3-3 ミーアの献身
◇
「遅いわよ、早くしてちょうだい」
「申し訳ありません、お嬢さま。ただいまお支度を」
レティシャに急かされるまま、厨房に向かう。
使用人に偉ぶるな――という昨夜の注意は、ミーアが正式には使用人でないから無効になるのだろうか。
(まぁ、皆に影響がないなら、それでいいだろう)
厨房に入ると、ライラが言い置いてくれていたのか、湯は沸かされていた。
すぐに温められたポットとカップを用意し、ポットに入れた茶葉を、注いだお湯でしっかりと踊らせる。
茶葉の大きさによって、蒸らす時間は異なるため、それらはサラから教わり、時間は砂時計で正確に計測。
あとは茶葉をひと混ぜし、カップに注げば終わりだが――ミーアに給仕をさせたいということなら、目の前で淹れるべきか。
茶器をトレイに乗せ、茶葉の開く残り時間を計測しながら、レティシャのもとへ戻る。
(さてさて、なにをされることやら――)
昨夜の食器落とし事件といい、今朝のぬるま湯浴びせ事件といい、明確に傷つけようという意図がないところが、なんともかわいらしい。
となれば、いきなりトレイをひっくり返したり、茶を注いだカップを投げつけてくる、ということはないはずだ。
緊張感を楽しみながら、まずはお茶を注ごうと、彼女に近づき――。
(ん――おっと……)
レティシャの口元がニヤリと動くのを見ると同時、ミーアは踏みだした脚を高めで維持し、二歩ほど先に踏み込む。
ちょうど、ミーアをころばせようと差しだされた、彼女の足をよける格好だ。
(なるほど――私にケガをさせず、床を汚すわけにもいかないから、か)
あのままころんでいれば、テーブルに倒れ込む形になり、お茶もそこにぶちまけられていただろう。
クロスは交換すれば済むし、汚れたものは洗えばきれいになるため、必要以上にものを汚したりはしない。
ころんだこちらは恥をかき、それで茶器が割れたとすれば、原因はともかくとして、持っていたミーアの責任になるわけだ。
(そのたくらみを回避したのはいいが、さて――)
ついはずみでよけてしまったが、彼女の溜飲を下げることを考えれば、茶器を守るようにだけ気をつけ、ころぶくらいはしてもよかったかもしれない。
そんなことを思いながら、チラリと彼女を見やると、よけられたことへの驚きに見開かれた目が、不服そうにこちらを睨みつけていた。
(む……これは逆に、わざと引っかかるべきだったか?)
前世の他流試合では、足技や打撃、果ては遠距離攻撃までを交えた、剣術のみでない試合も多く経験している。
結果、足元への警戒は必要以上に身についており、令嬢がたわむれに仕掛けた足払いなど、意識せずともかわせてしまった。
その足を跳ね上げないよう――柔道でいう燕返しを繰りだしてしまわないよう、逆に意識させられたくらいである。
(――やらかしていれば、レティシャお嬢さまのご機嫌は、こんなものでは済まなかっただろうな)
そんなことを考えるが、黙って立っているわけにもいかない。
なにごともなかったかのようにトレイを置き、このまま給仕に移ったのでは、彼女も気がおさまらないだろう。
「……申し訳ありません、お嬢さま。不作法ゆえ給仕に慣れず、危うくお御足を踏んでしまうところでした」
「あっ、なにを――きゃっ!?」
ミーアは膝を折り、足元にしゃがみ込むと、彼女の足首をそっと持ち上げる。
「どこか、痛むところなどはございませんか?」
「なっ、なにするのっ……どうもなってないからっ、離しなさいっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ様子からして、ケガはないもよう――というより、ミーアにも接触した覚えがないのだから、それは当然だ。
これは彼女を気遣っているという、いわばパフォーマンスに近い。
もちろん、万が一がなかったかを確認する意図もあったが、敵意や悪意がなかったことをわかってもらえれば、それでよかった。
「はい、ご無礼をいたしました」
詫びるように微笑み、足を床に下ろして立つと、レティシャはいささか委縮したような反応を見せる。
(む……足をかわしたせいか? それとも、威圧したように思われたか――)
そんなつもりはなかったのだが、彼女はどうにも、こちらをまともに見られない様子で、じっと空のカップを凝視していた。
足に手を触れてしまったこともある、自分は席をはずしたほうがいいだろう。
「……失礼いたします、お嬢さま。いましがた、床に触れてしまいまして……手を洗ってまいりますので、給仕は別の者に任せたく思います」
「え――あっ、ちょっと……」
ご容赦くださいと頭を下げ、サラのほうを振り返るが、すでにライラがそのつもりでいてくれたらしく、すぐ傍に立っていた。
「すみません、あとをお願いします」
スペースを空け、給仕を引き継ぐと、彼女は得心したようにうなずく。
「はい――あの、申し訳ありません……ありがとうございました」
なぜか礼を告げられたミーアは、曖昧に微笑み、厨房へ引き下がった。
…
(ふぅ、やってしまったかな……)
やはりあのまま、ころんでおくのが正解だったか――。
手をゆすぎつつ反省していると、サラが小走りで厨房まで追ってくる。
「お嬢さまっ、おケガはございませんかっ……」
「ええ、私はこれといって」
こともなげに返すと、彼女はホッとした様子で、手拭きを差しだした。
「レティシャお嬢さまが足をだされたとき、私は背筋が凍る思いでした――」
「ああ……たしかに、少しあぶなかったですね」
いまさらだが茶器を守ったとしても、こぼれたお茶が肌に触れていれば、火傷のひとつもしていただろう。
レティシャにかかってでもいれば、大惨事だ。
「まぁ――ああいったことはきっと、私だけに向けられるはずです。サラや皆は、特に心配しなくてよいかと」
「お嬢さまの身に危険がおよぶのに、心配しないわけがございません!」
たしかに――状況はどうあれ、自分が火傷でもしようものなら、両親はなにがあったのかと調査することだろう。
それでレティシャが責められるようなことになれば、本末転倒だ。
(いや、サラが言っているのは、そういうことではないと思うが――)
いずれにせよ、ミーアになにかあれば、たとえそれに関わっていなかったとしても、レティシャが疑われる可能性はおおいにある。
身の回りには、万全の注意を期さねばなるまい。
そうした事態を招くことで、使用人らによけいな気を張らせることも、望むところではないのだ。
「お嬢さま、やはり先ほどの件は、旦那さまか奥さま――あるいは、ロアンさまにだけでも報告すべきかと」
「お気遣いはありがたいですが……その必要はありませんよ、サラ」
本当にそうすべきであれば、きっとサラはミーアに確認を取るまでもなく、独断で報告を上げてしまうだろう。
そうしないあたり、彼女も迷っているのだ。
「ですが――」
「それではよけいに、レティシャお嬢さまを追い詰めてしまうだけです。今日の失敗を受け、このようなことも減るでしょうから……どうか、いま少しの辛抱を」
仕える主への仕打ちに、サラが怒るのはもっともだと思われる。
それを踏まえた上でミーアは、このようにお願いするしかない。
レティシャとて、ミーアを害したいと思っているわけではなく、関わりたくないと思っているだけのはずだ。
勢いで侍女見習いにと命じたものの、朝の支度などで関わられることも、きっとこころよくは思っていない。
かといって、一度命じたことをひるがえすのも、矜持が許さない。
そのため、自分に近づけばこういう目に遭うぞと、わかりやすく脅しをかけ、遠ざけようとしているのだ。
だが――同じ屋敷で生活し、両親の目や扱いもあるのだから、レティシャがミーアを意識しないことは不可能だろう。
その中でフラストレーションが溜まることを思えば、どこかに解消する手段を用意しなければ、彼女の心はそのうちパンクしてしまう。
自分の身をていして――などと、格好のいいことを言うつもりはない。
ただ姉として、なるべくなら彼女と仲良くしたいし、彼女の心や未来を守る義務があるとも思っている。
どちらも果たすためには、なるべく近くにおり、彼女のストレス発散に協力する形を取るのがベストだ。
(そう――これはいわば、私のわがままだ)
顔を上げれば、心配そうな面持ちのサラが、ミーアを見つめている。
「――申し訳ありません。このような主に仕えさせ、心苦しい思いをさせて」
「えっ――い、いえっ、私はけして、そのような!」
当然、彼女はそう答えるしかないのだが、不服がないはずもない。
仕える主が軽んじられることはもとより、それを受けて、自分が軽んじられているような気持ちにもなるのだ。
これをおもしろいと思えるほうが、むしろどうかしている。
そんな彼女の気持ちに理解を示しつつも、ミーアは言葉を重ねた。
「ですがどうか、男爵家の未来のためにも――私のわがままに、付き合ってはいただけないでしょうか」
このままレティシャの心身に負担がかかり、その人格形成にまで影響をおよぼせば、彼女が家を担うころになって、なんらかの歪みが生じかねない。
自分の存在がそれを招くというなら、防ぐのもまた自分の責務だ。
「お嬢さまがそうせよとおっしゃるなら、私にはぜひもございません……ですがそれは、お嬢さまがなさるべきことなのでしょうか?」
たしかに、家の未来を考えるのは当主や夫人であるべきだろう。
だがミーアとて、考えなくてはならないこともある。
「――私は姉です。たとえ妹から、そう望まれていなくとも……姉が妹の幸せを願うのは、当然のことではありませんか」
自分が見てきた姉たちの背は、いつも自分を守り、優先してくれていた。
誰よりも見習うべき、目標にすべき背中だった。
そうなりたいという憧れは、妹という存在ができたことで、ミーアの中でたしかな気持ちになっている。
「たとえ、レティシャお嬢さまに嫌われることになろうと、ですか?」
「覚悟の上です……とはいえ私も、そこまで無欲なつもりはありません」
できることなら、彼女と親しくなるという夢もあきらめたくはない。
「……この気持ちが報われない未来を、思い描いたりはしていませんので」
具体的な案があるわけではないが、このままでいいのだと、最初から妥協するつもりもなかった。
対外的には姉である以上、その立場を揺らがせることがあれば、それは必ず家にも影響する。
彼女のため、家のため――ミルロワ家の長女であるという立場を、彼女に認めてもらう必要はあった。
他の使用人から見てもいびつなこの関係を、未来まで継続してはならない。
「その未来には、サラやライラ――使用人の皆もいるのです。すぐには難しいかもしれませんが……どうか私を信じ、ついてきてください」
手を伸ばすミーアだが、その言葉には説得力などなかっただろう。
それでも――というべきか。
「……かしこまりました、お嬢さま」
サラは抱え込んだ不服を飲み込むようにうなずき、ミーアの伸ばした手を、そっと両手で包んだ。
…
なにか根拠を感じたわけではない。
先の言葉は少なくとも、どこか空々しいものだと思っている。
それでもミーアの言葉には、不思議な魅力があった。
いまの主は客観視すれば、使用人に身をやつしたただの少女だというのに、もしかしたらと思わされる。
健気な心に、ほだされただけかもしれない――けれど。
「――ありがとうございます、サラ。きっと、期待に応えてみせましょう」
自分よりも年下の、そんな少女の言葉と笑顔に、サラは安堵していた。
お嬢さまはいつか本当に、理想の未来をつかむかもしれない――と。
紅茶はライラがおいしく淹れてくれました