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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第七十一話  たぎる

谷底から吹き上がる風がイダテンの髪を舞い上げた。


砦の真上まであと一息のところで動くのをやめた。


隠れていた月が姿を現したからだ。


巨大な砦が月の光を浴びて浮かびあがる。


谷底から向かいの崖までを覆い尽くす、その姿は何度見ても圧巻だ。


そこに至る道は、下流五町、上流二町が、ほぼ真っ直ぐに伸びていた。


ここに砦を築いた工匠の意図は一目で汲み取れた。


対岸が近いだけではない。


隆家の兵が馬木側から押し寄せて来ようとも、落ち延びようとする者があったとしても早々に見つけることができる。


下見や測量にもかなりの時をかけたに違いない。


わずか一日でこれだけのものを組み上げるその腕に敬意を抱いた。


それを実現させた国親の着想と力に驚き、あらゆる意味で侮れない男だということを肝に銘じた。


イダテンに戦の経験はない。


だが、規模は小さいものの砦をめぐる攻防を見たことはある。


落とされた砦跡を見て、待ち受ける側がどのような用意をするかということもいくらかは承知している。


書物にもいくつかの事例が記されていた。


砦は四層になっていた。


正しくは三層というべきだろう。


最上層に天井はない。


床と天井を兼ねた板の上に柵をこしらえ、矢を防ぐための盾代わりの板が規則的に縄で留められている。


物見の通路も兼ねているのだろう。


道から床までの高さはおよそ六丈。


幾重にも接いであるはずの柱でさえ、いかにも頑丈そうだ。


道沿いの一層部分には門代わりの柵があった。


これも丸太を使った強固な作りだ。


柵は山側に二列、谷側に一列配置されていた。


馬どころか人一人まっすぐに進めないよう互い違いに組まれている。


馬を通すときは、谷側の柵を上げるか横にずらすのだろう。


前後の道幅は一間半というところか。馬で走ることはできるが、すれ違うことはできまい。


その柵の前後には矛を手にした門番がそれぞれ二人ずつ立っている。


砦から二町ほど離れた場所には、上流下流ともに崖にへばりついたような小屋がある。


ここにも兵が二人立っていた。


その近くに逆木を模した据え物が置いてある。


地面が固く埋め込めなかったのだろう。


一気に突っ切ろうとする者と火矢への備えだろうが、あれでは効果は薄かろう。


二層目と三層目の板壁には一間おきに狭間を設け、矢での攻防に備えている。


砦の中で休んでいる兵もいるだろう。


崖を崩し、道を塞がなければ、今頃は、この砦と先ほどの館に、さらに大勢の兵が詰め掛けていたに違いない。


だが、それほど多くの兵が必要とは思えなかった。


隆家が攻め寄せて来たところで、この狭い道だ。足元も悪い。


歩いて二列、走れば一列が限度だろう。


上から矢を射掛ければ突破などできまい。


前を行く兵が倒れれば、後ろにいる兵は先に進めない。


後続は倒れた兵に足をとられ、足を止めた兵をさらに後続が押し倒すだろう。


そこを狙い打てばよいのだ。


物思いにふけっていると、月が陰り、その道とイダテンの姿を隠していった。


寒さにかじかむ手足の状態に気を配りながら慎重に歩を進め、砦の真上に到着した。


先ほど見つけた岩場の窪みに潜り込む。


息を整え、背負子に載せていた麻袋を降ろす。


中に入っているのは二尺ほどの石臼だ。


義久の親族だという館から持ってきた。


荷物にはなったが、姫よりは小さい。


腰を下ろした場所は月の光が当たらない。


これなら少々作業に刻を費やしても見つかるまい。


足元の岩の隙間に根を張った檜に麻縄が括りつけられている。


それは対岸まで伸びていた。


これに沿って砦の基礎となる柱を立ち上げたようだ。


束ねて背負子に括り付けていた麻縄をほどき、石臼を入れた麻袋の上から幾重にも括りつける。


最後に袋から伸ばした縄の長さを調整する。


柱の高さも考慮して九間半に決めた。


義久の提案通り崖の上から岩を投げてもたいした効果は得られまい。


だが、応用はできる。


雲が流れ、砦の様子が照らし出された。


最上層、三層部分の天井を兼ねた物見通路には四人の兵が立っていた。


皆、弓を手にし、上流下流、二手に分かれ、目を凝らしている。


それを横目に、革の筒袋から軸のついた車輪と加工した金具をふたつずつ取りだす。


湧き水の釣瓶を上げる、


あの仕掛け――釣瓶車を鉄でつくらせ、さらに工夫を加えたものだ。


山や谷で、材木や重い物を運べぬかと考えたのだ。


先ほど物見に出て、使えると思った。


この細工は、鍛冶師に作らせた。


三郎がイダテンの描いた図面を持ち込んだが、噂に聞く釣瓶車に工夫を加えたと聞くと、抱えていた仕事を後回しにして作ってくれたという。


三郎に言わせると、


「あやつ、ほくほく顔であったわ。これで一儲けできるとふんだのじゃ。次に何か持ち込むときは、ひとつ売れるごとにいくばくかの銭をよこせという証文を書かせよう。おお、イダテン。おまえの言うとおり算術は必要じゃな」


頭の中で段取りをなぞる。


いざ始まれば、考えたとおりには進むまい。


が、その時は、その時だ。


気が高ぶり、頬が火照る。


ふつふつと体も熱くなってくる。


これまでにない感覚だ。


これを血がたぎるというのだろうか。


人食い熊でも狼の群れでもない。


だが、数が違う。敵は百を下るまい。


しかも巨大な砦が行く手をさえぎる。


喜八郎らに、暗い目をしていると陰口を叩かれたが、今の自分はどんな表情をしているだろう。


懐から紐を通した小さな鏡を取り出した。


母の形見である。


腕を伸ばす。


月の光を鏡で反射させ、おのれの顔を照らし出した。


磨き上げられた鏡に映りこんだ紅い髪が、双眸さえも紅く輝かせた。


開いた口からは犬歯が覗いている。


その顔は、まるで笑っているように見えた。


     *


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