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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第七十五話  語り草となるほど

空から注ぐ月明りで、足元は、走るに困らぬほどには照らされている。


前を行く馬の松明で道筋もわかる。


黒駒が火に怯えないよう前の馬とは距離をとった。


狼の咆哮が聞こえたときは、興奮した様子を見せたが、すぐに、なだめることができた。


度胸のない馬であれば、とうに振り落されていただろう。


思った以上に良い馬だ。


この先を曲がるまでは、砦の様子をうかがい知ることができないが、先ほどから聞こえる音と騒ぎで察しはつく。


イダテンが奮闘しているのだ。


全くたいしたものだ。


だが、おまえに手柄を独り占めさせるつもりはない。


この鷲尾小太郎義久が、すぐさま参上し、後に語り草になるほどの獅子奮迅の武者ぶりを見せてくれよう。


突如、前方から叩きつけるような音が聞こえてきた。


姫に威勢よく声をかける。


「さあ、行きますぞ! しっかり、掴まっておりなされ」


一気に視界が開け、思わず息を飲んだ。震えが走った。


瑠璃色の空を背景に、墨を流したような巨大な壁が聳え立っていた。


しかも、単なる壁ではない。


矢が、石が、油が、熱湯が降り注ぎ、矛が襲ってくる要塞だ。


再び大きな音が響き渡った。


砦の柵のあたりで馬が倒れ、砂埃が舞っているのが目に入った。


転がった松明の灯りで意外によく見えた。


イダテンは柵を開けることができなかったのだろうか――が、あとに続いた馬は難なく砦の下を駆け抜けていく。


柵が破壊され、馬の通る道ができたのだ。


先行した馬が破壊したのだ。


思わず笑みがこぼれる。


どうじゃ、イダテン。わしと姫の策は。


先を駆ける馬たちも順調に砦に向かっていた。


足に矢を受けた兵が崖にすがるようにして道をあける。


馬の蹄にかかり、倒れて道を塞ぐ兵の姿もあった。


砦を守る兵どもが右往左往している様子も冷静に見て取れた。


大丈夫だ。わしは落ち着いている。


だが、兵どもも落ち着きを取り戻しつつあった。


砦の柵を目指して突き進む馬に矢を射掛ける者が出始めたのだ。


が、義久の駆る黒駒にはまだまだ遠い。


屋上部分とは違い、三層と二層目の射手は躊躇している。


味方の兵が狭い道を埋めており、あの角度では放とうにも放てないのだ。


われらにとって最も危険なのは、突破直前の一射だろう。


馬上の義久も手綱から手を離し、行く手を遮る兵に向かって矢を放つ。


が、恥ずかしいほど大きくそれた。


立って当てられぬ腕の者が、馬から射て当たるはずもない。


弓を投げ捨て、太刀を手に取る。


肩に矢を受け、前方でしゃがみこんでいた兵が立ち上がった。


小癪なことに馬を避けながらも矛を左手で繰り出そうと身構えた。


崖にへばりついていた、もう一人も矛を手にした。


「駆け抜けますぞ」


と、姫に声をかけ、軽く黒駒の腹を蹴って勢いをつけ、手綱を引いて山側に寄せた。


「邪魔じゃ!」


と、叫びながら矛を跳ね上げ、谷底に兵を追い落とした。


太刀を振るい、手傷を負わせた。


気がついたら奇声をあげて笑っていた。


恐ろしさなど微塵も感じなかった。


何とも愉快でたまらなかった。


     *


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