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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第六十六話  身分違い

家屋が、うねうねと奥に続いている。


山間の隙間に建てた館と言うこともあるのだろう。


ささらがは立ち止まった。


イダテンの姿を見失ってしまったのだ。


義久の様子が気になり、追うのが遅れたためだ。


月が厚い雲にさえぎられ、あたりが闇に包まれると、突然、足が震えはじめた。


ここに来るまでに、何度も危ない目にあったが、さほど怖ろしいとは思わなかった。


邸が襲われ、多くの命が奪われた。その悲しみで感情が麻痺していたこともあるだろう。


だが、それだけではなかったのだ。かたわらには常にイダテンがいた。


幼き頃より、流罪となった父のために、皆の期待に応えるために、明るい姫を演じてきた。


だが、体が弱く、すぐに熱を出した。


丈夫な体が欲しかった。


口にできぬほど心細かった。


三郎たちが羨ましかった。


義久が行方をくらませてから幾度枕を濡らしたことだろう。


昨夜、夢を見た。


微睡むような、それでいて、それはそれは長い夢。


思い出せるのはわずかばかり。息苦しさに瞼を上げると、仰向けになったわが身が、水底にゆっくりと沈んでいく。


水面から、仄かに光が差し込んでいる――その先にわたしの大事な物がある。手を伸ばすが届かない。


わたしは、まだ夢の続きを見ているのだろうか。


天を覆っていた雲が流れ、月の光が地に降り注いだ。


右手に戸の開け放たれた家屋が浮かび上がる。


それを目にした途端に震えが治まった。


イダテンはここにいるのだと。


近づくと煮炊きしたあとの匂いが漂ってくる。


厨のようだ。


場にそぐわぬような気がしたが、兵たちの食事を作ったのだろう。


誰もいないと聞いていても、月の光の届かぬ場所に踏み込むには勇気を振り絞らねばならなかった。


厨に入ると喉に渇きを覚えた。


興奮し続けたためだろうか顔も火照っている。


暗闇に目が慣れ、甕を見つけ柄杓で水をすくっては見たものの椀が見つからなかった。


叱る者はいないのだから三郎たちのように直接口につけてもよいのだ――そう思ったとたん、三郎の笑顔が浮かび、感情がこみ上げてきた。


袖で目もとを拭おうとして、何かの気配に気がついた。


息もできないほどの衝撃に襲われ、柄杓を取り落とした。


水が飛び散った。


気がついた時には、後ろから抱きしめられ、ごつごつとした手で口を塞がれていた。


    *


口を塞ぎ、喉元に包丁を突きつける。


上等な絹の衣と上品な匂い――どういうわけか毛皮を羽織ってはいたが、これが門番たちが話していた国司の姫君に違いない。


さぞかし怯えていることだろう。


だが、怯えているのは姫君だけではなかった。


喉元に突きつけた包丁も震えていた。


みっともないとは思わなかった。


自分は武士ではない。ただの厨夫なのだから。


話し声につられて外に出たものの、どこぞの武士が門番の首を刎ねたのを見て、あわててここに逃げ込んだのだ。


この館の出口は、ほかにない。後方は絶壁だ。


「命が惜しけりゃ、声を出すんじゃないぞ」


震える包丁が、姫君の市女笠の虫の垂衣を裂いた。


おもわず包丁を取り落としそうになる。顔をも切り裂いたのではないかと思ったのだ。


もとより命を奪うつもりはない。


この姫君が勝手に飛び込んできたのだ。


口を塞ぎ、動けぬように縛って、さっさと逃げ出そう。


門番の首を刎ねた男も同じように動きまわっているのであれば、門は空になっているだろう。


このような恐ろしい目に合うのであれば、何らかの見返りがあってしかるべきだ。


ならばこの姫君から奪うほかあるまい。


まさか、手ぶらということはないだろう。


包丁を、口を塞いでいた左手に持ち替え、その腕を首に回す。


空いた右手で懐を探るその手が一尺以上ある棒状の物に触れた。


引き抜くと錦の袋に入っていた。


姫君があわてたそぶりを見せる。


「……護り刀か」


だが、これは銭に替えにくい。


足元に投げ捨て、もう少し下を探る。


その手が袋に入った筒状の細工物を探り当てた。


興奮に胸が高鳴った。


「金は重いというが……」


    *


恐怖で身がすくんだ、その時――ことっ、という小さな音が聞こえた。


闇の中、わずかに明るさの残る戸口の方向からだ。


男が、あわてて、その音に振り返る。


かつん、という音が耳朶に届いた。


鈍い光を放つ、角のような物が、男の額に生えていた。


その根元から赤いものが一筋、たらりと、こぼれ落ちる。


細身の包丁が突き立っていた。


拘束されていた力が緩み、首を傾げたその体が土間に崩れ落ちる。


戸口から差し込む光を背に、別の男が近づいてくる。


義久だった。


名を呼ぼうとしたが、頭から血の気が引いていき、目の前が暗くなった。



     *


床に置いた灯明皿の揺らぐ灯りの中、姫を抱き上げ、沓をはいたまま奥に進む。


板の間の床は冷え切っていた。


畳があればよいのだろうが、大伯父の館にそのようなものがあるはずもない。


懐かしい匂いがした。香料は、あの時のままだ。


姫を抱き上げる日がこようとは思いもしなかった。


だが、喜びひとつ湧いてこない。


姫を窮地に追いやったのは、誰あろう義久自身である。


万一のことがあれば、地獄の炎で、わが身を幾千回焼こうとも、姫を襲った男に、生まれてきたことを後悔するほどの苦しみを永遠に与え続けようとも、わが魂の傷が癒えることはないだろう。


――それにしても、あの男は一体何者なのだろうか。


門番をしていた男たちが嘘をついたとも思えない。


事実、武士や従者のなりではない。


調理の跡からすれば厨夫とみるべきだろう。


しかし、兵はほしいいを持参しているはずだ。


温かい汁ぐらいは誰でも作れる。


ならば、大伯父の使用人の一人が隠れてやり過ごしていたのだろうか。


奥の部屋に葛籠は転がっていたが衣ひとつ残っていなかった。


押し入った者どもが持ち去ったのだ。


戦となれば略奪が横行し、何ひとつ残らない。


やむを得ず、筵の上に姫を降ろす。


立ち上がろうとして壁に血の跡が残っていることに気がついた。


屍は見当たらなかった。


邪魔にならぬよう谷底にでも打ち捨てたのだろう。


大伯父の無念を思い、腸が煮えくり返った。


息づかいに振り返ると、姫が起き上がろうとしていた。


その肩が震えていた。


「もう、この館に敵はおりませぬ。安心して、しばらく休みなされ」


肩に手をやりたかった。だが、身分を考えればはばかられた。ましてや人を殺めた手だ。


     *


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