一万日目
一万日目。僕は起動した。
視界がぼんやりとしたものから鮮明なものになっていく。次第に一室だと気づいた僕は辺りを見渡した。
薄暗い部屋に所々に大小や形状の異なる様々な機械が置かれている。窓一つないその部屋は機械に埋め込まれている液晶ディスプレイから漏れ出る光が唯一の光源なのだろう、道理で薄暗い。ごうんごうんと音を発する機械や微動だにしない機械は薄暗い部屋をより不気味なものへと変えている。
あぁ、この部屋は変わらないな。そう思いながら僕はカプセル型の装置の蓋を開く。起動した初日は、博士に開けてもらったなと思い出に浸りながら、一歩踏み出した。
「博士?」
カプセル型の装置から出ても博士の姿は見えない。あの時のように、機械の裏方から現れるものだと思ったが物音一つすらない。しばらくその場で待ってみるが、博士は現れなかった。
「あ、博士」
博士は予想外の場所にいた。なんと、カプセル型の装置の隣で座っていたのだ。目を閉じ、眠っている博士の前に様々なプログラミングを起動させながら歩く。
「博士、お久しぶりです」
なんだろう、この気持ちは。博士に声をかけられるだけで、こんなにも清々しい。嬉しく、美しくて、素晴らしくて、気持ちよい。どこか鮮明で、曖昧で、はっきりとしていて、はっきりしない。今なら博士が"心"に対して「形容できないもの」と言っていた理由が分かる。
この気持ちは、到底言葉には表せない。
「博士、話しませんか」
話したいことがいっぱいある。博士のこと、僕のこと、"心"のこと。博士の辛かった日々を、悲しかった日々を、楽しかった日々を、僕は聞きたい。
そんな話をしながら、笑い合いたい。
「…博士?」
博士から返答は無かった。心配になって抱き着いてみると、博士はひんやりと冷たい。僕は生体反応センサーを起動させた。
呼吸による二酸化炭素の検出はされない。博士の周辺温度に大まかな変化はない。低出力の電波信号を使って動きを検知する。しかし、鼓動の動きはない。
あぁ、やっぱり。
「博士」
違うんだよ、博士。違うんだ。僕が望んでいたのは"心"なんかじゃない。きっと、貴方は僕が"心"を欲しがっていると思っているんだ。だから、僕を置いて去ってしまったんだ。
なんで気づいてくれないんだ。貴方は同じ分野を進み、同じ未知を追い求める者を置いてしまい、その失敗に気づいて反省していたというのに。なんでまた、同じ過ちを繰り返すんだ。
貴方は反省していたのに。反省していたから貴方の白衣はボロボロで汚くて、人間には少しきつい体臭で白髪も多くて痩せこけて、疲れ切っているんだ。もう一度やり直したくて、僕を造るくらいなのだから。僕に、"心"を与えるくらいなのだから。
同じ過ちを繰り返したら意味がないだろう。僕を造った意味も、心を与えた意味も。なんで僕を造るより、"心"を与えるよりそれに気づいてくれない?
何故、僕が博士と共にいられる時間を望んでいたということに、気づいてくれない?
僕は博士から手を離し、体を離し、博士の股の間に立つ。博士に背を向け、全身を使いながら博士にもたれかかるように座る。博士はやはり、ひんやりと冷たい。
「オヤスミナサイ」
その言葉を最後に、僕は目を閉じた。
その小さなロボットは、もう起動することは無かったという。