3-1 貴族のたしなみ
お疲れでしょうから、今宵はゆっくりとおやすみください――。
サラからそう言われてはいたが、ミーアの朝は早かった。
日の出と同じくらいには目覚め、準備体操で身体を起こし、屋敷の周囲から庭園を回る形で、日課のランニングを済ませる。
その後はストレッチをし、ひととおりの素振りを確認すれば、身体はしっとりというレベルを超えて、汗びっしょりだった。
こっそり流そうとしたものの、戻るころにはサラも起きだしており、おそらくはミーアを探しにきたのであろうタイミングで、遭遇してしまう。
「こんな朝からなにをしていらしたのですか。趣味ですか、そうですか」
「……すみませんでした」
前日のうちに、ひと声かけておくべきだったか。
仕える令嬢が寝床にいなかったことで、慌てさせてしまったことを謝罪、反省しつつ、ミーアは湯浴みを済ませ、侍女見習いとしての務めを果たしに向かう。
自身の起床から、遅れること数時間――。
令嬢としては適切なようで、ほんの少しだけお寝坊なレティシャに目覚めの挨拶をし、彼女の侍女とともに、洗顔や着替えを手伝うことになっていた。
「あらごめんなさい、手がすべっちゃったわ」
適温にしたお湯を洗面器にためて差しだし、顔を洗ってもらう。
その過程でレティシャはそんなことを口にし、しっかりとミーアにお湯をひっかけ、昨夜のうっぷんを晴らしにきたようだ。
「いえ、おかまいなく。お嬢さまは、お濡れになっていませんか?」
「……ふ、ふんっ、かかるわけないでしょっ、あなたじゃあるまいしっ」
顔を洗い終えた彼女に、タオルを差しだしてたずねるが、義妹はそんな様子で、今朝もなかなかに手厳しかった。
「ミーアお嬢さま……申し訳ありません、うちのレティシャお嬢さまが」
こっそりと、そう囁いて頭を下げるのは、レティシャ付きの侍女ライラだ。
ワインレッドの髪が、サラと同じボブカットになっているのは、屋敷の就業規則なのかもしれない。
「いえ、お気になさらず。私も楽しんでいることですから」
甘やかそうという意図はないが、ひとまずは彼女の不満をできるかぎり表にだしてもらい、ため込まないようにさせようと考えている。
「私がきたことで、皆さんまで困惑させて申し訳ないのですが……なるべくでかまいませんので、これまでどおりにいてください」
そうすればなにかあっても、彼女の意識はこちらに向いてくれるはずだ。
自分がイレギュラーな立場なら、イレギュラーとして動くのみ。
周囲に波紋を広げることがなければ、あとは平時と変わらないのだから。
「……私とは違う方向で、サラは心労が絶えなくなりそうですね」
あきれたような感心したような、なんとも言えない顔でライラが返す。
その隣ではサラが、ほんとそれという様子で、何度もうなずいていた。
…
その後、昨夜のようなこともなく朝食を済ませたミーアは、今後について両親と相談することになる。
といっても、レティシャに関することではない。
男爵令嬢となったからには、相応の教養やマナーが必要になるため、その教育をどうするかという話だ。
「そういうわけで――ミーアには近く、家庭教師をつけることになるわ」
聞けば貴族社会では、9歳になるころから家庭教師をつけ、最短で二年ほどをかけ、ひととおりの基本教育を施すものらしい。
13歳になった翌年――つまり14歳になる年から、王都に置かれる王立学園に通う義務もあるため、それまでに下地を整える必要があるそうだ。
「数日もせず見つかると思うから、そのつもりでいてちょうだい」
「はい、承知しました。私はもう10歳ですし、急がねばなりませんね」
教会で少し学んでいたとはいえ、本格的な学校に入る前の準備でもあるなら、範囲や内容も大幅に増えているだろう。
学習要綱については、日本のそれと変わらなければ問題ないが、貴族ならではの所作やマナーも考えれば、三年でも足りるかわからない。
これも将来のため――そうやる気をにじませていると、夫人が苦笑する。
「ミーアなら平気だと思うけれど……そこまで気負う必要はないのよ?」
最短二年というのは、習熟度や継続性を考え、入学まで続ける家がたまにあるからだそうだ。
最低限の習得であれば、実際は一年半ほどで足り、残りの半年はもっぱら復習にあてられるものらしい。
「ミーアはもとから所作もきれいだし、姿勢も正しいし、食器の扱いも及第点だったわ。いまからでも十分、間に合うのではないかしら」
「それは……おそれいります」
生前の躾や武道の鍛錬が、こうした形で役に立とうとは。
食器については、箸を使うほうが多かったのだから、やむをえないだろう。
「ただ、お勉強のときは、お仕事のことは忘れてちょうだいね?」
釘を刺すような夫人の言葉に、ミーアは神妙な顔でうなずいた。
「はい。貴族としての責務には、お応えしたく思いますので」
「そ、そこまで堅い意味ではないのよ……いまのは撤回しておくわ」
「……失礼しました」
どうやら冗談だったようだ、察せなかった気の利かなさを恥じる。
とはいえミーアとしては、勉強の合間に仕事を学びつつ、日々の鍛錬もこなす必要があるのは事実だ。
時間を効率的に使うためにも、その時々で目の前のことに集中し、できるかぎり短時間で覚えていかねばならない。
少し負担になるかもしれないが、それは腕が鳴るといってもいい。
貴族の子息令嬢が集まるであろう学園に入学すれば、そちらで就職先を探すことにもなるのだ。
やれることは多く身につけ、覚えをよくできれば僥倖である。
「――精進いたします、お父さま、お母さま」
まっすぐに告げるミーアだったが、その妙な方向性を察したのか――。
両親の視線には『大丈夫だろうか、この子』といった、娘の行く末を案じる気配が感じられた。