの妹だもん……いつだって可愛いわよ」
「それはうれしいですが……恥ずかしいです」
そう言いながらもミーアは、元来の妹気質が出てしまうのか、彼女の抱擁を黙って受け止める。
精神的な光景を見れば、女児の胸で慰められる女子高生という、あまりにもあまりな、背徳的な姿だ。
(……いや、そんなまさか……私にそんな趣味はない、はず……いや、ない)
断言しつつも黙り込むミーアの頭を、姉の手がわしわしとかき撫でる。
「ん……あれ、ミーアの髪。なんだかいつもよりスッキリしてる?」
「え? ああ、それは――」
外から帰って手を洗ったときに、この世界にも石けんのようなものがあることはわかっていた。
洗髪に使うのも同じで、前世でも使われていたものにかなり近い。
ただ、コンディショナーのたぐいは見当たらず――そこで用意したのが、ほんの少量の酢をたっぷりの湯で希釈した、いわゆる酢リンスだ。
「こまかい説明は省きますが、石けんで洗ってからそれで髪を流すと、美しく保たれるようになるのです」
もちろん、酢リンス自体もしっかりと流し落とさなければならないが。
「へぇぇぇ……すごいじゃない、ミーア! 大発見だわ!」
「どなたかが使っていらっしゃるなど、聞いたことはありませんでしたか?」
「ないわね、これはお母さんにも教えてあげなきゃ!」
ほかの素材を使うのであれば、あるとしたらココナッツミルクやハチミツ、馬油などだろうか。
それらが一般的でないなら、この酢リンスは画期的なのかもしれない。
「では、お風呂から上がったら、お教えすることにしましょうか」
「賛成! それじゃミーア、あと十数えたら、上がっていいわよ」
懐かしいフレーズを聞き、苦笑しながら十を数え、入浴を済ませる。
その後、ネリスは喜び勇んで、母に酢リンスを教えようとしたのだが――。
「食べ物で遊ぶんじゃありませんっっ!」
よくよく考えれば当然とも思える言葉で、こっぴどく叱られる結果となった。