愚痴でも聞きましょうか?
「ちょっと飲み過ぎだぞ。」
「えー、お金払ってるのにー。私は飲みたいものを、飲みたいだけ飲むんですっ。」
あの後。私は、自然と流れてきた涙を拭う気力もなく、一言も口を利かなかった。
窓の外を眺めながら家に着くまでの間、母の言葉にも反応せず、ボーッと一点を見つめていた。
部屋に戻り、ベッドの中で現実逃避。気づくと、2時間ほど経っていた。開けっ放しにしていたカーテン。窓から差し込んでいた光も、いつの間にかなくなっていて、外がもう暗くなっていたことに気づく。
ようやく、重い体を動かす気になった。
私は誰にも告げず、フラッと家を出た。
行き先も決めずに歩いた。イヤホンをして音楽を聴きながら、あてもなくただ歩き続ける。
すると、吸い寄せられるように辿り着いた場所。私は、やっぱりここへ来てしまうようだ。
――Bar 零
路地裏にひっそりと構える、隠れ家的な雰囲気のバー。暗がりのムードある、アンティーク調の店内。バーカウンターには、お洒落なキャンドルがちらほらと灯っている。
「同じのください。」
「これで何杯目だよ.....」
「いーから、同じのっ。」
ここは、私が病院で働き始めた頃から通っている、行きつけのバー。カウンターの中に立つバーテンダーで、ここのマスターの男性とも長い付き合い。
私は、いつものように慣れた口調で注文をした。
「なんかあったのか?」
しばらく飲み続けていると、グラスを拭きながら、呆れたように尋ねてくるマスター。
「なんかって?」
カウンターで項垂れるように頬杖をつく私は、お酒のグラスを傾けながら、彼の顔を見上げた。
「何かないと、ここには来ないだろ。」
黒いハットを被り、口ひげを生やした30代の若いマスター――岬 零士さん。
彼がこのお店を開業した翌日。偶然に見つけてから、私は嫌なことがあるたびにここへ来て、飲み明かしていた。
気持ちよく飲んでいたのに、スッと酔いがさめてしまった。私は真顔に戻ると、ため息まじりに言う。
「別に。ただ....、家族ってなんだろうって、改めて痛感させられただけです。」
言葉にすると、余計に体が重くなる。思わず、新しくもらったお酒を一気に飲み干し、グラスをあけてしまった。
「ああ、ああ、ああ....、そんな飲んで。晴日ちゃん、ちゃんと家帰れよ?」
ここでは、だらしのない所ばかり見せてきた。どんより下を向きながら聞こえてきたのは、もう何十回と耳にタコができるほど聞いた台詞。
私は、子供みたいに膨れっ面を見せた。
「愚痴でも聞きましょうか?」
すると、突然背後から聞こえてきた声。それは、甘い低音ボイス。不意打ちに耳元で囁かれ、ゾクッと体が反応した。
驚きのあまり振り返ると、綺麗な顔が目に飛び込んできた。
長身。黒髪。少しウェーブがかかったナチュラルヘア。健康的な肌の色。綺麗な二重の瞳。鼻筋の通った高い鼻。色っぽい口元の黒子。
芸能人かと見間違えてしまう程、どのパーツをとっても整っている。
でも、一瞬にして私の苦手センサーが働いた。
世の女性ならきっと、ここで一緒に飲みましょうとなるところなのだろうか。ニッコリ微笑みかけてくる胡散臭い笑顔に身震いし、咄嗟に顔を背けた。
「話しかけるなら、他当たってもらえますか。別にナンパ待ちじゃないので。」
思いっきり、冷たく突き放した。
ちょうど、2つ隣の椅子を引き、座ろうとしていた彼。私の言葉を聞き、動きが止まると、突然に笑い始めた。
「は?」
純粋に出た言葉。
豪快に口を開き、いつまでも笑っている彼。初めて会う人に、こんなに笑われたのは初めてだった。
「いや、失礼っ。それにしても、ナンパって。」
そう言う彼の元へ、注文もしていないのに置かれたお酒。会話も交わさず、零士さんからグラスを受け取る姿は、明らかに慣れた常連の動きだった。
「勘違いさせたならごめん。たしかに、君のルックスだったらよくされてるんだろうね、ナンパ。男が好きそうな顔だし。」
含み笑いを浮かべながら、まあまあ失礼なことを言い出す。初対面の女性に言うことだろうか。
私は自然と彼を睨みつけていて、思わずため息が出た。
「ごめんね、晴日ちゃん。あいつ、俺の大学の時からの友達で。あんま気にしなくていいから。」
すると、近づいてきて申し訳なさそうに言う零士さん。
その言葉を聞いて、やっと納得した。常連というより、友達。私は、あーっと声を出しながら彼と目を合わせ、ひとまず会釈をする。
なんだか、また酔いが冷めた気がした。
「零士さん、もう一杯。」
私は、彼のことなんて無視をして、また1人の世界に入ろうとした。
別に、誰かと飲みたくて来てるんじゃない。好きなだけお酒を飲んで、酔っ払って、嫌なことを忘れたい。それだけ。
「本当にこれで最後にしろよ?」
「えー。」
自分では、そんなに飲んだつもりはないのに、若干怒られながら出されたお酒。グラスを手に取り、不満げに口を尖らせた。
「何?やけ酒?」
すると、また右の方から聞こえてくる声。長い足を組みながら、頬杖をつき横目で意地悪い笑みを浮かべている。
なんだか、本当に感じが悪い。
「悪いですか?」
「いや?」
「じゃあ、ほっといてください。」
「でも、1人で淡々と飲んでるより、誰かに聞いてもらった方が楽なのに。」
ずっと、堂々巡りのこの会話。
全く引き下がろうとしない彼に苛立ちを覚えながら、最後だと言われたお酒も一気に飲み干した。遠くの方で、また零士さんの「ああ、ああ、ああ....」が聞こえて来る。
それでも、止める気はさらさらなかった。
「おっ、いい飲みっぷり。零士、奢るからもう一杯あげて。」
「やめろって、飲ますなよ。結構その前から飲んでんだから、帰れなくなるだろ?」
感じの悪い男と、零士さん。そんな2人の会話が、覚えている最後の記憶だった。
その後は、全く覚えていない。そのお酒が何杯目だったのかも。それから何杯飲んだのかも。どうやって帰ったのかも。
気づくと、朝で――。
気づくと、ベッドで――。
気づくと、知らない人の家だった――。