第六十三話 物見
丸太を落とすとは聞いていたが、これほどのものとは思わなかった。
誰ひとり生き残ってはおるまい。
事前に聞いていた義久でさえ、危ういところだった。
乗っていた馬が棹立ちになり、振り落とされたのだ。
その馬は下流に向かい、ほかの馬とぶつかり徒歩を巻き添えに谷底に消えた。
あわてて、上流に向かって死に物狂いで走った。
丸太が唸りをあげ、頭上を越えていった。
思い出したかのように落石が起きる。
そのたびに道を塞いでいた岩や丸太が谷底に滑り落ち、轟音と砂煙を上げた。
道は完全に塞がれている。
これなら、後続の追手の足も止めることができるだろう。
馬を捨て置いても、越えられるかどうか怪しいものだ。
イダテンは、二、三人残したいと言っていたが、上出来だろう。
上流側から響く蹄の音に振り返ると、二騎の武者の影が近づいてきた。
ふるえのおさまらない足を叱咤して、あわてて立ち上がる。
宗我部側の物見に違いない。
予想以上の結果に時を忘れ、見入っていたのだ。
おのれの間抜けぶりに腹が立ち、思わず舌打ちした。
もはや、身を隠せる距離ではない。
あわてるなと自分に言い聞かせる。
これほどの崖崩れを、意図して起こしたのではないか、と疑うものなどいるはずがない。
運悪く崖崩れに巻き込まれた伝令が、馬を失い呆然と立ち尽くしている、としか見えぬはずだ。
事実、駆けつけた武者どもも惨状に目を奪われ、義久には、さほどの警戒も見せなかった。
忘れているのではないかと思い始めた頃になって、ようやく、何者だ、と訊いてきた。
「兼親様が郎党、阿部義光」
と、答える。
兼親の名を口にするときはあえて活舌を悪くした。
万一、こやつらが大伯父側の郎党であれば、言い逃れができるようにと。
「おおっ、兼親様の。われらは八百村真衡様が郎党、中村高宜」
「……上田孝蔵じゃ。その怪我は、巻き込まれなさったか?」
やはり、宗我部側の郎党だった。
二人は若い義久にも、ぞんざいな口を利かなかった。
宗我部の縁戚である可能性も考えたのだろう。
命拾いされたのう、と気を使ってきた。
「お願いでございます」
郎党の言葉をさえぎって、大仰に地面に手をつき、頭を下げてみせる。
「主人がこの下に」
「なに? 兼親様が」
二人は、あわてて馬を降りた。
宗我部の次男を見殺しにはできまい。
助けることができれば覚えもめでたくなる。
欲に目がくらみ無防備になった二人の背中に近づき、静かに太刀を抜いた。
谷から吹き上がる風で、義久のほつれ毛が月に向かって泳いだ。
*
待ち合わせていた烏帽子岩の前に義久が姿を現わすと、姫が、ほっとした表情を見せた。
驚いたことに熊の毛皮を羽織っている。
おのれのうかつさに腹が立った。
袿姿ではさぞかし寒かろう。
それに気づくのは、姫の家来たる義久でなければならなかった。
たとえ、母や弟が殺されたと知った直後であろうともだ。
「馬で、様子を見に来たものがおりましてな」
平静を装って遅れた言い訳をする。
二人目が意外に早く異変に気づき、何度か太刀を振るうことになった。
それに脅え、馬が暴れはじめた。
繋いであるのは岩の隙間に根を張った貧相な木である。
馬だけ帰れば不審に思われよう。結局、二頭とも始末した。
「けがはありませんか?」
声を掛けられたものの、姫の目を直視することが出来ない。
こたびも敵を背後から襲ったからだ。
衣が、先ほどより血に濡れていることに気づかれねば良いが。
「山賊にも怖れられた男ですぞ」
かすり傷ひとつ負っておりません、と空を見上げ、呵々と笑ってみせる。
だが、イダテンには、よい顔を見せるつもりはない。
姫がいなければ殴りつけているところだ。
「なんとも危ういところであったぞ。頭上を丸太がうなりをあげて飛んでいったわ」
睨みつけても平然と返してきた。
「足に自信はあるか、と聞いたではないか」
「わしを巻き込こんでもかまわぬという頃合いだったではないか。なにが、顔は広いのか、じゃ……おまえの口車には二度と乗らんからな」
「次は走る必要はない」
イダテンは、話しは済んだ、とばかりに背負子を担いだ。
「なんじゃ、その、言い草は」
とは言ったものの、イダテンの立てた策で、道が塞がり、追手の足を止めることができたのは確かだ。
兼親の待ち伏せも無傷で突破した。
態度も物言いも気に入らなかった。
だが、文句を言いながらも、結局、こやつの言うとおりに動くことになるのだろう――そう思っているおのれ自身が、もっと気に入らなかった。
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