私の家族
桜の結婚式から1週間が過ぎた――。
風情ある日本庭園が広がる由緒正しき料亭。錦鯉の泳ぐ池に、存在感のある大きな松の木。隣から聞こえてくる薄っぺらい会話と笑い声に混ざって、鹿威しの音がした。
退屈な時間を過ごしながら、きつく締め付けられた着物の帯のせいで、食事はまともに食べる気にはなれなかった。
時々、帯の間に指を突っ込みながら、ふと見上げる空。鳥が自由に飛んでいるのを見ると、無性に羨ましい気持ちになった。
「まあ、私たちばかり話してしまって。」
「本当ですね。ついつい奥様とは、話が弾んでしまいます。」
どれだけ聞いていても、上っ面にしか聞こえてこない。それは、隣に座る母と上品な奥様との会話。向かい合って話し、盛り上がる母たちとは裏腹に、こちらは無音。たまに、箸がお皿に触れてカチャッと音が立つだけだった。
27歳の春。私は、目の前に座る"能面さん"と、お見合いをすることになった。
私と同じくらいの歳だろうか。短髪で眼鏡をかけた、いわゆるインテリな彼――神谷 秀介。
会ってから、まだ一度も表情が動いたところを見ていない。愛想笑いもせず、相手は誰でもいいと言わんばかりに、私の顔なんて見向きもしない。淡々と、この会を乗り切ろうとしているようにしか思えなかった。
「それにしても、晴日さんは本当にお綺麗な方ね。お着物もとっても似合ってる。ねえ、秀介。」
「ああ。」
反応はするものの、黙々と食事をしながら顔はあげない。興味がないのは明らかだった。
こんな場所、早く抜け出してしまいたい――。
愛想笑いとため息の往復で、そろそろ顔の筋肉も引きつりそうだ。
矢島さんが桜と結婚した日からは、まだ1週間しか経っていない。それなのに、すごく時が経ったように感じる。
退屈な時間の中、ふとあの日のことを思い出していた。
__________
「晴日、話がある。」
結婚式に披露宴。華やかな式が終わって早々、迎えの車を待たせる父が、帰ろうとする私を引き止めた。
今は帰りたい。矢島さんを引き離し、私たちを兄妹にした。そんな父と、今は一緒にいたくない。
そう思っていても、逆らうことができない。無言の圧を感じながら、渋々同じ車に乗り込んだ。
「見なさい。」
車が走り出して早々、高級感のある手触りのいい台紙を渡された。恐る恐る中を開いてみると、そこにはかしこまった表情の男性が映っていた。
「来週の日曜、12時。雅亭。」
唖然としている私に、業務連絡のように告げてきた父。その言葉とこの写真。すぐにピンときた。
「私に.....お見合いをしろ、ということですか。」
「彼は、神谷製薬の一人息子だ。将来、会社を継ぐことになるだろう。良い縁談だ。」
驚きのあまり、言葉も出なかった。
私には分からない。あれだけ矢島さんとの結婚をまとめようとしていた父が、こうも突然変わってしまうなんて。信じられなかった。
「矢島さんと結婚して、瀬川総合病院を継いでほしい。1年前、私にそう言ったのはお父さんでしょ。」
元々、病院は私が継ぐはずだった。
体の弱い桜に経営を任せるのは、とてもじゃないけど荷が重い。だから、私の夫となる相手が瀬川の家の婿養子に入り、跡を継いで一緒に支えていく。
最初にそう告げられたのは、高校生の時だった。桜もそれを受け入れていたし、私もそういう運命なのだと覚悟していた。
外科医としても優秀で、経歴も申し分ない。若手のホープと言われる矢島さんと付き合い始めた時、そんな私の婿にはピッタリだと喜んでくれた。
ずっと望めないと思っていた恋愛結婚が、目の前に見えた瞬間だった。
それなのに.......
「晴日、お前も知っているな。うちの病院経営が、だんだんと傾いてきていることを。」
「はい。だから、私が矢島さんとあの病院を....」
「いや、そんな簡単な話ではない。もう、ただでは立て直せないところまで来ているんだ。」
人を威圧するあの表情。
人を萎縮させるあの喋り方。
思わず敬語になってしまうあの空気感。
そんな父に、こんな表情があったなんて。私は知らなかった。頭を抱え、少し弱っている表情。思わず、その顔を見た瞬間、口をつぐんでしまった。
「私たち家族に残された道はないんだ。神谷製薬のご子息と結婚する以外には.......」
__________
「では、また近いうちに。」
「はい。こちらこそ、宜しくお願い致します。」
車で去っていく神谷さんを見送り、残された母と私。窮屈な着物の帯を緩めながら、ため息混じりに待っている車へと乗り込んだ。
神谷製薬は、業界のトップを走る製薬会社。
現社長と父は学生時代からの友人で、そのつてもあってか、父の病院で扱っている殆どの医薬品が神谷製薬のもの。今回の縁談は、そんな神谷家との太いパイプを作ろうとする父の策略によるものだった。
これは、いわゆる政略結婚なのだ。
「晴日ちゃん。」
「ん?」
「お父さんを、恨まないであげて。」
家に向かう車の中。突然、私の手を握る母が、不安げに顔を覗き込んできた。
「晴日ちゃんと矢島さんが結婚すること、お父さんはちゃんと認めてたのよ?本当なら、このまま結婚させてあげるつもりだった。」
そう言いながら、沈んだ表情を見せる。私は、この顔を見ると、どうしても強く言えなくなる。
「じゃあ、結婚させてくれればよかった。」
でも、今回ばかりは耐えられなかった。
「晴日ちゃん....」
「どうしてわざわざ、桜となんて結婚させたの?どうして.....、そんな残酷なことができたの。」
話し出すと、もう止まらなかった。
この1週間。家でも職場でも、腫れ物に触るみたいに扱われ、誰にも言えなかった思い。いつも真っ先に話を聞いてくれていた桜も、今回ばかりは踏み込んでこなかった。
「本当はね、桜ちゃんだったのよ。今回のお見合い。」
「え.....」
「でも、先方にお断りされちゃってね。」
突然、打ち明けられた事実。初めて聞く話に驚いて、言葉にもならなかった。
母は、そんな私をよそに話を続ける。
「ほら、あちらは一人息子でしょ?秀介さんが跡を継いだ後、将来は彼の子供が跡を継ぐことになる。そうなった時、体の弱い桜ちゃんが子供を産めるのかって、心配されててね。もし産めたとしても育てられるかって。」
涙ぐみながら、悲しそうに口元をおさえて言う。そんな姿に、私はなぜかサーッと血の気が引いていくのを感じていた。
きっと、桜が子供を産むのは難しい。
医者でなくても、一番近くで見ていた私はなんとなく分かっていた。家でも長時間歩くことはできなくて、少し外へ出るのも一苦労。悪い時は、一日ベッドから起き上がれないことだってある。
あの結婚式だって、先生が付き添っていても、ギリギリまで迷ったほど。
だから、そんな桜が出産に耐えられるとは思えない。分かっている。分かっているけれど.....
「そうしたらね。体の弱い桜ちゃんじゃなくて、次女の晴日ちゃんとなら話を進めましょうって。......仕方なかった。病院存続のためには、神谷製薬さんとの関係を築くのが不可欠。矢島さんとのことを諦めてもらうほかなかったの。」
逃げ道は、一つも用意されていなかった――。
なんとなく、話の流れから感じていたこと。これは、母お得意のいつもの流れだと。
結局、みんな同じ。大事なのはあの病院。娘の気持ちなんて二の次で、あの病院が存続するなら犠牲はいとわない。
桜を思って流す涙も、私にいろんなことを諦めさせる文句も、昔から何一つ変わってはいない。
「はい、わかりました」と、そう言うしかないような道筋しか、いつも用意されていなかった。
「それでも、正直に話してほしかった。騙すような真似して、二人を結婚させて......。ここまでする必要はなかったでしょ?」
やっと、口を開くことができた。
振り絞って荒げた声。最後に残っていたモヤモヤを、全て吐き出すように母にぶつける。
すると、今度黙り込んだのは母だった。
「何かあるの......?」
そう聞いても、言いずらそうに口籠り、ちらちらと私の目を見るだけ。
「何?言って?」
気になって仕方がなかった。
しばらくして、観念したように話し出す母。
「矢島さんが結婚してしまえば、晴日ちゃんは諦めるしかないだろうって。」
話すのを渋っていた理由は、これだった。
血も涙もない言い分には、ほとほと呆れる。開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。私の反応を確かめもせず、従わせるためには手段を選ばない。
これが、私の家族だ――。