第九十話 朝月夜
約束どおりイダテンは走った。
今の自分に追いつける者などいるはずがない。
二度ばかり待ち伏せにあったが、手斧を振るい、頭上を飛び越え、苦もなく振り切った。
欠けていた月が見る間に満ちていく。
明るく照らされた山道を、そして尾根を駆けた。
天も地も、すべてが自分に味方していた。
イダテンは走った。
月を背に、
紅蓮の髪をなびかせ、
寒風吹きすさぶ峠道を、
谷を、
岩場を、
疾風のように駆け抜けた。
姫の言葉を励みに飛ぶように走った。
毛むくじゃらの腕と足を生まれて初めて誇らしく思った。
この体を与えてくれた父と母に感謝した。
御山荘山に連なる峰々を走りぬけ、山を二つ越え、三つ越えたところで岩屋の観音がある大岩の上にたどり着いた。
高尾山の頂上である。
東の空が明るくなり始めた。
西の空に朝月夜が見える。
翼を広げた狗鷲が頭上をゆっくりと帆翔していく。
山を降りれば、老臣の言っていた馬木だ。
姫を安心させようと声をかけたが返事がない。
不安になって背負子を降ろす。
――軽いのは当然だった。
そこに姫の姿はなかった。
緋色の勾玉と鴇色の袿が――池に沈んだはずの、見た目より遥かに重い守袋が背負子に結ばれていた。
さらには、背負子の一番上の横木に、血文字で書かれた身代わり符だが結ばれていた。
そして、ようやく気がついた。
池に沈んだのは黄金を入れた守袋などではなく、ささらが姫自身だったことに。
イダテンを救うために身を投げたのだということに。
見あたらなかった縄は、背負子に縛りつけられないために隠したのであろうことに。
自分の両足を縛るために使ったのであろうことに。
鈍色をした低い空から白いものがひとつ、漂ってでもいるようにゆっくりと舞い落ちてきた。
それはイダテンの肩にふわりとのった。
血文字で書かれた符だを見つめていた目から、ほろりと水滴がこぼれ落ちた。
姫から、白玉ですか、と問われた夜露にも負けぬほどの大きな粒だった。
*
イダテンは泣いた。
生まれてはじめて泣いた。
大岩にふせって、おんおんと泣いた。
その声は、麓にまで響き渡り、のちにその岩は、おんおん岩と呼ばれるようになった。
ささらが姫が身を投げた池は、ささらが池と呼ばれるようになった。
*
次の年の春。
遠乗りに出かけた宗我部国親が、紅葉苺の群生する藪の中で、何者かに手斧で頭を割られて死んだ。
その斧の柄には若い姫君が身につけるような鴇色の袿の袖が巻きつけてあったという。
人々は、イダテンが仇を討ったのだと噂した。
だが、その後、イダテンの姿を見た者はいない。
それでも人々は語りついだ。
ささらが姫が池に身を投げ、先に命を差し出したので、龍神が、かわりにイダテンを生かしたのだと。
今でも、姫の命日の夜には、ささらが池から笛の音が聞こえると言う。
了




