第九話 乳母子
雀のさえずりが聞こえてくる。空も明るくなった。
「そういうわけにはいきませんよ。姫様にお会いするのですよ」
三郎の母、ヨシが、まなじりを吊り上げた。
イダテンが邸に招かれたといって張り切っているのだ。
早く衣を着替えろと。
正しくは呼び出されたというべきだろう。
気は進まないが、助けてもらった以上、礼は言わねばならない。
それに、出向けば、寝殿造りの邸を、間近に、加えて内部からも見ることができる。
このような機会は二度と巡ってこないだろう。
用意されていたのは、限りなく黒に近い深紫の地に浅紫色の藤の紋をあしらった衣だった。
袍と言う名の装束だという。
光沢のある滑るような生地や綾織とやらに驚いた。
これが絹というものか。麻の衣でさえ父の衣を仕立て直した二枚しか持っていない。
烏帽子も用意されていたが、イダテンの髪は収まりきらなかった。
髪は、黒い布を幾重にも巻いて、つむじの上で束ねた。
束ねた髪は大きく広がり、肩に背中に滝のように流れ落ちた。
土手側の半蔀から入り込んだ朝の柔らかな光が真紅の髪に降り注ぐ。
髪は、透きとおるように輝き、黒い衣との対比を一層鮮やかにした。
「いくら生地が上等でも、童に黒い装束は似合わないと思っていたけれど……姫様の見立てはたいしたものだねえ」
着付けを終えたヨシは、われながら良い出来だと、満足げにため息をついた。
「イダテン、きれい」
ミコは興奮した様子で、イダテンの周囲をぐるぐると回っている。
三郎も、ミコに落ちつけ、と言いながら顔を上気させ、落ちつきがない。
「おお、とてもこの世のものとは思えぬぞ……いいあんばいに、糊がきいておるのう」
「笏や太刀は無理だとしても、帖紙と檜扇は持たせたいねえ……ちょっと借りてきましょうね」
ヨシは幾度もうなずきながら、家を出て行った。
「ねえ、ねえ、イダテン、姫さまと会うの? だったら、ミコも行きたい。姫さま、いいにおいするの」
ミコがイダテンに問いかけてきた。
そういうわけにもいくまいとは思うが、イダテンに答えられるはずもない。
三郎はミコに無理を言うなと、なだめたうえで、
「姫様は誰にでも好かれるでな」
と、自慢げに続けた。
「都では、貴族の姫君は御簾や几帳の影に隠れ、人前に姿を現すことはないそうじゃ。加えて、われらのような下衆と直接言葉を交わすこともないという。必ず間に人を介するとのことじゃ」三郎は胸を張った。
「その点、わが姫様は、われらにも直々に声を掛けてくださる」
「このあいだは、アメをもらったんだよ」
「なんじゃ、飴が欲しくてついていくのか?」
「ちがうもん。兄上のいじわる」
ミコは、唇をとがらせ涙を浮かべて、小さな拳で何度も三郎を叩く。
「ああ、すまぬ、すまぬ……わしが悪かった。あの飴はわしも大好物じゃ。米でつくった飴は甘いからのう」
すすり上げるミコを抱え上げると、赤子をあやすように揺らした。
そして頭の後ろをそっとなでる。
「姫様も忙しいのじゃ。今日のところは兄者で我慢しろ……おなごらしい遊びは教えてやれぬが」
ミコは、「おりる」といって、飛び降りると、部屋の隅に向かった。
葛籠の蓋を、ふらつきながら開け、何かを握りしめると嬉しそうにイダテンのもとに駆け戻る。
「姫さまにもらったの」
小さく柔らかそうな両の手のひらに、ウズラの卵より小さな石が五個ほど載っていた。
色とりどりで、つるつるした石だ。人の手で研磨したのだろう。
石とはいえ、たいそうな値がつくに違いない。
三郎は、イダテンの考えを察したように誇らしげに答えた。
「おかあは、姫様の乳母だったのじゃ……つまり、わしと姫様は乳母子ということになる」
「三郎! そのように口の軽い者に武士は務まりませんよ」
扇を手にした三郎の母が額にしわを寄せて戸口に立っていた。
「皆が知っていることではないか」
不満げに答える三郎に、ヨシは毅然と答えた。
「自分から口にすることではないと言っているのです」
*