トラウマ少女の初恋
うちのお姉ちゃん達は一卵性の四つ子だから顔だけだと凄く見分けにくいけど、服装の好みが違うからわかりやすい。
一番上の恵は、ブレザーの内側に赤色のパーカーを着てる。で、スカートの丈は短くて靴下はニーハイが多い。髪はおろして前髪を赤いリボン付きのカチューシャをしてる、のがアイデンティティかな?
二番目の環は黒いワイシャツにチェックの赤いネクタイを好み、スカート丈には特に拘りはない。靴下も同様。髪型は左側でツインテールにしてネクタイ、スカートと同じ柄のリボンで縛ってる。結んでる?どっちだ?
三番目、灯は普通に白いワイシャツに黒い紐タイ、黒いカーディガン、ブレザーの上着、膝下丈の黒いスカート、黒いハイソックスで髪はハーフアップの三つ編みにしてることが多い。おっとりお嬢様的な見た目の服装を好みます。
四番目の晴はワイシャツ、青いリボン、薄青色のパーカー、青いスカート、青と白のニーハイ、髪型ポニテ。
全員がお揃いで自分達で作った白いポンポン付きのイヤリングをつけているのも特徴といえば特徴かな。
そんな四人が揃ってリビングで昼寝してる光景を目にして、何となく写真を撮ってみた。
特にこれといって理由はない。ひたすら何となくだ。私の行動には理由が伴わないこともままあるので。
四つ子とは二つ年が離れた妹である私は、現在中学三年生。ブレザーではなくセーラー服なのでそこまで自由度は高くない。普通に指定された襟が赤いセーラー服着て赤いスカーフを結んで赤いプリーツスカート履くだけですよ?
白いニーハイと桃色のカーディガンくらいしかアレンジなんてものは加えてないな。
うちのオシャレ大好きお姉ちゃん達に微妙に同情されることもあるけど、私は割とこれはこれで好きだ。
話は変わるけど、お姉ちゃん達が全員バイトしてるのと、マンションのオーナーが両親がいない家に同情して色々とおかずをわけてくれたりすることもあって、高校生と中学生だけでも生活には困っていないのが今までだった。
いつの間にか環がオーナーと恋仲になってたりとか、灯が大企業の御曹司に見初められたりとか、なかったからね。
うちのお姉ちゃん達は美人です。それぞれ雰囲気は違うけど美人なのです。スタイルもいいしね?
だから見初められたとか、親切な人に惚れて惚れられて恋仲に〜とか、そういうのはまあ、いいんですよ。
問題は、何故そうして学生結婚するとかしないとかの話し合いの場で私を引き合いに出すのか、という。
「だって茶羽以外はどうせ行く当てがあるから」
うん、何となく今のでわかったけどさ、行く当てになるくらいの恋人がいるならせめて話そうよ、存在くらい。
無言でお姉ちゃん達を睨みつけている間に向こう側で話がまとまったらしく。
……本当に何でこうなるのか不思議なんだけど、最終的に灯の恋人が環を除いた全員の面倒を見ることになっていた。
特に異論もないと従う三人に軽く引きつつも女傑なお姉様方に逆らうなんて恐ろしいことはしたくないから私も素直にそれに従って、全ての私物を中学校で使ってるリュックに入れて引っ越し準備を整えた。
私物が少ないのは普通だと思う。だって、私を生んだ親ならともかく姉に妹の私物の支払義務なんてものはないから。それにみんな自分で働いたお金で色々買ってるんだし、気にするなって言われたところで私一人だけがみんなにお金を出してもらって自分の好きなものを買うとか、ちょっと嫌だ。必要であれば躊躇いはしないけど。
「「「「茶羽はもうちょっと甘えを知るべき」」」」
何も四人揃って言わなくてもいいと思います。っていうか何でオーナーんとこに引っ越した環までいるの。
「ちょっと茶羽成分補給に来た」
抱きしめる時は許可をとってください。普通に驚いたんですけど。
数分くらいずっと私を抱きしめて、落ち着いたらしい環はそのままオーナーのところに帰っていった。
何がしたかったのかは疑問に思いながらも中断された片付けを再開して、本格的に引っ越すことになった。
自分の部屋だと言って用意された部屋には既にベッドやソファ、テーブルなどが揃っていた。
「……え、この部屋で一人とか心底落ち着かないんだけど」
「大丈夫。ぬいぐるみがある」
「………………中三になってもぬいぐるみかぁ」
思わず乾いた笑いを零してしまった私はきっと悪くない。
晴は手先が器用だから、熊のぬいぐるみは確かに可愛かったし抱き心地も良かったんだけど……
それにしたって何個出すの?これはこれでファンシー過ぎて落ち着かないんだけど!
……いや、ぬいぐるみとか動物とかは好きだけど、さぁ。限度というものがあると思うんだよね。
ベッドの上にも、床にも、テーブルにも、果てはシャワー室にまでぬいぐるみ配置って何なの?
「茶羽、今度本買いに行こう?折角本棚あるんだし」
わくわくした顔でそう告げた恵の趣味は読書なので、その気持ちはわかる。
私も学校にある図書室とか図書館で本を読むのは割と好きだし、休みの日は入り浸ることも偶にあるし。
「ねえねえ茶羽、こんなおっきいクローゼットあるんだから色々服買えるね!」
人懐こく話しかけてくる晴の気持ちもまあ、わからなくはない。
だけどどうして二人とも私を巻き込んで何かを買いに行く算段を立てようとしているのか。
「茶羽ちゃん、慎也さんが茶羽ちゃんにお小遣い渡してこいって」
灯、確信犯的な笑顔だけどさ。それ確信犯でやっちゃいけないことだと思うんだよね。
渡された額が決してお小遣いなんかで済む程度のものじゃないことは指摘してほしかった。
新しい環境でわくわくしてるお姉ちゃん達に頭を抱えたくなりながらも、時間は無情に過ぎていく。
転校するからっていうことで制服も体操服も変わったし、何ならついでに私服も買い足そうって連れ回された。
猫耳付きのフードパーカーとか、フリフリのワンピースとか、シンプルだけど可愛いブラウスとか、スカートとか。
自分で選んだのもあるけど、ほとんどお姉ちゃん四人が選んでいたような気がする。
そして環、どこから聞きつけて参加したの。灯なの?何してくれてんの四人揃ったらマジで歯止め効かないのに。
私の好みから逸脱していないのがせめてもの救いか。これでセクシー系とかなったら多分家出できる。
新しい中学校では三年の中途半端な時期に転校してきた子であっても割と寛容に受け入れられた。
仲良しの女の子もできたし、色んなことを教えてくれる子もいる。
…何ていうか、それでも自分で動いていると言うよりは周りが色々やってくれてるって言った方が合ってる気がして。
それが嫌な訳じゃないんだけど、こう……言い表しようのないもやもやが残ると言うか。
恵と一緒に見にいった本屋では確かに色々と面白い本とか見つけたし楽しかったけど。
私からすれば四人の恋人っていうのはどこか遠い存在で、甘えきるのが難しくて。
そもそも私は、四人の母親と再婚した父親の連れ子だからどれだけ甘やかされても血が繋がった本当の妹ではないし。
何でか無性に今着ている明るい緑色の襟に白い線が三本入ったセーラー服じゃなくて、赤い襟に一本だけ太い線が入った制服に戻りたくなった。スカートも、膝丈の緑色のじゃなくて、赤い膝下丈のがいいと、思ったりもして。
だけど誰も何も悪くなくて、私が勝手に悶々としてるだけだから。そんなこと言ったら、きっと困らせちゃうし。
まっすぐに新しい家に帰るつもりにもなれなくて、帰り道で何となく目についた神社へと続く階段を上った。
階段を上りきったところで空気の壁を潜り抜けたみたいな変な感じがして、後ろの方を振り返った。
ゆらゆらと空間が揺らいでいるように見えて……近づく前に、誰かに腕をとられた。
「声、出さないで。こっち」
耳元で小さく囁かれて、切羽詰まった様子に抵抗するのは危険かもしれないという結論を出して従った。
鳥居を潜って、小さなお社の陰に回り込んで、しゃがんで息を潜めた。それが正解のような気がして。
隣にしゃがみ込んだ学ランを着た男子が小さな覗き穴を示したから見てみろってことだと解釈してそれを覗き込んだ。
見えたのは一部だけだったけど、灰色というか、鼠色の肌に凸凹した穴みたいな、ぶつぶつというか、ぶくぶくした泡みたいなものが見えて、一部だけでも全貌が見えたら凄く気持ち悪いやつだということが理解できた。
よくわからないけど、あまり私にとって歓迎できる存在でないという予想を立てて静かに覗き穴から離れておく。
『ここからうごくな』
どこから取り出したのか、和紙に達筆な文字で書かれた言葉を読んで、何となく何かやるのかな、と予想を立てたところで隣にいた人が立ち上がって駆け出した。ああいうのは、勇気と無謀のどっちなんだろう?
余計なことするなって言うくらいだし、勝算はあるだろうから多分勇気?とりあえず直視したくないかな。
渡された紙に書かれた文字は不思議なことにすぐに乾いたから、なるべく音を立てないように平面の蝶を折った。
これが本物の蝶になったらちょっとだけ状況好転したりとか……まあする訳ないか。
なるべく意識の外側に追いやろうとしていた何かが壊れるような音とかが静まって、けどどうなったか見に行く勇気は兼ね備えていないから折り終わった蝶を両手でぐしゃって潰れないように包んでしゃがみ込んだままでいた。
軽い足音が聞こえてきて、しゃがみ込んでるから上の方から声がかけられた。
「終わったけど、立てる?」
人間の声だとは思うけど、涼やかなのに色気まで含まれる声に半端ない美声だと思いながら上方を見上げた。
灯の旦那さんになった人……慎也さんと比べても多分好みで人気が分割されると思う。
で、見上げて……これは本当に人間だろうかと首を傾げたくなったけど一応我慢した。
慎也さんも大概三次元とは思えないくらい整った顔立ちだけど、それに引けを取らないくらいって……人外では?
普通に寄り掛かれば上から覗き込める程度の高さしかないお社。隠れるにしてもどうせもうそんな場所はないし。
学ラン、は多分さっきの人と一緒の筈だから……あ〜もう、こんなことなら顔確認しておけばよかった。
立ち上がって、地面に置いてた鞄についた汚れを払いながらお社の向こうに回り込んだ。
「……それ、さっき渡した紙?」
「え、そう、だけど……、?」
「貸して」
「、ど、どうぞ?」
吃りながら和紙で折った蝶を渡すと、何故かとても真剣な顔でそれを凝視した後でそれを持ったまま「ついてきて」ってそれだけ言って、また歩き出した。何だろうこの人、本当に人かどうかが疑わしいんだけど。
直感で危険な感じじゃないって結論は出てるけど……直感に従って損したことはないから大丈夫、だと思いたい。
すたすたと歩いて先導する少年?青年?の歩幅についていこうとすると小走りになって、少しキツい。
途中で一瞬こっちを振り向いて、それからすぐに歩くペースが落ちたのは……気遣ってくれたのかな?
嬉しいというよりも申し訳なさが勝って、だけどキツいのも事実だったから何も言えなくて無言で後ろを歩く。
森の中の細道みたいな場所に足を踏み入れる瞬間に、また空気の壁を抜けたような感覚を受けて振り返った。
今度は空間が歪んでたり揺れてるように見えたりはしなかった。
すぐに目線を元に戻して、迷いなく細道を進む青少年の背中を追いかける。
しばらく歩くと霧が出てきて、それがどんどん濃くなっていく。前を歩いてる筈の人の背中も辛うじて見えるくらい。明らかに異常だとしか言いようがないけど、ここで引き返す方が迷子になる確率高いよね……ついてこ。
霧の流れが進むのとは別の方向に流れていて不思議には思うものの、口は閉ざしたまま、ただ歩く。
視界全部が真っ白になるくらい濃い霧が進むごとに少しずつ薄れていって、最後にはまた同じように消えていった。
古民家、と言っていいのだろうか。民家にしては大きい気がするけど……
目の前に聳え立つ重厚感のある屋敷に微妙に圧倒されている間にも普通に進む青少年は根本的に気遣いを知らないな。
からからと軽い音を立てながら玄関と思われる扉を開けると、奥の方から二足歩行の猫が出てきた。
「おかえりにゃさいませ、ご主人様!後ろのおにゃごはお客様ですかにゃ?」
「うん、これ折った子」
二足歩行の猫に差し出してみせたのは割と適当に折った自覚のある蝶だ。中三にもなるとちょい恥ずかしいかも。
招き猫みたいな細い目を平面の蝶を見た瞬間に丸く見開いた猫の瞳孔は金色だった。
かっと見開いた目をそのまま私に向けられて、ちょっと怖いなと思いながら首を傾げる。何なんだ、この人(?)達。
「……にゃるほど、この妖力……にゃっとくですにゃ!して、ご主人様。ご客人のおにゃまえは?」
「?………知らないけど」
ご主人様呼びされてる人が当然のように答えた言葉に、二足歩行の猫が飛び上がってその頭を叩いた。
猫パンチ、というやつだろうか。あれを猫と定義していいものかどうかわからないけれど。
「にゃわばりに呼ぶのにゃらにゃまえくらい訊くのが礼儀ですにゃ!失礼ですがお嬢様、おにゃまえは?」
「……鈴代 茶羽、です……ええと、私何でここに連れてこられたんですか?」
「……お聞きしてにゃいのですかにゃ?」
「あ、あはは……」
決して否定はできないから、また叩かれるんじゃないかとは思ったけど誤魔化して笑って視線を逸らした。
予想通りに飛び上がってご主人様って呼んでるのに容赦無く頭を叩く猫に軽く引いたのは事実である。
とは言えご主人様呼びされてる同じ学校の制服着てる人が説明足りな過ぎるのは確かだしね、うん。
三毛猫が立って話して飛び上がって人を叩く……色々おかしすぎるけど、割り切った方がいいのかな?
これが夢オチだとしたら少しだけ残念かもしれない。それと同時に夢であってほしいとも思うけど。
「ご主人様は着替えて着てくださいにゃ!お嬢様は客間にごあんにゃいさせていただきますにゃっ」
猫に叱られて素直に頷いて移動する人間。カオスってこういうののことだと思う。
私は立ってる猫じゃなくてふわふわ宙に浮いてる手の平サイズの猫に先導されることになった。
何で猫が立ってるのかとか浮いてるのかとか謎過ぎるけどその中に自分がいることが何より不思議過ぎる……
木でできた廊下の床と自然の木材を利用したような少し歪な木の柱、壁は、漆喰かな?そこまで詳しくないし不明。
部屋に入る時は木でできた扉か障子になるらしい。和風ではあるけど中はそこまで古くはない、かな。
客間だと通された部屋は障子と、縁側の外とはガラスの窓で仕切られた畳が貼られた部屋だった。
役目は終えたとばかりに私の膝の上に乗っかって丸くなった手の平サイズの浮かぶ猫。
これはあれかなぁ……立ち上がろうとしてもできないやつなのかなぁ……(震え声)
遠い目で意識を少し遠くに飛ばしている間に更に小さな猫がスカートの上に乗っかってきた。
普通サイズの猫もいつの間にか近くに寄ってきて丸まって寝てるし……いっそ私も寝たい。
立ってる猫は雪之丞というらしい。ご主人様って呼んでた人は中学三年生だって。見覚えがないんだけど。
……ん?いや、見覚えはないけど聞き覚えはある気がする。
何だっけ……人間かどうか疑うくらいに綺麗な顔してて凄く無口な男子生徒?だったかな。
それが当人かどうかはわからないけど人間離れした雰囲気っていうのは多分該当してると思うんだよねぇ……
「ところでお嬢様……随分とにゃつかれましたにゃぁ」
「……懐き行動なの、これ?」
「この家の猫達は気を許した人間にでにゃければ近寄りませんからにゃ」
そうなんだ。とてもすぐに近づいてきて膝の上で丸まって寝てるけど。
雪之丞さんの証言の信憑性は私からすればかなり低いけど、真面目に言ってるっぽい声音だから本当だと思う。多分。
客間に通されてから十分くらいして、雪之丞さんと同じような二足歩行の猫がコップに入ったオレンジジュースと一緒にチョコレートケーキも持ってきたところで、私をここに連れてきた張本人が客間に入ってきた。
学ランから浅葱色の和装……着物と、シンプルに紺色の帯、緑色の羽織という格好に着替えたらしい青少年は、私が猫達に懐かれているのを見て雪之丞さんと同じく驚いたような顔をした。雪之丞さんより感情表現が鈍かったけど。
着物が似合うイケメンを和風イケメンって言うんだっけ……ならこの人も和風イケメン、なのかな。
「何でさらっと葵まで紛れてるの」
「居心地が良かったもので、つい。失礼しました、茶羽様」
葵ってどの猫、って思った直後に本人、本猫?が喋り出したので比較的容易に葵さんを見つけ出せた。
手の平サイズの小さな猫からあっという間に人間の美女になった葵さんにぱちぱちと拍手すると、一礼された。
マジックじゃない?うん、わかってるけど何か、それっぽくてつい。
「ところで坊っちゃま。茶羽様に自己紹介はされましたか?」
「してない。後からすればいいかなって思ってたから。それに、あそこ蟲が来てたし」
よくわからんけどやっと正体不明な青少年の名前がわかるらしい。同じ学校っぽいのはわかったんだけどね。
名前も確か教えてくれた筈なんだけど、しっかりと思い出せないから仕方がない。合ってるかも知らないし。
漆塗りの松、かな?のテーブルを挟んだ向かい側に座った青少年が、まっすぐに私を見据えて唐突に喋り出した。
「名前、草薙 杏夜。鈴代、だっけ?猫又って知ってる?」
「……長く生きた猫が妖怪になって尻尾が二つにわかれた姿になるやつなら知ってる」
「俺はその猫又の血を受けて同じ能力を持ってる。この屋敷に猫がいっぱいいるのもそういう理由。理解できる?」
「これ以上聞いてると後戻りできない沼に嵌りそうな気がするから帰った方が良さそうなことは察したよ」
帰れないかなと思って言ってみたけど、案の定と言うか……
にっこり笑ってる葵さんが何気に出入り口を塞いでたから出れそうになかった。
その上目の前に座ってる人が普通に説明始めるもんだから聞かないってことも不可能で。
諦めの早さには割と定評がある私なのでいつも通りに諦めて、というか最終的に投げやりになって話を聴いた。
お社に隠れてる時に見えたのが蟲って呼ばれてる人間を襲う怪物とか、草薙さんは猫又に頼まれてそれをできる範囲で殺す為にここに住んでるとか、私が折った蝶に蟲を殺す為の力があるとか……状況含めて非現実的過ぎるな。
「だから、蟲を殺すのに協力してほしい」
「………何で?」
少しの沈黙の後、躊躇いながらもこのまま流されたくはなくて疑問を口にした。
蟲を殺す力があるとか、そんなこと言われたって『蟲』って存在だって今日まで知らなかったのに。
私には私なりの行動指針があって、お姉ちゃん達を心配させるようなことはあんまりしたくない。
安全が保証できないことにメリットがないのに協力する必要性が理解できないし、普通に戦うとか怖いし。
この家に来るまでの空気の壁みたいなのだったり霧だったり、飛ぶ猫だったり、意味わかんないし。
名前だって今日まで知らなかった人に協力してくれとか言われても、信用できるのかどうかもわかんない。
確かに人を襲う蟲は害悪なんだろうけど、それを討伐するのに私が協力する必要ってあるの?
私は今現在の平穏な生活を壊したくないし壊されたくない。
今までと違ったって、お姉ちゃん達が幸せでいるなら、自分が痛いとか怖い思いをしないなら、それでいい。
お父さんが『本当の』お母さんと離婚する前の苦痛と恐怖で統一されたような生活なんて、絶対嫌だ。
怪我するのも、そうしてお姉ちゃん達に心配かけるのも、嫌。
私は躊躇せずにあんな不気味な物体に向かっていける草薙さんと違う。
折り紙やってそれに力が宿ったからって、何で危険なことやらされなきゃいけないの?
知らない人が傷ついたってどうでもいい。私の時は助けてもくれなかったくせに傷ついたって?何それ、関係ないし。
私のことを助けてくれなかった人達を、自分が危険に曝されてまで助けようなんて思えない。
「別に、私じゃなくていいんでしょ?……なら、他の人を探してよ。私は……君の事情に関係ない」
酷い言葉を投げつけた自覚はある。葵さんが息を呑んで、草薙さんが瞳を揺らした。
どうにもできない悶々とした気持ちをこれ以上醜く誰かにぶつけたくなくて、立ち上がって部屋を出た。
邪魔されることはなくて、雪之丞さんが静かに出口まで案内してくれた。
「……協力、できなくてごめんなさい。草薙さんのことも、頑張ってる貴方達のことも、傷付けてごめんなさい」
小さく呟いた言葉に雪之丞さんがただでさえ細い瞳を更に細めて、眉間に皺が寄っていた。
不愉快だという訳ではないように見えたけど、その中に宿る感情は全然わからない。
家に、帰ったけどやっぱり、居心地が悪いのは拭えなくて。
だけど元から、安心できるような場所なんてなかったんだってことにも気づいた。
だって、お母さんがいた頃は家の中が怖かった。幼稚園でも一人ぼっちで、話しかけてくる人もいなかった。
外に出たって何も知らない大人達に早く家に帰りなさいって言われて、家に帰るしかなくて。
お父さんがお母さんと離婚して再婚した後も、やっぱり自分はお父さんからすれば少し邪魔な子供だったと思う。
話しかけることもなくなって、俯いて過ごすことが多くなった。お母さんに似てる顔立ちを嫌いなのはわかってた。
私を可愛いと言って姉妹の輪の中に四人は入れてくれたけど、お父さんは良い顔をしなかった。
新しいお母さんは優しかったけど、私がいなければきっともっと幸せだった。そう思ったら、申し訳なくて。
お父さんとお母さんが死んだ後は四人が私の親代わりになった。
何もできないことが悔しくて、でも私が何かをしようとすると危険だって止められて。
何もできないまま中学生になって、何もできないまままた誰かのお世話になっている。
どこにいてもやっぱり私は邪魔者なんじゃないかって、必要ないってわかってしまうから。
必要だって、言ってくれたのは嬉しくて。
だけど、だからこそ失望されて「もういらない」って言われるのが怖かったから。
結局自分が何をやりたいのかもわからなくて、もやもやする。
踏み込まれない程度の距離感の友達を作るのは得意だ。切ろうと思えばすぐにでも切れる関係。
その時には寂しそうな顔をしてたって、きっとすぐに忘れる。
……きっと草薙さんだって同じだって心のどこかで思い込もうとしてた。
同じように、もしかしたら違うんじゃないかってずっと必要としてくれるんじゃないかって思ってもいて。
矛盾した感情がとても気持ち悪いものに思えて、それを消し去る為に薬を飲んだ。
すぐに過呼吸になったり、頭が痛いとか、お腹が痛いとか、気持ち悪くなったり、眩暈がしたり。
それぞれの症状を抑える為の錠剤と、そもそもの原因でもある不安定な精神を落ち着ける為の薬。
前の学校の先生には話してたから幾らかストックなんかも貰ってたけど、もうすぐ頭痛薬と精神安定剤が無くなる。
補充は必要だ。特に精神安定剤は需要が高いし。
お金は……慎也さんに貰った分は残ってるから、これを使うしかないか。
何とか一週間は保ったけど、誰かと目が会う度に不安定になってどうしても身体に不調が出てしまうから減りは早い。
精神由来のものだってことはわかってるから学校が終わった放課後に精神科を受診した。
薬を貰う為にロビーの椅子に腰掛けて本を読んでいると、五分くらいしてから受付から名字を呼ばれた。
鈴代はお姉ちゃん達の姓じゃない。お父さんが私を籍に入れるって提案に少しだけ嫌そうな顔をしてたから、手続きとかするのが面倒だし名字で呼ばれたら気づけないかもしれないからって子供っぽい理由で名字を変えるのを断った。
安心したように私の頭を撫でるお父さんの手が、どうしようもなく気持ち悪くて怖かった。
渡された薬を確認して代金を払うまでの間にお見舞いの人が来てるのか看護師さんが受付から「草薙さん」を呼んだ。
珍しい名字ではあるけど、別にそこまで珍しすぎる訳でもない。違う人だろうって思うけど、何か、怖い。
「っ……!っあ」
お父さんのことを思い出して、感情が昂ってるところに最近のもやもやの原因までかかって。
そうならない訳がないと言うか……元から、普通よりも感情が不安定で体調を崩しやすいのもあったし。
脚が震えて立っていられなくて深呼吸するにも混乱してて、過呼吸になってるのはわかった。
慌てたように受付の人が私の名字を呼んだけど、しゃがみ込んだ私に手を伸ばしたのは別の人だった。
同じようにしゃがみ込んだような気配を察して薄れる意識を無理矢理覚醒させようとした。
だけど苦しいのがどうにもならなくて無理矢理そうしたからか、余計に意識が遠のいていく。
「だいじょうぶ」
耳元で、凛とした涼やかで穏やかな声が囁いた。全部がぼんやりした意識の中で、その声と背中に置かれた手の感触だけが鮮やかだった。傷つけたりしないって確信できるように、優しく添えられて震える背中を撫でられる。
動きに合わせて呼吸してって促されて、訳もわからないまま言われた通りに呼吸を取り入れた。
上手って、良い子って褒められた。褒められた、のかな。少しだけ、嬉しくて。
過呼吸は落ち着いたけど、経験則で脚が震えるのはしばらくどうにもならないってわかってる。
それでも立ち上がらないと次の人が受付に来れないから立ち上がろうとして。
自分で行動に移す前に草薙さんが受付の人に知り合いだからって自分でお金を払ってしまった。
「このままここにいると、次の人に迷惑だから」
同じことを考えているのは本当のことだけれど、やっぱり上手に身体を動かせない。
芯から身体全体が冷えてるような感覚は手足の先の感覚を失くすことにも繋がっている。回復はするけど。
誰もいない廊下まで、受付の人から薬を受け取った草薙さんに誘導されて移動した。
またしゃがみ込んでしまうのは嫌で学ランの胸元に縋りつくけど、拒絶される気配はない。
……どうしてあんなことを言った私に対して優しいのか疑問に思って、咄嗟にぱっと身体を離した。
「っごめん、なさい」
そもそも誰かのお見舞いに来てた筈で……私のせいで面会時間が少なくなったかもしれない。
これ以上時間をとらせるのは嫌で、四千円台だったから適当に五千円札を出して渡して、病院を出た。
逃げ出す前に見えたきょとんとした幼い顔が変に印象に残って、苦しかった。
時間が傷を癒してくれるなんて、そんなの嘘だ。時間が経てば経つ程、何もできないのが痛くなる。
『逃げる』ことしかしていない私が偉そうに言う資格なんてないけど、……どうして、助けてくれないの。
処方されたばかりの精神安定剤をコンビニで買った水と一緒に飲み込んで、少しだけ落ち着いて息を吐いた。
「………帰ろ」
家に、帰って。それから、手を洗って、うがいもして、恵に、借りた本を返しに行って。
考えたくないことを意識的にシャットダウンして考えないようにして、またいつも通りの平和で幸せな日常に戻った。
なのにそれを邪魔するように、空間がゆらゆら揺れて、蟲が出てくる。
一瞬で消滅した大きな芋虫みたいな蟲の向こう側に無表情の草薙さんが見えて、少しだけ近寄ってくる。
助けて、くれた。酷いこと、言ったのに。傷ついて、私が、傷つけたのに。
感謝を伝えるべきなんだけど、吃りながら謝って、また咄嗟に逃げ出した。
だって、あの人に縋りたくなってしまうから。助けてくれるんじゃないかなんて期待は、したくないから。
何回かしか会ったことないし、話したことだってほとんどないって言っていいと思う。
だから草薙さんに期待しちゃ駄目なんだ。それに、最初に彼の期待を裏切ったのは私。許される筈がない。
図々しい、のかな。いなくなれば、私が全部なくなれば、みんな迷惑じゃない、かな。
考えて、考えて。優しいお姉ちゃん達が優しいから辛い。怖いお母さんが怖いから辛い。痛いから、辛い。
辛いのが嫌だから、終わらせちゃおうって思ったのは多分疲れてたから。
前と同じように階段を上って、確かにそこに存在する空気の壁を通り抜けた。
プリントを使って紙飛行機を折って、飛ばしてみる。
少し離れたところまで飛んでいったけど、そこで失速してぽとりと落ちた。
プリントが落ちた先にゆらゆらと揺れる空間が見えて、折り紙で折った蝶を手の平に乗せた。
何もない空間から這い出てきたモグラみたいな見た目の蟲に、消えちゃえって思いながら紙の蝶を落とした。
途中で羽を動かして、ひらひらと飛んでモグラの鼻先に留まる。
蝶が触れたところから段々とモグラが消えていって、十秒くらいで何もなかったような空間が戻ってきた。
少しだけ力が抜けてそのまま地面に座り込みそうになるのを、誰かに支えられて硬い胸板に寄りかかった。
やっぱり近くにいたんだって微笑んで、草薙さんを見上げて唇を開いた。
「私を殺して」
思っていたよりもするりと出てきた言葉で目を見開く草薙さんが少し面白くてくすくす笑った。
蟲を呼び寄せるのに使ったから消えたプリントで作った紙飛行機も、折り紙の蝶も、もうこの世界に存在しない。
同じように、私も同じことができる草薙さんに消してほしいと思ったのだ。
「……俺の家、行こう。すぐには返事できないし」
険しい顔になって、だけど拒否されないだけでも私にとっては大きな収穫だった。
手を繋がれて、と言うよりは手首を痛くない程度の力で掴まれて、猫がいっぱいいる家に向かう草薙さんの後を歩く。
霧は出てきたけど前に来た時よりずっと薄くて、その道も前よりもすぐに終わった。道が違う、のかな?
草薙さんが家の扉を開けたらまた雪之丞さんが出てきて、驚いてたけど草薙さんはそれに対して「客間使うから」とだけ伝えてさっさと靴を脱いで廊下を歩き始めた。その時は手を離されたから、自分で靴を脱いでそれを揃える。
そういえば飛び降り自殺する時って靴を揃えてその下に遺書を置くこと多いんだっけ……ちょっとそれっぽい?
前と同じ畳が貼られた客間で、前と違って私の周りに猫は集まってこなかった。
「失礼します、お茶をお持ちいたしました」
障子の向こうから女の人の声が聞こえてきた。葵さんとは違うタイプの声だ、誰だろう。
草薙さんが返事をして、障子を開けて入ってきたのは二十歳くらいに見えるふっくらした女の人だった。癒し系だ。
向かい側に座ってる草薙さんの前と私の前に湯呑みを置いて、その女の人は客間から出ていった。
「喉乾いてない?これから話してもらうから、何か飲みたいなら先に済ませておいて。他の物も出せるし」
「大丈夫」
それならどうして唐突に殺してくれと言ってきたのか、本当にすぐに問われた。まあ、気になるよね。
少しの間考えて、昔話をするから飽きたら教えてくれと先に言ってから話を始めた。
思い出すだけで心の内側が全部真っ黒なもやもやしたものに侵食されるような、終わらせたい記憶。
お父さんは普通の会社員で、お母さんは専業主婦だった。子供の私の世話を見るのはお母さん。
お父さんは育児のことはお母さんに任せきりで、子供が怪我しててもそこまで気にしてはいなかった。
幼稚園に入るまでの記憶はないから、入った後少ししてから、になるのかな。
覚えてる限りでの一番最初では既にお母さんは私のことを嫌ってて、私の為って言って何回も殴って叩いてた。
騒いだり、はしゃいだり、大声を出したり、そういうのをとても嫌う人だった。
そのくせ自分はヒステリックで、お父さんはお母さんの金切り声を聞きたくなくて会社に詰めてたらしい。
だけどお母さんはそれを私が良い子じゃないからだって言って、良い子になれるように教育した。
泣いたら駄目。大声を出したら駄目。走るのも駄目。大きな物音を立てるのも駄目。
制限されてばかりの生活が普通だって思ってたから、お父さんがそれをおかしいって言ってお母さんと喧嘩し始めた時は不思議に思ってた。言われたことを守れないと殴られるか、或いは蹴られるかが普通だって考えてた。
お父さんがお母さんを母親失格だって罵って、お母さんが、ならあなたが子供を育てなさいよって言った。
実際にお父さんが仕事をお休みして、私のお世話を見ることになった。
泣かないし騒がない、物音も立てないけど、元から虚弱体質で倒れやすかったから目を離せなくて疲れたと思う。
静かにしているだけだと思ったら過呼吸になってたり、いきなり吐いたり、咳し出したり。
三日くらいかな?それくらいでお父さんは諦めて、私のお世話をするのをお母さんに任せ直した。
お母さんが気に食わないって思うことをしたら殴られるのが……八才まで続いてた、かな。
自分の親がおかしいってことも、自分が他の子よりも身体が弱いこともその頃にはちゃんと知っていた。
お母さんが私を出来損ないって罵って、偶に帰ってくるお父さんがそれを咎めて喧嘩になることも知っていた。
お父さんが離婚の手続きを進めていることも、お母さんが浮気していることも、知ってて目を背けていた。
離婚が成立して、私の養育権はお母さんに押し付けられてお父さんが担うことになった。
養育費はお母さんの浮気相手が払うことになってたらしいけど、実際払われてたかは知らない。
十二才になるちょっと前にお父さんが急に再婚するって言い出して、今の家族が住んでたマンションに引っ越した。
お父さんの名字は婿入りした形で変わったけど、私は変わらなかった。
お父さんは新しい五人の家族には優しかったけどその分私には冷たくなった。
普段はずっと無視してて、自分の気が向いたら構って、過呼吸になると迷惑そうな顔をする。
だから先生に相談して、薬を飲み始めた。そうすれば辛くなかったし、お父さんも嫌な顔をしなかったから。
お金を払ってくれてた亜由さんだけは私の体調のことを頻繁に気にかけたけど、他の人は知らない。お父さんは気にしないから、実質知らないのと一緒だ。多分、教えたら「ああ、そうだったのか?」って言ってたと思う。
だけど亜由さんと二人で出かけた時に私が通り魔に狙われて、亜由さんが丁度私の前に出てきてマグカップを見せようとしてたから、結果として亜由さんが代わりに刺された。「お前じゃない」って言ってた。
実際に殺すつもりじゃなかったのかもしれない。私の肩の辺りで、亜由さんだと、丁度心臓のところ。
笑顔が驚愕から苦痛に変わって、崩折れた亜由さんがそれでも私を心配する言葉を吐くから、泣いたんだ。
私みたいな邪魔者のことなんて心配しなくていいから、自分が死んじゃうかもしれないことを気にしてほしかった。
だけど亜由さんは真冬の屋外で、その場でどんどん冷たくなっていった。
救急車が呼ばれて、救急車の中で死亡判定が下された。
亜由さんの血がついた服のまま病院に行って、ご家族がくるのを待っていてくださいと言われた。
そうして誰よりも一番最初に病院に到着したのはお父さんで。
生きている私と服についた血を見て目を見開いて。
警察の人が「通り魔は私を刺すつもりだったと供述している」って言葉を聞いて、掴みかかってきた。
当然のことだったと思う。「何でお前が死ななかったんだ」って言われるのは、仕方ないことだったって、思ってる。
私は役立たずの邪魔者だったから、きっと死ぬなら私の方が良かった。
お姉ちゃん達はみんな違うって言ってたけど、お父さんはそうだって肯定した。
亜由さんのお葬式の後、お父さんはお酒に溺れた。お酒を飲んで、酔っ払って、私だけを殴った。
酔っていても亜由さんの子供を殴らなかったのは尊敬してる。本当に大好きだったんだなって思うから。
だけどそれなら、殴られる私は何なんだろう。お酒の瓶で傷つけられる私は何なんだろう。
泣きたいのはお父さんの方だと思ったから、泣かなかった。亜由さんが死んで悲しいのは多分、お父さんの方だった。
最後は酔っ払って外を歩いてて、車道側に踏み出してトラックに轢かれて死んだ。
それから、お姉ちゃん達がみんなバイトを始めて、私は何かしようとする度に止められた。
危険なことをさせたくなくて、私が大人しくしているのが一番いい結果になることがわかったら、それもやめた。
良い子でいれば少なくとも『邪魔者』にはならないから。まあ、お母さんからすればそれでも邪魔だったらしいけど。
亜由さんがお金を出してくれてたから薬は残ってた。お父さんも面倒をかけられるよりはってお金を出してたし。
この間精神科に行ったのは、薬が無くなったのが理由。
だけど、どうでもよくなったんだ。
私を憎んで、私を殴ることでそれを発散する人はいないから、私を使いたいって人はもういない。
どうしても私じゃないと駄目な人はいない。だから、生きている意味がない気がした。
生きている意味がないなら、どこにも居場所がないこの世界から消えてしまいたいと思った。
世界の邪魔者として消される蟲みたいに、私のことも消してほしいと思った。
家の中も、外も、私に優しい人はいるけど、助けてくれる人は多分いない。助けてって、言えないから仕方ない。
ある程度の距離感でそれ以上近づくことを許していないのは私の方だから、仕方ない。
お母さんに躾けられるのも、お父さんに殴られるのも、逃げてばっかりなのも、仕方ないから、受け入れてる。
草薙さんのことも、葵さんとか雪之丞さんのことも、否定できないから諦めて、受け入れた。
疲れたから、誰にも必要とされない蟲と同じように消してくれないかなって考えた。
いつの間にか止まらなくなっていた涙を拭っていると話ができないから、そのまま話し続けた。
最後まで静かに話を聞いていた草薙さんが、不意に立ち上がって机の向こう側から回り込んできた。
「ねえ、殺して?草薙さんに、消してほしいの」
こてんと首を傾げておねだりする時の晴みたいに言ったら、草薙さんに抱きしめられた。温かい。良い匂い。
抱きしめられることを甘受して、その腕の中で心地良さを感じながらちょっとだけ微睡んでいた。
「……わかった。殺してあげる」
随分と長い沈黙の後にそう告げた草薙さんの顔は見えなかったけど、少しだけ声が震えてた。
「じっとして、できれば目も瞑ってて。すぐ終わるから」
告げられた言葉に素直に頷いて、目を瞑って草薙さんに身体を預けた。
髪の毛を束ねていたゴムが外されて、ばさりと長い髪が床に落ちた。座ってるとこうなる。
何がしたいのかと考えて、だけど両手でもう一回全部の髪の毛を纏め直す草薙さんにじっとしててって言われたから動かずにじっとしていることにした。多分、嘘は吐かないだろうなって思ったから。
ざくって音がして、急に髪の毛が軽くなった。少し理解が追いつかなかったけど、髪を切られたらしい。
緊張が解けたみたいに溜息を吐いた草薙さんに後ろを見てって言われて、その通りに後ろを向いた。
多分切られた髪が散らばってるんじゃないかなって思ってたけど、予想に反してそこには畳以外何もなくて。
「……草薙さん?」
「殺したよ?苦しんだ年月分、全部切り落として消した。今までいた鈴代 茶羽は、消えたよ」
折角綺麗な髪だったのにと、不満気に呟く草薙さんに首を傾げた。
髪の毛を切られただけなのに、どうして殺したことになるんだろう。
「髪に魂が宿るって伝承知ってる?あれ、本当のことなんだよ」
「?」
訳がわからないと、言葉ではなく態度で示す私の短くなった髪を弄びながら少し困ったように笑った。
「鈴代 茶羽の魂は力と一緒に髪に宿ってた。だから、これまで形成されてた魂を切り捨てたんだ。魂は年月の積み重ねで出来上がっていくものだから、年月を消し去られた君は、記憶があるだけの別人。わかった?」
わかるような、わからないような。
煮え切らない態度の私に苦笑してるけど、責める様子は全然ない。
曖昧な世界の中、空っぽに戻ったような心でちゃんとわかる感情が一つだけあった。
ぽかぽかして、今までとは違って、心の内側から冷やすものじゃなくて、その逆。暖かいんだ、これは。
「すき」
口に出すと腑に落ちた。ずっと、好きだったんだ。
お母さんのことも、お父さんのことも、亜由さんのことも、恵達のことも。
嫌われてても好きだった。偶に見せてくれる優しい顔を、本当はもっと見たかった。
全部がごちゃごちゃになってた時にはわからなかったこと。
「どうしようかなぁ」
「何を?」
無意識で呟いてた言葉に、無表情なのに不思議そうに尋ねてきた。それがわかるのが、とても楽しい。
懐いた猫みたいに抱きしめてくれてるままの草薙さんに擦り寄って首元に抱きついた。自然と笑みが溢れる。
「私ね、今までずっと好きなんて感情知らないと思ってたの」
内緒話をするみたいに耳元に唇を寄せて話しかけた。声は別に潜めてないけどね。
「本当はずっと好きだったんだ、嫌われても殴られても、少しだけの優しさが好きだった」
良い子にできたら少しだけ褒めてくれた。それ以上に殴られることの方が多かったけど。
気が向いたら優しくしてくれた。そのちょっとの間の愛情が欲しくてずっと近くにいようとしてた。
「草薙さん、『私』を殺してくれてありがとう」
狂人としか言えないような言葉だけど、それ以外に感謝の伝え方が思い浮かばなかった。
「貴方が殺してくれたから、自分の好きな人がわかった」
一定の距離感を保っていた人達は、向こうから私に近寄ってきた人達で、今もそこまで大事じゃない。
だけど、お父さんとお母さんのことが好きだったことに気づけた。
亜由さんに自分の方を心配してほしかったのは、亜由さんのことが好きだったから。好きじゃなければ気にならない。
お姉ちゃん達が私を好きなことは知ってたけど自分も四人が好きなんだってわかった。
お母さんのところに私を帰そうとした大人達は好きじゃない。慎也さんとか環の彼氏のオーナーのこともわからない。
だけど、家族以外にもう一人好きな人を見つけた。
今はそれだけで、大きな進歩だと私は思う。
「ねえ、どうしようかな」
さっきと同じ言葉を繰り返した。今度は独り言じゃなくて、草薙さんに向けて。
不思議そうに見つめ返してくる切れ長の瞳としっかり視線を合わせて、心の底から幸せだと思って微笑んだ。
「私、自分を殺した人のこと好きになっちゃった」
「……それ、頼んできたの君の方」
脱力したように今度は私の方に倒れかかってきて肩におでこを乗せた草薙さんの頭を撫でてみた。
くっつかれてるから嫌ではないだろうなって思ってたけど、好奇心で髪の毛を掻き分けて確認した。
ちょっとは予想してたけど、流石に驚くくらいその間から見えた横顔と耳が真っ赤に染まってて。
……勢いで言ってしまった自分の言葉が激烈に恥ずかしくなって後悔するのは、そのすぐ後の話。