2・天使と少女
「神と我ら天使が住まう絶界神域への無断侵入、神をも恐れぬ愚かなるその所業、大地の国に住まう人の子よ、命を以て贖うしかないと知れ」
聖なる気が込められた言葉が静かに響く。
その言葉には敵意も殺意も込められていない、それが伝えるのはただの決定事項。
拒否する事も否定する事も許さない、絶対の裁定。
背に純白の二枚羽根を有し、その頭上に光り輝く光輪を戴く者、天使。
地上に暮らす大地の民では到底たどり着けぬ遥か天空の彼方に存在するという神の住まう領域、絶界神域と呼ばれる空間を守護する神の走狗にして人知を超えた力を備えた高次の存在。
一体の天使であっても小国一つ滅ぼすに足る力を持つと謳われている、そんな尋常ならざる存在が数十体。
大国にでも攻め込もうかという程の戦力をたった一人の少女に注力し、その周囲を取り囲んでいた。
「生身で絶界神域に至るなど、まさに奇跡に等しいものだ、だが如何な理由があれどそれは人の分を越えている。許可無く土足で絶界神域を侵したその所業に神はお怒りである。神罰である神の火に焼かれ、己が愚かしさを恥じ、悔悟と共に塵となるがよい」
一体の天使がそう言うと、少女の足元から突如として火柱が立ち上り、全身を包み込む。
炎に包まれた少女は身じろぎ一つしない。
瞬く間に燃やし尽くされ炭化し塵と化した、天使たちはそう判断した。
最早、事は済んだと天使たちはその場をあとにしようとしたその時。
「ハッ、神はお怒り、だと? 神を愚弄しているのはうぬらであろうが。神の愛は無限である、ゆえに妾の行動も言葉も全てお許しになる。そう、神は全てを許すのだ。この領域に残された神の遺物を使い、光輪を鋳造して天使などとうそぶく羽根つき如きが神の何たるかを騙るでないわ」
傲岸不遜な物言いと共に火柱が消し飛び、獣の如き笑みを浮かべた少女が何事もなかったかのように立っていた。
その光景に呆気にとられている天使たちは何が起こったのか理解できずにいた。
少女は近くにいた天使の目の前に瞬時に移動しその首を乱暴に掴んだ。
首を掴まれた天使がなんらかの反応をする前にグシャリッ、と少女は天使の首を容易く握り潰す。
獣の如き笑みを浮かべたまま少女は絶命した天使をぞんざいに投げ捨て、手についた天使の血を汚いモノとでもいうように振り払う。
「これが神の火、これが天使? 嘗められたものよな。既にこの領域を去り、さらなる高みへと昇華した神々の寝所に住み着いただけの存在が神の走狗を気取り、挙句に神の遺産を使い神の真似事だと? ハハハッ、いい笑い話だ!! 天使の真似事だけでなく神の真似事にまで手を出すとはな、これではどちらが神をも恐れぬ愚かな所業なのやら分かりはせんなぁ」
ゲラゲラと笑う少女を前に天使たち、天使を名乗っていた有翼人たちがざわつき始めた。
「ぐぅッ!? 人の子が神の火に耐えただとッ!? あり得ぬ!! そんな事、あり得てはならないッ!!」
「どうなってやがる!! 最大火力でぶち込んだはずだろうが!! 神の火は神敵を焼き滅ぼすんじゃなかったのか!?」
「ただの人間の小娘に耐えられるはずない!! 今までだって、神の火で多くの魔族や転移者、転生者を焼き殺してきたってのに!!」
ざわつく有翼人たちを見てハァと心底どうでもいいとため息をこぼし、少女は一度手を叩く。
パンッと響き渡る音に有翼人たちはハッとして少女を見た。
少女は幼児にも分かるように優しく、笑顔でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そう、神の火は神の敵対者を焼却しその魂の汚濁を浄化し新たなる命を与え、再度大地へと落とす救済兵器。無限の愛ゆえに神は敵対者にすら愛を、救済をもたらさんとする。人である妾には理解し難いのだがね。まぁなんというか、つまりは、だ。うぬらが神の真似事に使っていた神の火は、神の信徒に対しては何の効果も及ぼさない。蛇足ではあるが教えてやろう、うぬらは神の火を扱っていたと思っていたようだが、あれでは真なる神の火とは到底言えぬ。込められた魔力があまりにも少なすぎる、あれでは神の火は十分に機能しない。本来の威力であれば魔王種でさえ一息に浄化できる代物よ」
少女の言葉に有翼人たちは困惑した。
神と天使の名を騙り、多くの大地の国々より貢物を徴収し、絶界神域にたどり着いた者たちを神罰と称して一方的に嬲り殺す事を愉悦としていた彼らにとって少女の存在は異質なものであった。
少女の言葉を信じるならば、今までこの領域までたどり着いた者を焼き殺していた神の火はこの少女には無意味。
なにより、この少女は何故かはわからないが自分達の正体を知っている。
自分達が天使などではなくただの有翼人であると。
「何故かは知らねぇが…。お前は俺たちの秘密を知っている、理由なんざどうでもいい。それは誰にも知られちゃいけないものだ…」
有翼人たちは光輪から魔力を抽出し、光り輝く剣を作り出した。
有翼人たちが本物の天使ではないとしても神の遺物によって作り出された光輪は本物であり、光輪が有する機能は天使が扱っていたそれと遜色はない。
身体機能の超向上、対物理、対魔力、各属性への超耐性、魔力の物質変換、光輪に宿る数多くの機能は神の火とは違い十分に機能する。
こと戦闘能力に限れば有翼人たちは本物の天使に匹敵する。
神の火が少女に無意味だとしても、天使に匹敵する力を振るえばただの人間では対抗のしようがないのである。
だが、イレギュラーな存在である少女を目の当たりにして彼らは先ほどの事すら失念していた。
少女はつい先ほど、素手で、光輪を有する有翼人を、天使に匹敵する戦闘力を有する有翼人を、容易く縊り殺している事を。
「この女を殺せぇええええええええっっ!!!!!」
数十もの有翼人が一斉に少女に飛び掛かる。
敵意も殺意も剥き出しにして、一切の虚飾なく有翼人たちは数多の刃をたった一人の少女に振るう。
その姿に少女は口の端を吊り上げて、獣の如き笑みを咲かせる。
「いいぞ羽根つきども!! 天使を、神の威を以て絶対の支配者を騙ったその増上慢、化けの皮を剥がれ露わになったその獣性、心地よし!! まとめて一息に食らい尽くしてくれようッッ!!」
繰り広げられたのは一方的な殺戮。
光輪により生み出された光の剣は粉々に砕け、砕けた破片が光の粒となって虚空に消えていく。
何もなくただ白一色が支配する絶界神域においてそれはいっそ幻想的にも見えた。
そんな光景の元、天使を名乗った有翼人たちの屍が幾重にも折り重なって山となっていた。
その頂点で血に塗れた少女は手に持つ光輪に目をやり、その神々しさ溢れる逸品を何の気なし砕いた。
パキンッと軽い音をたてて光輪もまた光の粒となって空間に溶けていく。
「ふむ、数世代前に供物として神に捧げられた有翼人の子孫か…。憐れよな、既に神は無く、天使もまた神に付き従い高みへと昇華されていたというのに…。天使を名乗らず、神を騙らず、地に戻るかここでただ生きていればよかったものを」
憐憫の情を示しながら、少女は自らが手にかけた有翼人の屍の上を歩き出す。
未だ死に至らずゼイゼイと息を漏らす瀕死の有翼人が同胞の屍の上を歩く少女に声をかける。
「貴様、いったい何なんだ…? ただの人間では…ない…いったい…。こんな事をして、ただで済むと思うなよ…別の絶界神域の仲間たちが、貴様の息の根を止めると知れ…」
その声に少女は足を止めずに答えた。
「妾は大地の国が一つ、プラテリアテスタ国国王、マチョリヌス・イリガリウス・トレ・プラテリアテスタが末子、アロガンシア・マルタ・セット・プラテリアテスタ、世界序列一位のただの人間であり、ただの神の信徒である。天使を名乗り神を騙った有翼の民よ、貴様の同胞が妾を殺すというのならばその全てを葬ろう。これは神の愛である。妾が下す神の愛である。救済の死を以て、大地に還るがよかろう」
自分たちを殺し尽くした少女、アロガンシアの背中を見つめたまま、瀕死の有翼人はくそったれ、と呟いて息を引き取った。
アロガンシアの歩む先に扉が一つ、真っ白な空間の中、ただ扉のみがそこにあった。
神の住まう領域、絶界神域から外の空間に繋がる転送の扉。
その扉を無造作に蹴り開け、渦巻く白い光へとアロガンシアは歩を進める。
次の瞬間、アロガンシアの眼に飛び込んできた風景は一面の青空。
アロガンシアが少し驚いたような顔をして視線を下げると、遥か先に地上が見えた。
通り過ぎた転送の扉は既に跡形もなく消え失せていた。
「…まぁいい、ちょうど地上は我が愛する祖国プラテリアテスタ辺り。歩いて帰る手間が省けたわ」
そう独り言ちてフンと鼻を鳴らしたアロガンシアの体が自由落下を始める。
凄まじい勢いで落下していく中、アロガンシアは奇妙な気配を感じとった。
この世界の者ではない異質な気配を。
「この気配は…、ふむ、我が父はとうとう勇者なぞに手を出したか。…よかろう、妾が見定めよう。魔王種の天敵と謳われるその力を」
アロガンシアは再び口の端を吊り上げて、とても嬉しそうに獣の如き笑みを咲かせた。
溢れる獣性はそのままにアロガンシアは落ちていく。
落ちていく先は大地の国の一つ、プラテリアテスタの宮殿、その玉座の間であった。