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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第八十八話  この子を残し

風が小夜の頬を撫でた。


母が帰ってきたようだ。


沢から水を汲んできたのだろう。


家の外では心地よい風が吹き、新緑が眩しいに違いない。


山吹の花は、今朝の雨で散ってしまっているだろうか。


自分には、それさえも見ることができない。


見えるのは天井の梁や垂木ばかりだ。


良人のシバが見よう見真似で作ったこれらの細工をいつまで見ることができるだろう。


視力もすっかり衰えた。


この子のためにも生きねばならないとは思う。


だが、産後の肥立ちが悪く、長く臥せったままで、日に日に力が奪われていく。


意識を保てる時も少なくなっていく。


横で眠っているわが子を抱くことはおろか、乳をやることもできなくなっていた。


母が、乳の代わりに米粉を水に溶いて与えていた。


しかし、それも近々底をつこう。


何か売れるものは残っていただろうか。


代わりになる物はあっただろうか。


思いを巡らせていると、目の前を何かが横切った。


そして、すぐに戻ってきた。


輪郭のはっきりしない赤く透きとおったものが顔の上を漂っていた。


それはまるで小夜と赤子を気にかけているように見えた。


――ああ、と、一瞬で理解した。


これはシバだ。


添いとげようと誓った男の魂だ。


ありもしない罪を着せられ、国親の郎党どもに連れて行かれた良人の魂だ。


シバが、魂となって自分達のもとに帰ってきたのだ。


臥せっている妻や生まれたばかりの赤子を残して成仏出来るはずもない。


逃げる気があればできたはずだ。


だが、妻や赤子、そして義母を残して逃げるような男ではなかった。


ましてや郎党どもを打ち殺し、家族を連れて逃げる甲斐性など望むべくもない。


見かけとは違って性根のやさしい男だった。


愚かと揶揄されるほどに。


小夜は、その不器用なやさしさを愛おしいと思ったのだ。


だが、自分が先に逝っては家族を守れないではないか。


詮議があれば無実が証明できると思っていたのだろうか。


国親は、小夜をわが物にしようとした後に高熱を出してひと月寝込んだ。


それが小夜の呪詛によるものだとわかっていよう。


小夜の余命を承知で国親は仕掛けてきたのだ。


死んでからでは見せつけることができぬとでもいうように。


そうでなければシバを捕え、罪をなすりつけようとはしなかっただろう。


小夜の呪詛を恐れ、シバの命を奪うことはなかったであろう。


怒りにまかせた呪詛が、報いとなって跳ね返ってきたのだ。


――わが身と身内の事を占うことは避けてきた。


だが、占わなくともわかることがある。


シバが逝き、わたしが逝けば、この子と母は間違いなく命を奪われよう。


呪術に長けた小夜といえど、死んだ者を甦らせることはできない。


今は、とどまっているものの、いずれこの魂は、あの世に逝ってしまうのだ。


自分は、あの世に逝けば逢うことができよう。


だが、この子を守ってもらうためには、逝かせるわけにはいかなかった。


――小夜は、震える手を胸元に伸ばした。


多祁理宮の巫女であった時分に、船越の郷司、船越満仲から贈られた勾玉である。


呪を唱え、その勾玉にシバの魂を留まらせた。


緑青色だったその珠は、鮮やかな緋色に変わり、命を得たように怪しく輝いた。


使い道を何かに書き記せばよいのだろうが、その余力はない。


たとえ記したところで容易には使いこなせまいが。


この子と母を守るには、宗我部国親を自らの手で葬り去るほかないだろう。


使うことになろうとは思わなかったが、その呪詛は頭の中に入っている。


母を呼び、必要なものを用意させると、ふきのとうが食べたいと山に採りに行かせた。


――死を望むほどの激しい呪いは、失敗すればわが身に跳ね返る。


恐ろしくないと言えば嘘になるかもしれない。


だが、自分は、すでに死の淵にいる。


真に怖ろしかったのは、この子の将来を奪われることだ。


この子の命を奪われることだ。


小夜は最後の力を振り絞った。


     *


陽が傾き、山菜採りから帰ってくると、赤子が火のついたように泣き叫んでいた。


腹が減ったのだろうと米粉を溶いた椀を持って近づくと、娘の小夜が、事切れていた。


散乱した呪符のなか、その手に血を思わす緋色の勾玉を握りしめて。


     *


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