父への思い
「ただいまー....。」
あれから、私は近くの駅で電車に乗ると、30分かけて自宅まで戻ってきた。
門を開けて入っていくと、番犬として並んでいる2匹のドーベルマンに挨拶をする。一見怖く思われがちだけど、慣れればそんなことはない。見慣れている私には吠えず、むしろ寄ってくる可愛い子たち。
ここは、祖父の代に建てられた邸宅。私の実家だ。
大きな扉を開けると、しーんと静かな玄関。私が帰ってきた音なんて気にも止めない家族をよそに、すぐそばの階段を上がって寝室へと向かった。
鞄を置き、すぐに足が向いた先はシャワールーム。ベタつく髪も化粧も、早く洗い流したかった。
頭の上から流れ出るシャワー。顔面から全身にお湯を浴びながら、目を瞑った。
そんな時、頭の中で考えることはひとつ――。
南高嶺。あそこは、高級住宅街が立ち並ぶエリア。セレブが住む街ランキング、トップ3にランクインするような場所。そんなエリアのタワーマンションの高層階に、あの男は一人で住んでいた。
「あの人、何者なんだろう。」
帰り際、何度も見上げたタワーマンション。今でも目に焼き付いているあの光景を思い返しながら、私はゆっくりと湯船につかって考えていた。
――ウィステリア製薬が、アメリカの大手IT企業・J.T.と業務提携を結んでから3年。医療用アプリの開発に成功し、初の業績トップに躍り出たことから、大きな注目を集めています。業界トップを走り続けてきた神谷製薬は、2位に後退し.......
「神谷製薬さん、大丈夫かしら。」
「まあ、うちの病院ほど大変なことではないさ。」
少し眠りについていた私は、昼過ぎに目を覚まし、リビングに降りた。その時、開いていた扉の向こうから聞こえてきた、テレビから流れる神谷製薬のニュースと両親の声。
このまま潰れてしまえばいいのに――。
私の中の悪魔が、そう囁くのが聞こえた。
「あら、晴日ちゃん。帰ってたの?」
入るタイミングを伺いながら、リビングの扉の側で立ち尽くしていると、椅子に座ったまま振り返った母の声にハッとした。
「うん。」
そう返事をしながら顔を見せると、つられて振り返った父と目が合った。しかし、目を合わせたのはほんの一瞬。すぐにスッと目を逸らされる。
「いつ帰ってきたんだか知らんが、神谷家に嫁に行くという自覚を持ちなさい。」
そして、体裁しか気にしていない父の冷たい一言が降ってきた。
「すみません。」
この空間にいるだけで、息苦しい。ここは、空気が薄い。冷蔵庫からお茶を取り出しコップに注ぐと、さっさと部屋へ戻りたくなった。
「神谷さんだけどな。」
しかし、リビングを出る直前で、突然そう話し出す父。
「このまま進めてほしいとのことだ。早速、週末にもう一度会って、正式に籍を入れることになるから。予定を空けておきなさい。」
「え?」
心臓の鼓動が速まっていく。
週末に入籍――。
あの男の言うことが、現実になってしまった。
「そんな、急に.....」
「急なことはない。前々から進めていた話だ。それに、うちとしては早い方がいいに決まってるだろう。」
今朝は、来週には籍を入れているなんて予想、あり得ないと思っていた。鼻で笑ってしまう勢いだったのに。
「私の気持ちは、聞いてくれないんですか。」
「...........。」
「お父さんっ!」
「どう思ったところで、もう決まっていることだ。」
――パキッ
心の中で何かが壊れる音がした。
一瞬考えたように見えた間は、呆れ気味に小さくため息をついたため。背中越しにでも分かった。話し合う意味もないと、言われているようだった。
この結婚からは、絶対に逃れられない。
今、改めて分かったのは、私に残された時間はほとんどなくて、交渉の余地もないということ。
私が取るべき行動はひとつしかなくて、それを実行するのは、まさに今だ。
「お父さん、お母さん。話があります。」
思い立ってからの決断は早かった。
改まったように切り出すのは、これが初めてのことじゃない。矢島さんとのお付き合いを告げた時。あの時も、こんな昼下がりの休日だった。
戸惑う母をよそに、父の向かい側に座る。
「私、結婚します。」
そして、そう宣言をした。
「なんだ急に。神谷さんとの結婚なら、わざわざ言わんでも決まっていることだ。」
話しかけているのに、それでも父とは目が合わなかった。ニュースに夢中になりながら、湯呑みに入ったお茶をすする。
でも、大きな勘違いをしている。私の宣言はそんな軽いものじゃない。
「結婚したい人がいるの。でも、それは神谷さんじゃなくて.....」
――ゴンッ!!!
やっと、目があった。
割れる勢いで、机に叩きつけて置いた湯呑み。お茶をテーブルに飛び散らせながら、こちらを見る目は血走っていた。
「何を言ってる!親を馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
「どう言われようと本気です。神谷さんとは結婚できません。」
睨み合う私たち。言い始めたら、もう引き返せなかった。母は交互にこちらの様子を伺い、どうしたらいいかとおろおろしている。
「呆れたな。自分の思い通りにならないからと、わがままばかり。身勝手にも程があるぞ。」
その時、思わず耳を疑った。フッと鼻で笑ってしまい、あまりの言われように聞き返す。
「わがまま....?」
「子供みたいに、駄々をこねるんじゃないと言ってるんだ!」
もう耐えられなかった。今まで耐えてきたものも、全て崩れ落ちた気がした。ギュッと握った手のひらには、爪が食い込み、肩が震えた。
「いつ駄々をこねた?いつわがままを言った?」
「晴日ちゃん、落ち着いて。」
「私は駄々なんてこねてないし、わがままも言ってない!今までに一度だってない!!」
大きな声を出して、言い返したのは初めてだった。目を丸くしてこちらを見ている父の顔も、初めて見る。私を止めるため近づこうとしていた母も、さすがの勢いに後ずさった。
「小さい頃から、お父さんの言う通りに生きてきた。死に物狂いで勉強もした。バレエもバイオリンも水泳も、嫌だったけどちゃんとやった。」
昔の記憶を辿りながら、打ち明けたことのない想いを吐き出した。
「やれと言われて、中学受験もした。入れと言われたアメリカの大学も卒業した。病院を継ぐんだと言われた日からは、経営の勉強もしたし、全部全部言う通りにした。逆らったことなんてなかったじゃない!」
どこで息継ぎをしたかも覚えていない。息を切らしながら、ただただ言いたいことをぶちまけて、頭に血が上っていた。
その瞬間、扉の側で顔を出していた桜と目があった。
あまりに私が大きな声を出したせいで、部屋から出てきてしまったんだと思う。
「それでも唯一、自分の意思で決められたのが、矢島さんとの結婚だったんです。」
心配そうに見つめる桜を見て、少しだけ冷静さを取り戻した。
「晴日、お前.....」
「お父さんは、その唯一を私から奪った。」
今まで、守ってきたものはなんだったんだろう。
お父さんの顔色を伺って、それでも認められたくて、褒めてほしくて。人一倍努力をした。友達とも遊ばず、桜の分までとずっと頑張ってきた。
「もしこれで、神谷さんと結婚してしまったら、もうそれは私の人生じゃない。お父さんの人生です。」
私は、その場を立ち上がった。父の目も、母の目も見られず、涙を浮かべた。
「本気なのか。」
寝室へ戻ろうとする私に、静かに言う父。こちらを見ているかも分からないけれど、声を出したら泣いてしまいそうで、歯を食いしばって頷いた。
「出ていきなさい。」
すると、重い重い言葉が降ってきた。
「家族のために、結婚もできないような親不孝な娘は、この家にはいらん。他の男と結婚すると言うなら、勘当だ。私の前に二度と現れるな。」
先に、桜が泣いた。
そして、母が泣いた。
心臓の音だけがやけに大きくなり、耳鳴りがする。
何も言えず、寝室へと走った。泣いて、泣いて、泣きながら、必要なものは全てトランクに入れた。
「晴日ちゃん、お願いよ。お父さんに謝って。今ならまだ間に合うわ。引き返して。」
ガラガラとトランクを引きながら、廊下を歩く私。それを後ろから追いかけてくる母。
しかし、私は構わず玄関で靴を履いた。そして、大きく息をはいて振り返る。
「お母さんは最後まで、私の味方じゃなかったね。」
私にとっては、最後の希望だった。
小さい頃から桜しか見ていなかったお母さんも、私にだって同じ愛情を持っているんだと、思いたかった。でも、どれだけお父さんからひどい言われ方をしても、一度だって割って入ってくれることはなかった。
もう、ここにいる意味は無い――
この日、私は27年間いた瀬川家と縁を切った。