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回転ドアからの質問

残業する羽目になった。

ミスした新人の尻ぬぐい。多村梨沙。あの子が来てから、うちの部の作業効率がかなり下がった。注意散漫で、誰かを見つけては無駄口を叩いている。凡ミス連発で、いくら教えても覚える気がないのか、また同じミスをする。でも愛想がいいから、男性社員たちには『そういうところもかわいいね』なんて言われ許されてしまう。そしてなぜか私がそのミスをやり直す羽目になる。世の中おかしい。なんで私が、残業してまであの子の後始末をしなくちゃならないんだ・・・。愚痴で頭がいっぱいになる。


やっと終わり、フロアを出たのは20時だった。50歳の私に、不意打ちの残業は酷だ。目もしょぼしょぼだし、肩こりが悪化して頭まで痛い。

『早く帰って眠りたい』と思いながらエレベーターに乗り、ビルのエントランスに降りた。出入口に回転ドアがある。今どき珍しい、木製の回転ドアだ。うちの会社のビルは古く、あちこちにガタがきているが、建築当初からあるという、あのレトロな回転ドアだけは好きだった。

だけど、こんな理不尽な残業の後は、木のドアの重みがつらい。ため息をつきつつ、私はドアに手をかけ、力を込めてぐいっと押した。ドアが動き出し、それに合わせて歩み出す・・・・・・でも出た場所は、外ではなく、元の会社のエントランスだった。どうやら一周してしまったようだ。疲れてるんだな、私、と更に大きなため息をつく。エントランスに誰もいなくてよかった。恥をかくところだった。

気を取り直してもう一度、回転ドアを押す・・・・・・が、またエントランスに戻ってしまった。そうとう疲れてる? いやいや。すごく疲れてるからって、こんなことはないよ。回転ドアで外に出られず、2回も元に戻ってしまうなんて・・・。ドアの向こうにちゃんと外が見えているし、ドアはちゃんと回転してるんだから、数歩歩けば、外へ出られるはず。いや、出られないとおかしい。混乱する気持ちを押さえて、もう一度、ドアを押して入ってみた・・・が、やっぱりエントランスに戻ってしまった。


「どうなってんの・・・?」


と、私が呟いた時、エントランスに声が響いた。


「いつぞやは、ほんまにありがとう」


年配の男性の声だった。ここには私以外誰もいなかったはず。守衛さんが戻ってきて、私にお礼を言いに来たの? なんのお礼? そんな覚えは全くない。


「何きょろきょろしてますのん。僕はこっち」


私は動きを止めて、声がした方を見た。視線の先には、私がさっき2周した、レトロな回転ドアがあった。外の声が中に入ってきたってこと? それにしては、すごくクリアに聞こえてきたけど・・・などと考えていると、


「まあ、びっくりするわな。いきなり回転ドアがしゃべったら。でもほんまにそうやねん。夢ちゃいまっせ」


と、さっきと同じ年配の男性の声が言った。回転ドアがしゃべる? いやいやいやいや・・・ そんなことありえない。訳が分からない。なんだか知らないけど、コテコテの関西弁だし。あ、そうか! これ何かのドッキリだ! 素人をだますテレビ番組、見たことあるし! 

と、私は隠しカメラを探した。


「またきょろきょろして! さっきから何してはりますのん?」

「カメラ、どこにあるんですか? 勝手に撮影していいと思ってるんですか!」

「カメラ? そんなもんありまへんて、鹿島さん。僕はずーっと前から、あんたにお礼言いたいと思てましてな。やっとチャンスが来たんで声かけさせてもらっただけです」


カメラはうまく隠しているみたいだ。私の名前を呼んだということは、お局が慌てふためいているところを撮って、笑ってやろうという意図なのか? ということは、悪質な社内いじめか? 私は撮影されまいと、回れ右をし、さっき乗ってきたエレベーターまでダッシュして、ボタンを連打した。とにかくここから離れなくては・・・。でも、いくら押してもなんの反応もしない。なんで反応しないんだ? 電気は点いているから停電じゃないし、どうして・・・。私はふと辺りを見回した。そういえば、静まり返っている。なんの音もしない。回転ドアの向こう側を見ると、人も車も停止していた。これはまるで・・・


「あ、やっと気がつきはった? そう。今、時間が止まってるねん」

「!!」

「今、この世界で動けるのは、僕と鹿島さんだけ」


時間が止まってる? 腕時計を見ると、秒針が止まっていた。電池は替えたばかりだし、ネジも正常だ。・・・ということは、本当なの? 本当に時間が止まってる? 人は停止し音も消えて、回転ドアという無機物から話しかけられている・・・関西弁で・・・。ドッキリとかいじめの域を超えている・・・。


「信じられない・・・」

「もう観念して、受け入れて。何も危険なことはないし」

「本当? 危険はないの?」

「ないない。お礼言いたい鹿島さんを、危険にさせるはずありまへんがな」

「そっか・・・まあ、それならよかった・・・ってか、会話してる・・・」

「せやで。もう会話してるねん僕ら。だから受け入れて、この状況を」


私はもう訳が分からなさ過ぎて、うな垂れた。


「なあ、鹿島さん。そこ、ちょっと遠いから、こっち来て」


もうどうにでもなれ、と思いながら、私はエレベーターの前から、回転ドアの前まで移動した。と、ホッとした声が話し出した。


「ありがとありがと。うん、これで話しやすくなった。まあ、びっくりするのはわかりますけど、この世は不思議なことだらけや。人間が把握できてる世界なんて、ほんの一握り。今ここは、時間が止まってる世界。僕と鹿島さんだけおる世界ですねん」

「はあ・・・」


理解は全然できないけど、もう受け入れるしかなかった。私は今、回転ドアと話しているのだと。


「いや~それにしてもよかった。やっと直接お礼が言える」

「あの……お礼ってなんですか? 私、何かしました?」


回転ドアは待ってましたとばかりに、語り出した。

14年前。東京の、とあるビルで回転ドアの大きな事故は起こった。それをきっかけに多くの回転ドアが撤去された。このビルの回転ドアも例外ではなく、撤去の声が上がった。


「その時、反対の声を上げてくれたんが、鹿島さん、あんたやったんです!」


そこまで言われて、私も思い出した。

『この古いビルにはこのレトロな回転ドアが似合っている。だからどうしても残してほしい』と、私は熱くなって、上層部に直談判したんだった。普段、自己主張なんかしたことはないのに、あの時はなぜか声をあげた。そんな私に賛同してくれる人が大勢いて、結果、撤去は免れた。


「いやいや。あの時はありがとうございました。ほんまに助かりました。鹿島さんは命の恩人です。だから、今度はこっちがお返しする番ですねん」


『ですねん』って・・・お金でもくれるの? と、心でつぶやく。


「えっへっへ。なんやと思います? さあさあ考えて考えて」


楽しそうに・・・なんか腹が立ってきた。関西弁も癪にさわるなぁ。


「あ。イライラしてます? すいませんすいません。調子に乗りました。答えますね。鹿島さんにプレゼントするものがあります。それは、過去です」

「過去!?」


きょとんとしている私に、回転ドアは説明する。


「今までの人生の中で、間違った選択して悔やんでいることとか、ありますやろ? それを、その時に戻って、やり直すことができますねん」


このありえない状況で、更にありえないことを言われ、逆にもうどんなこともありえるんじゃないか、と思ってしまった私は、普通に疑問に思ったことを聞いた。


「でも、過去を勝手に変えたら、いろいろおかしいことになるんじゃないの?」

「あ。それは大丈夫です。その辺の調整、僕得意やから」


得意とか苦手とかそういう問題?


「ただし、やり直せるんは、1つの出来事。その1回だけです」


1つの出来事を1回だけ・・・そんな、それ1回だけ変えたって、どうなることもないでしょ・・・。


「では、始めましょうか。さっきのように、ドアを押して回ってください。あ、でも、いつもとは逆向きに」

「逆向き?」

「そうです。過去に戻るので、逆です」


私は回転ドアに入り、いつもの時計回りではなく、半時計周りに足を進めた。ドアはなんの支障もなく回った。普段は事故防止のために逆回転できないようになってるはずなのに。

あ! と、私は気が付いた。回ったということは、このまま外へ出れるかも!・・・・・・という期待はあっという間に消えてなくなり、さっきと同じく、外に出ることはできなかった。外側は一瞬で通り過ぎ、またエントランス側に戻ってきた・・・いや、エントランスにも戻れなかった。ドアは回転し続けた。私も停まることができず、回転ドアの中を、ただただ回り続けた。不安になった私は、聞いた。


「あの、これ、どうなってるんですか?」

「そのまま、歩き続けてください。もうすぐ出てきますんで」


回転ドアのよくわからない答えにますます不安になりながら、しばらく回っていると、目の前に私の姿が見えた。それは、木製のドアをスクリーンにして、急に映し出された、さっきまでの、残業していた私の姿だった。


「何これ・・・」


その後画面は、多村梨沙に仕事を教えている私に変わった。次は通勤中の私、朝支度をする私・・・いろんな私がまるでスライドショーみたいに、木製のドアに映し出されていった。不思議なことが起こりすぎて、冷静になってきた私は、回転しながら映し出される自分の姿を見つめた。映っているのは全部、私の日常。ありきたりで飽き飽きした毎日の風景だった。だけど、それは主観的な記憶であって、こんな風に自分の姿を客観的に見ることはない。

昔観た映画『トゥルーマン・ショー』を思い出す。一人の男の生活全てが隠し撮りされていて、それがテレビショーとして流れていた。今私が見ているのも、それとよく似ていた。気味悪かったが、こうやって客観的に自分を見るのは初めてだから、怖さより興味の方が上回った。でも、悲しくなってきた。私の生活は本当に地味だった。

仕事して、食べて、寝て、起きて、仕事して、のループ。変わっていることと言えば、洋服がTシャツになったり、セーターになったりすることくらい……そうか! これって、時間がさかのぼってるんだ。逆回転して、時間が巻き戻されてるんだ。

スライドショーは、速度を増して映し出されていく。私が、少しずつ若くなっていく。


「あ、ここや! ストップストップ!!」


回転ドアが急に声を上げ、私は足を止めた。すると映像も停止した。

映し出されていたのは、会社の会議室だった。私が当時の上司に呼び出された時。5年前だ。


「覚えてますよね? これは鹿島さんが、課長への昇進辞令を断ったところです」


忘れるわけがない。あんな名誉な申し出をされたのに、私は断ったのだ。上司から昇進を告げられた時は、素直にうれしくて引き受けようと思ったのだが、よくよく考えてみると、責任が増えるし、そのわりに給料は少ししか上がらないし……と、デメリットの方が多いと気づき、断ったのだ。


「こことか結構大きなターニングポイントやったと思うんですけど。どうです? やり直します?」

「やり直せるって……課長になりますって言い直せるってこと?」

「そうです」

「そしたら、私、課長になっちゃうの?」

「はい」

「あの・・・課長になって、そこからやり直すってこと?」

「それはちゃいます。課長になって、5年経った時点になるってことです」


この“今”が課長として過ごした5年後の“今”になる。周囲の人も、私が課長になって5年経った状態になると、回転ドアは説明した。


「でもそれって、いい課長なのか悪い課長なのかで、周りのみんなの私に対する反応が変わってくるよね? それ、今わかんないの?」

「わかりません。明日出社したら、わかります」

「・・・」


でも、なんとなく予想はできる。明日、私を見るみんなの顔。私がいい課長になってる訳がない。みんなきっと、空々しい作り笑顔や馬鹿にした顔をするに決まってる。

なぜそう断定できるかと言うと、課長を断った真の理由が、単純に『自信がない』だったからだ。デメリットが多いというは後付けで、本当は、『私は課長の器ではない』と判断したからなのだ。

だから5年前の過去を変えて課長になったとしても、そんな弱気な課長が、うまく部をまとめているとは考えられない。きっと空気も悪く、働き甲斐のない職場になっているだろう。


「さあ、どうします? やり直しますか?」

「やり直しません」


あっさりと言う。出来損ないの嫌われ課長は、存在しなくて正解だったのだ。


「了解しましたー」


回転ドアの明るい声がエントランスに響く。回転ドアにとっては、私がどちらを選んでも、関係ないようだ。よかった。ここで説教なんかされたら最悪だから。


「あ、そうだ。今のは最初やったんで、僕が止めましたけど、この先は自分のタイミングで止まってもらっていいんで」


回転ドアに促され、私は再び歩き始めた。スライドショーは、またどんどんと遡っていく。


「あ・・・これは・・・」


私は思わず足を止めた。映っていたのは、母を介護施設に預けた朝だった。認知症が進んだ母を施設に送った、その当日の風景を目の当たりにし、足が止まってしまったのだ。

母は、自分がもう家に帰れないことがわからなくて、『いつ迎えに来るの?』と私に聞いてきた。私は答えられず、小さく微笑んでごまかした・・・。


「やり直しますか?」


回転ドアが聞いてくる。

フルタイムで働く私が、一人で自宅で母を介護するのは、もう限界だった。だから、あの選択は間違っていないと思っている。あれはあれでよかったのだ。


「やり直しません」

「了解しましたー」


どんどん遡る速度があがる。スライドショーの中の私は、30代になっていた。へえ。こんな明るい色の洋服、着てたんだ、私。そんなことをぼんやり思っていると、急に、ある人の顔が映し出された。見た瞬間、胸がきゅーっと締め付けられた。その人は、私の人生でお付き合いしたことがある、唯一の男性だった。

会社の一つ上の先輩。私たちはみんなに隠れて社内恋愛していた。


私は足を止めた。映っていたのは、夜に二人で歩いていた場面だ。覚えている。食事をした帰り道だ。彼が、『北陸に転勤することになった』と、言ってきた。驚いている私に、『一緒に来てほしい』とプロポーズしてくれた。なのに私は・・・断ったのだ。

その頃、まだ両親は健在だったが、父が体調を崩していた。もし私が家を出てしまったら、母一人で看病させることになると思うと、気持ちに踏ん切りがつかなかった。その上、知らない土地に行く怖さや、私が会社を辞めなければならないという不満などが湧いてきて、またまたデメリットの渦に引き込まれた。その後結局別れることになり、彼は一人で北陸に行き、そこで出会った女性と結婚した。今は北陸支社の支社長で、子供も3人いる。


「やり直しますか?」

「いえ、やり直しません」


これでよかったのだ。私と結婚していたらきっと、こんな順調な人生は送れなかった・・・。

私はまた、回転ドアを歩き始める。

また彼が出て来た。付き合っていた頃の私たち。レストランで食事してるけど、どちらも黙りこんで険悪な雰囲気だった。もちろん、これも覚えている。

将来、子供が欲しいか欲しくないかという話になって、私が『欲しくない』と答えたら、彼が黙ってしまったのだ。

私は足を止めた。

本当は、親になる自信が今はない、という風に答えたかったのだ。咄嗟に私は『欲しくない』と言い切っていた。


「やり直しますか?」

「・・・やり直しません」


『欲しくない』が、本心だったんだろう。

このデートの後から私たちはどこかギクシャクするようになった・・・。北陸行きを断ったのも、このやりとりが心の底に残っていたのだ。

もしやり直せて、彼と夫婦になれたとして、どんな毎日を送っているだろう。片方が我慢して、もう片方の希望を叶えている、きっとそういう生活になっている。人生の目的が違うんだから、幸せと感じる基準も違う。そんな二人が無理して夫婦を続けても、つらいだけだ。


また回転ドアを歩く。彼も私も若返っていく。水族館は3回目のデート、映画に行ったのは2回目、1回目は遊園地。ベタなカップルだったな、私たち。でも楽しかった。

あ、これは……。私は足を止めた。

喫茶店で向かい合って、座っている。交際を申し込まれる時だ。『よかったら、お付き合いしてくれませんか?』と言われ、私は赤面してうつむいて、『はい』と言った。幸せの頂点だった。この時は、子供がいるかいらないかで険悪になるとか、転勤がきっかけで別れることになるなんて、1ミリも考えない、喜びしかない時間だった。


「聞いていい?」

「はい」

「ここで、私が交際を断ったら・・・思い出も消えちゃうの?」

「そうです」


回転ドアはあっさり答え、説明した。


「この彼と付き合わないという人生になると、その後、鹿島さんは別の人と付き合うことになるか・・・」

「ちょっと待って。私、別の人と付き合うの?」

「まあ、その可能性もあるし、シングルで突き進んでるかも」

「別の人と付き合ってたら、どうなるの?」

「それも、この後わかります。その人と続いてたら、家に帰ったら夫としておるかもしれへんし、別れてたら、その人との思い出が記憶に作られます」

「何それ・・・私は実際に交際してない知らない人とすでに結婚してるか、知らない人との交際の思い出を持つってこと?」

「そうです。せやから、現実につきあった彼との思い出があると、おかしなことになるんです。だから、ほんまもんの方は消えます」


お腹に鉛がどすんと落ちたような気持ちになる。彼との思い出が消える・・・確かに後半はつらいことが多かったけど、楽しかったこともたくさんあった。


「やり直しますか?」

「やり直しませんよ! そんなもん!」


今の私には、彼との思い出だけが財産だ。彼と付き合って、本当によかったと思ってる。

私はまた、回転ドアを歩き始めた。

どんどん遡っていく。この会社に入社を決めた時。何社か内定をもらった中からここを選んだ。その理由は、通勤時間、給料、福利厚生などの条件が一番よかったから。やりたいことがあるか、とか、やりがいがあるか、などは一切考えなかった。そんな選び方でも、50才になるまで辞めずに勤めているんだから、この選択は正解だったと言える。


歩く歩く。

大学を選んだ時。心理学に興味があって、専門性の高い某私立大学に行きたかったけど、心理学では食っていけないと親に言われたことや、家計の事情を考えて、無難に入れる短大に決めた。そのおかげで、今の会社に入れたんだ・・・。


高校受験、中学での部活、小学でのクラス委員・・・・・・。


たった1回のやり直しチャンスカードを出し渋っているのか、それとも、私は、私の人生に満足しているのか、わからなかったが、『やり直します』と言うことなく歩き続けた。そしてとうとう幼稚園にまで戻ったので、とりあえず、足を止めた。

幼稚園の発表会。演目は『あかずきん』。私は木の役をやった。残った役がそれだったのだ。勇気を出して、主役に立候補すれば、よかったのか・・・?


「やり直しますか?」

「・・・やり直しません」


この私が主役をやるなんてことは絶対にない。万が一赤ずきん役をやったからといって、その後の人生が変わるなんてこともない。主役になって、大失敗して、余計ネガティブな人間になっていたかも・・・それはありえる・・・。ああ、一気に疲れてきた。


やり直すことなんて、一つもない。私はこの人生で満足なのだ。

50才で、独身で、認知症の母が施設にいて、平社員で、お局さまで、後輩たちに煙たがられる日々でも、満足なのだ・・・。


「あ、ここで最後です」


回転ドアはあっけらかんと告げた。


「産まれるか、産まれないか」


私は、返事もできずに固まる。産まれるか産まれないかを、やり直す? 混乱している私の目の前に、若かりし頃の母が映し出された。お腹が大きい。


あそこに、私がいるのか……。


母は、突き出たお腹をさすりながら、とてもしんどそうだ。そう言えば、昔聞いたことがある。私を産む時、十何時間もかかった超難産だったと。もしかしたら、私、お母さんのお腹の中で、回転ドアから聞かれたみたいに、『産まれるべきか、死ぬべきか』と迷っていたのかな? ハムレットみたいに。ませた赤ちゃんだな。

もし私が産まれていなかったら、どうなっていたのかな? お母さんは、お父さんは、どういう人生になっていたんだろう? 会わないことになる同級生は、彼は、会社のみんなは・・・?


「どうします? やり直せるの1回だけで、これが最後の質問。使わな損やで」


回転ドアはこんな大事な選択を、まるで割引券を使うか使わないかというような軽さで聞いてくる。私は考えた。今の私って、どれだけの存在なんだろうか? 家に帰っても一人で、恋人も、親しい友達もいない。こんな寂しい50女が、この世にいてもいなくても、誰にも影響がないんじゃないだろうか? 母も私がいなくなっても、もうわからないだろうし・・・。

昔観た映画の『素晴らしき哉、人生!』の主人公は、自分がいなかった世界(すごく悪い世界)を見せられ、自殺を思い直しもう一度生きようと思い直した。あんな感動ストーリーは、私には無縁だ。


「さあ、どうします?」


自暴自棄になっていた勢いで、『産まれなくてもいいや!』と思った。からだがガクガクと震え出した。


「やり直しますか?」

「・・・・・・やり・・・直し・・・・・・ません・・・」

「え?」

「やり直しません!! 私、産まれる! 鹿島家の一人娘として、産まれて、この世を生きたい!」

「いいんですか? 一回もやり直さないまま終わっても」


からだの震えは止まっていた。私は、はっきり、


「うん、いい。やり直さない」


と、答えた。

やり直さない。このままでいい。このままで、生きていくしかない。いや、生きていくんだ。私は私で、これからも生きていく。

やり直しは必要ない。でも、今のままでも良くない気がする。だって、今私、幸せではないから。でも、50年もこうして生きてこられただけでも、十分すごいんじゃないだろうか? 独身で恋人も友達もいない寂しい女だけど、50年前にお母さんが、命をかけて産んでくれたから、私はこの世にいられる。私という人間は、奇跡の結果なんじゃないだろうか。


「回転ドアさん、ありがとう。なんか・・・すごくよかった」

「そうですかぁ。何もしてませんけど」

「お礼は、十分もらったよ」

「それやったら、いいですけど」


回転ドアは、残念そうだったけど、私のすっきりした顔を様子に、納得してくれたようだ。そして、またまたあっさりと、別れの挨拶をした。


「ほな。さいなら! さいならちゃうな。ここにいてるわ。ガハハハッ」


と、自分で自分に突っ込み、大笑いした。そしてその笑い声は数秒後に消えた・・・と同時に音が戻ってきた。外の道路には、車が行き交い、歩道の人も歩き出し、腕時計の秒針もカチカチと小気味いい音を鳴らしていた。私は、夢から覚めたかのように、ぼんやりと立ち尽くした。もうここは、いつも通りのエントランスだった。


とそこへ、回転ドアが回転し、一人の女性が走って入ってきた。多村梨沙だった。

彼女は、私が立ち尽くしているのを見て、


「びっくりした~。どうしたんですか? ぼんやりして」


と、早口で言ってきた。

『今ここで、信じられないようなことがあったんだけど』と話したかったけど、我慢した。言ったところで、お局の頭がおかしくなったと思われて終わりだ。


「あなたこそ、どうしたの?」


質問には答えず、質問で返すと、


「スマホ、忘れちゃって」


と、彼女は照れ笑いを浮かべ、エレベーターに向かった。でも、すぐに引き返してきて、私の前に来た。


「もしかして、残業してたんですか?」

「え・・・うん」

「それって、私のせいですよね?」


そう聞かれ、私は、そう言えばそうだったと思い出す。回転ドアとのことで、そんなことすっかり忘れていた。


「まあ。そうだけど」


と、答えると、彼女は、


「まじすか……すみませんでしたぁ」


と、本当に申し訳なさそうな顔で頭を下げた。そして、エレベーターに乗り込み、行ってしまった。私は、自然と微笑んでいた。なんかどうでもいいや、と思った。イライラするだけ私の損だと。

あれ?

私は、自分の変化に気が付いた。考え方が変わってる。私はなんだか嬉しくなった。

たぶん明日からも、あの子はミスをするだろう。そしたら、別の仕事をやらせてみよう。そう思ったら、気持ちが楽になった。

彼女が降りて来るまで、待ってみようかな。そして、なんか声をかけてみようかな。

『スマホあった? 忘れ物しないようにね』。これだとまたお局感が出るなぁ。

『お疲れ様。また明日』・・・うん。これがいいかも。

『また明日』。うん、いい。真っ白な、何も決まってない一日。

『また明日』。最高の言葉だ。


おわり


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ネガティブな思考は、将来起こるかもしれないアクシデントを最小限にするために、とても大切な考え方で、自分の人生を大切に生きようという思いの現れ。

もしネガティブがなかったら、人間という種族はここまで生き残れていなかった。

だから、過去に、怖くて挑戦できなかったとか、失敗してしまったとか、そういう後悔も全部、それはそれでその時の最善だったんだと、肯定してあげたい。『過去の自分、よく頑張った』と言ってあげたいと、思っています。

そういう思いを込めて、書きました。少しでも伝わればうれしいです。


毎月、4日と18日頃に、短編小説を投稿しています。

よかったら、他の作品も読んでみてください。


また次回も、よろしくお願いいたします。

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