第六十八話 唯我独尊
誰一人、布石に気がつかなかったというのか。
「おじじ……忠信様には知らせたのであろうな?」
声が上ずっていた。
イダテンは首を振った。
「国司と、おまえのおじじは、うまくいっていないようだった」
その言葉に血の気が引いた。
イダテンのいうとおりだ。鬼の子が何を言っても相手にされなかっただろう。
そもそも、たった一日で、このような場所に砦を築こうとする者がいるなど誰が想像できよう。
知らせたところで何が変わっただろう。
国親を最も疑っていたはずの、おじじでさえ薬王寺に向かう主人を止められなかったのだ。
大伯父に至っては、戦前に郎党もろとも皆殺しにされたのだ。
これは、われらの問題だ。
武門に生まれながら、主人を守れなかった、われら兵の問題だ。
これほどの謀略を予見できなかった義久や主人の信頼を得られなかったおじじの問題だ。
姫の父である阿岐権守も阿岐権守で、この頃は国親を頼りにする言動があったと聞く。
が、哀しげに眉を下げている姫の前で罵倒するわけにはいかない。
「頑固者ばかりだからな」
気持ちを静めようと瓢箪を口に当てて唇を湿らせる。
――それでも、こいつなら何とかできたのではないか、という思いは捨てきれなかった。
だが、今、考えねばならないことは、そのことではない。
「あれを突破するほかないのであろう?」
当然だ、という顔でイダテンがうなずく。
「先ほどの橋のように、上から岩を投げて砦を壊せぬか?」
「床が、ひとつふたつ抜けておしまいだ」
イダテンが即座に否定する。
確かに葛橋ほど脆弱ではあるまい。
崖の上に、投げるに適した岩がごろごろしているはずもない。
もたもたしていれば矢で射殺されるだろう。
だが、自らこの峠道を選びながら、悩む風でもなく平然としているイダテンに腹が立ってきた。
ではどうするというのだ。
その焦りが口について出る。
「やってみねばわからぬであろう」
「イダテンは建築には詳しいのですよ」
姫が口を挟んできた。
何かと、イダテンの肩を持つのが面白くなかった。
しかも、このような状況で笑みさえ浮かべている。
人に襲われた鬼の子……イダテンを姫が助け、使用人の家で療養させているとは聞いていた。
おじじのことだ、三郎や母者と一緒に住まわせたのだろう。
とはいえ、その、わずか半月ほどの間に、ここまでの信頼を得たというのか。
ならばどうするのだ、と口にしようとして、思いとどまった。
イダテンをせめてどうなるものでもない。
義久自身、軽く考えていたのだ。
味方の伝令を装って門だか柵だかを開けさせた隙にイダテンと姫が突破すればよいだろう、と。
だが、用心深さを絵に描いたような砦である。
やつらは門を開けてみせることさえしないだろう。
イダテン一人であれば、敵を出し抜いて馬木の隆家様につなぎをつけられるかもしれない。
とは言え、隆家様が、急ぎ邸の侍を引き連れてきたところで落とせるような規模の砦ではない。
かといって近隣の土豪に招集をかけていたのではいつになるかわからない。
追手も必死である。
道を塞いでいる岩や土砂、倒木の撤去には危険が伴おうが、なりふり構わず人手を投入するだろう。
おそらく二刻とかかるまい。
そうなれば雪隠づめである。
姫と自分の命は風前の灯となる。
「だが」
と、イダテンが口を開いた。
「応用すれば、一撃で柵をこじ開けることができよう」
さらりと口にした。
大言壮語が過ぎる、と言われる義久でさえ、鼻白むほどである。
だが、大軍に囲まれた邸から姫を救い出したイダテンの言葉である。
裏付けなり、考えなりがあるのだろう。
悔しいが義久に、これといった策もない以上、イダテンに頼るほかなかった。
「ならば、斥候にでてくれるか? なんにせよ、もう少し近くから砦の様子を見ておかねばなるまい。門をこじ開けたところで、どこから矢が飛んでくるかもわからぬ、では、突破もおぼつくまい」
「先ほど行ってきた」
思わずイダテンに、次に、館を囲む闇に目をやった。
砦の前の道は直線で月明かりに照らされている。
ならば、崖を登って近づくほかはない。
しかし、このあたりに人が登れるような崖はない。
猿でさえ、登れるかどうか怪しいものだ。
と、口にしようとして、イダテンが人ではないことに思いあたった。
葛橋でのことと言い、まさに鬼神のごとき働きぶりである。
思わずため息をついた。
こいつといると、おのれが小物に見えて仕方がない。
「……登れるのであれば。姫様を背負って先に進め。矛など交えておっては何が起こるかわからぬでな」
置いて行かれたのでは、姫に、自分の男ぶりを見せることができなくなる。
が、姫の命には代えられない。
断腸の想いで口にした。
事実、声は震えていた。
だが、イダテンは、あっさりと首を横に振った。
「物と違い、人は重心が取りにくい」
なにより、捨てて逃げるわけにはいかない。
音をたてただけでも矢が降り注ごう――イダテンは、他に方法はないのだ、とばかりに話を続けた。
「門の代わりに丸太の柵が三つ並んでいる。谷側の一つを壊せばなんとかなろう。おれが、あの柵を開ける。いつでも走り抜けられるよう馬の用意をしておけ。砦まではおよそ八町(※約870m)。いうまでもないが上り坂だ。馬の脚も重かろう」
「待て、待て」
と、思わず大声を上げた。
「馬鹿なことを言うな。それは策とも、打ち合わせともいえぬぞ」
が、こいつができるというのなら、できるような気がしてくるのも確かである。
何より義久の出番もある。
「存分に働いてください。義久も、あなたに負けぬ働きで応えましょう」
突然、割り込んできた姫が自信ありげに微笑んでいる。
当の本人には何の成算もないというのに。
「四半刻もせぬうちに騒ぎになろう。それを合図に走り出せ」
イダテンは、そう言い捨てると、櫓の端に置いていた背負子を取りに向かった。
姫や義久の言うことなどまったく意に介していない。
まさに唯我独尊だ。
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