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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第七十話  姫君の意図

――忘れているのですか? 


なんと残酷な言葉だ。


忘れることなどできようか。


確かに頑固で、ひねくれた悪童だった。


幾度、悪さをしたかもさだかではない。


折檻されても許しを請うこともない、涙も流さない、かわいげのない悪童だった。


だが――このときばかりは感情を押さえ切れなかった。


声を上げ、探し回った。


大人に頭を下げた。


山菜を採りに来ていたおばばの、近くを山犬がうろついているのを見た、という言葉に胸が張り裂けそうになった。


胃の腑の中のものをすべて吐き出した。


一刻ほどして、姫は、近くの沢でうずくまっているところを発見された。


ちょっとした擦り傷を負って。


小太郎のことは口にしなかったという。


自分で邸を抜け出て沢を滑り落ちたのだと。


それを聞いて涙がこぼれた。


頬を伝う涙が止まらなかった。


幼い頃は幸せだった。


なんにでもなれると思っていた。


戦で手柄を立て、わが名を轟かせることができると信じていた。


どこまでも出世できると信じていた。


出世すれば、姫を娶れると思っていた。


賢く愛らしい姫の笑顔を、ずっと見ていたかった。


抱きしめたくなるような声に包まれていたかった。


忘れてなどいるものか。


竹の竿でしこたま打たれたのだ。


半月ほど尻を下にして寝ることができなかった。


それを機に姫の側役――と義久は自負していた――をはずされたのだ。それがなくても、とうにはずされる歳にはなっていたのだろうが。


祖父、忠信の顔に、家名に、そして何より母の顔に泥を塗ることになった。


元服して、義久と名を改め、五月後には家を出た。


――身分の違いは、とうにわかる歳だった。


夢見る頃は、とうに過ぎていた。


それでも、手柄を立てたかった。


名を轟かせたかった。


「さすがは義久」と、姫に口にして欲しかった。


その一言欲しさに家をでた。


そして行方をくらませた――それはすなわち、母と弟を捨てた、ということだ。


     *


「馬は臆病だと聞きますが、大丈夫でしょうか」


姫の言葉で、われに返った。


何か言いたげに、義久を見上げている。


ようやく、合点がいった。


「お任せください。この義久、だてに悪童と呼ばれていたわけではありませんぞ。あのような『悪さ』にかけては、わたしの右に出るものはおらぬでしょう」


とっておきの笑顔で応えると、姫は嬉しそうに微笑んだ。


遅まきながら姫の意図に気がついた。


姫は、昔、義久が行ったことを、ここで再現できないかと話を振っていたのだ。


意見するのではなく、義久自ら口にさせようと。


姫を無事、隆家様のもとに届けることが出来れば、義久の武名は日本六十余州に轟きわたるだろう。


「名を変え、仇のもとに潜り込み、武芸と知恵で姫君を救いだした武士(もののふ)」として。


     *


元服直前に、国府と温品の境を流れる川の漁業権をめぐって、それぞれの民が一発触発の事態に発展したことがあった。


雛遊びで使った言い訳が現実になったのだ。


生活に直結するこうした利権は命のやり取りとなることがある。


この時は、夜になってお互いが武器を持って川原で対峙したのだ。


当時、小太郎と呼ばれていた義久が中心になって、その対決を中止させたことがある。


捕まえた山犬五匹の尾に縄を結び、その先に松明を結び、火をつけて放ったのだ。


その場は大混乱となった。


その様子を見て義久たちは腹を抱えて笑った。


面白半分ではあったが死人も出ず首尾は上々と思われた。


だが、松明の火に怯えた山犬たちは人の騒ぎが収まっても走り回った。


川原はおろか山裾を走り回り、枯れ草に火をつけて回ったのである。


いがみ合っていた民も加わり、大事になる前に、どうにか消し止めることができた。


弓場横の杉の木に縛りつけられたのは、あの時だ。


    *


馬が上流側の砦に向かうよう、門の外に移動式の柵を置いた。


関所だった頃に使っていた物だ。


黒駒に鞍や鐙を付け、真っ赤な三懸で飾り立ててやる。


ほかの馬の尾には縄を結んだ松明を括りつけた。


兼親の大太刀と自分の太刀を左腰に下げた。


重いうえに邪魔になるが、やむを得ないだろう。


本来、弓や大太刀は使う直前まで自分の従者に持たせておくべきものだ。


隆家様のもとに姫を無事送り届けることが出来れば、その身分に戻れるだろう。


だが、友を見殺しにした男にその資格はない――わかってはいても未練を捨てきれず、その姿を想像してしまう自分がいた。


小さく頭を振った。


今、考えなければならないのは姫のことだ。


姫を無事、隆家様のもとに送り届けることだ。


八幡大菩薩の祀られた多祁理宮の神宮寺に向かって手を合わせた。


一日たりとも、休むことなく手を合わせてきたわしに、八幡大菩薩が機会を与えてくれたに違いない。


支度は万端だ。


イダテンからの合図があれば、いつでも出発はできる。


「黒駒です。名馬とまでは行きませぬが、なかなか丈夫で良い馬ですぞ」


右手で背中を撫でてやりながら、姫に声をかける。


「一度乗ってみたかったのです」


姫は、義久を仰ぎ見た。


「触っても良いですか?」


「黒駒も喜びましょう」


自分で掻けぬところがよいのです、このあたりを撫でてやりなされと鼻筋を指す。


姫は、おずおずと近づき袖から手をのぞかせた。ふんわりと甘い匂いが香る。


突破する策が見つかったこともあって気が高ぶっているのだろう。


いつも以上にすらすらと言葉がついて出る。


「腰につかまり、目をつぶっておりなされ。立ち塞がる敵は、黒駒と、この義久が蹴散らして見せましょう。姫様の縁組に差しつかえなきよう、その美しいお顔に傷ひとつつけず、無事、隆家様のもとまでお届けしますゆえ、ご安心召されよ」


大仰な義久の口上を、姫は微笑みで受け止めた。


「そのようなことを気にするような殿方の妻になるつもりはありません」


頬に傷がある自分を気遣っての言葉だろうか。


いや、この姫であれば、きっとそう考えるだろう。


姫らしい応じ方ではあったが、少々、寂しくはあった。


おどけた物言いであったとはいえ、義久が口にした、美しいという言葉に頬を染めてほしかったのだ。


……では、なにが決めてなのです、という言葉を飲み込んだ。


詮無いことだ。


高貴な家に生まれた姫君は相手を選ぶことなどできない。


     *


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