逆プロポーズ
「予想以上に早かったね。」
「お邪魔します。」
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家を出てすぐ、地図を頼りに今朝でてきたマンションを目指した。南高嶺にある高級マンション。だけど、辿り着いたところでどの部屋にいたかまでは分からず、息詰まる。
大きなトランクの隣でうずくまりながら、マンションへ入っていく人からは不審な目で見られた。行き場をなくした私は、友人に連絡しようとLINEを開く。
その時、"新しい友達"の欄に、見たこともない名前を見つけた。
『Chiaki』
一瞬、誰だか分からなかった。けれど、なんとなくあの人だと思った。そんな気がした。通話ボタンを押す前に一度躊躇しながら、思い切って押してみる。
「もしもし?」
すると、出たのはやはり聞き覚えのある声だった。
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「はい、どうぞ。」
情けないけれど、私にはここしか行くあてはなかった。
ばつが悪い思いをしながら、リビングのソファで紅茶をもらう。それは、今朝と同じ光景。
「言った通り、戻ってきたな。」
足を組んで大人の余裕を見せる彼に、私は苦笑いを浮かべた。何があったかは聞いてこない。ただ、静かに紅茶を飲んでいた。
「君、いくつ?」
「27です。」
私は、そんな彼に全てを打ち明けた。
父に思いをぶつけたことから、勘当されて縁を切られたところまで。
「言っちゃ悪いけど、その年で子供みたいな喧嘩したもんだな。」
「言わないでください。これでも初めてだったんです、父に歯向かったのは。」
そう言いながら、肩をすくめた。
自分でも分かっていた。
いい大人が勘当されるまでの喧嘩をして、言葉にすればするほど余計に恥ずかしさが増した。
「まあ、ほとぼりが冷めるまで、いつまででも――」
「私と、結婚してもらえませんか。」
あまりにも唐突だったかもしれない。
でも、とうとう言ってしまった。
モヤモヤした気持ちを抱え続けるのに耐えきれず、彼の言葉を遮った。ずっと考えていた。いつ言いだそうかと、ずっとタイミングを伺っていた。
ここへ来た以上、私にはひとつの選択肢しか残されていないと、そう思っていたから。
しかし、彼はピクリとも動かなかった。
人生初のプロポーズ。一世一代の告白だったというのに、彼は口をつぐんだまま何も言ってくれなかった。
「あの......」
「いいの?」
そんな彼がやっと口を開いたのは、私が痺れを切らして話しかけた時だった。
「君の目的は、お見合いを破談にさせたいってことだった。でも、それは勘当されて破談。それなら、本当に結婚する必要はなくなったんじゃないか?」
それには、何と言ったらいいか分からなかった。
たしかに、その通り。もう、私が彼と結婚する理由はなくなった。
「ダメなの。」
でも、そんな単純な話じゃない。だから、私はここにきた。彼と結婚するために。
「ここで結婚しなかったら、私はただ逃げたくてハッタリをかましただけだと思われる。」
「ほー。」
「父に証明したいんです。私はあの時、本気だったってこと。意地なの。.....だから、まだあの話が有効なら、私と結婚してください。」
真剣に、ただただじっと彼を見つめ続ける。
すると、彼は無言で立ち上がった。
私を放ったらかしにして、急にその場からいなくなる。気になって目で追っていくと、入っていったのは私が今朝起きたベッドルームだった。
部屋の中からはバタバタと音だけが聞こえてきて、急な行動に思わず首をかしげる。
「はい、これ。」
そんな中、戻ってきた彼は、突然テーブルの上に何やら広げ始めた。
免許証、健康保険証、パスポート、住民票。身分証明書と呼ばれるものの数々が、順番に置かれていく。
「結婚する相手が何者なのか、知っておいた方がいいんじゃない? 」
役所の窓口でも、こんなにはいらないだろう。思わずそう呟いてしまいそうになるくらい、律儀で笑いそうになった。
「どうして、こんなに......」
そう言いながら、彼の言った言葉を頭の中で繰り返し、ハッと顔を上げる。
「結婚する相手って、それじゃあ......」
「よろしく、晴日ちゃん。」
微笑む顔を見て、張り詰めていた緊張の糸が一気に緩んだ。
彼に、受け入れられた瞬間だった。
「あっ.....」
初めて名前を呼ばれ、目の前に置かれた免許証を慌てて手に取る。私は、結婚しようとしていた相手の名前すら知らなかった。
「藤澤 千秋......さん。」
写真をジッと見つめ、少しだけ恥ずかしくなる。この人が、私の夫になる人。そう思うと、不思議な感情に包まれた。
目を泳がせ、ペコリと頭を下げる。
私はこの日、昨日会ったばかりの彼と結婚することを決めた。これは、偽装結婚。
これから、私は"藤澤" 晴日として生きる。