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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第六十一話  裏切り者

長さにして約十間。


その竹竿の先を谷の手前の斜面の岩場の窪みに置いて上からぐいぐいと押し、慎重に場所を探った。


足の先を掛けるための場所は上部の節の上を少し切り取って作った。


竹竿は一本だけだ。


「おい、待て!」


その様子を見て、義久があわてて竹竿を掴んできた。


ようやく、なにに使うかに気づいたようだ。


「これは竹馬とは呼ばぬぞ。谷の底までどれだけあると思っておるのじゃ。上流ほどではないにしろ、このあたりでも七丈はあろう。そもそも、このようなもので姫様を対岸に……」


長口上をさえぎって、


「怖いのか」と、問うと、


「馬鹿を言うな」


と、姫の目を気にしたようにイダテンに詰め寄ってきた。


さらには、


「葛橋を渡ればよいではないか」と、意見を変えた。


何やら目が泳いでいる。


「あの橋を、か?」


と、訊き返すと、舌打ちをして竹竿から手を離した。


義久に背中に乗るように指図した。こちらの道の方が低いからだ。


義久は眉根を寄せながらもイダテンの肩に足を乗せ、竹竿の先端を掴んだ。


ほかに方法がないことはわかっているのだ。


不安になるのもわからぬではない。


竹竿もここまで長いと大きくたわむ。竹竿を握ったまま左足を節の上の切り込みに置くその足は震えていた。


「待て。実は、わしは高いところは……」


「口を閉じねば舌をかむぞ。しっかり捕まっておれ」


イダテンが押すと、義久を乗せた竹竿がしなり、狙い通り向こう岸を目指して移動を始めた。


だが、義久の体は峡谷の中ほどを過ぎると竹竿の軸を中心にぐるりと回った。


「……!」


義久の顔から血の気が引いた。


姫は、袖口で口を押え、上げそうになる声をこらえた。


対岸の道がこちらの道よりも高い位置にあったため、義久が背中から崖に叩きつけられたように見えたのだろう。


が、それは織りこみずみだ。


崖に茂っていた灌木が義久を受け止めていた。


這い上がろうとする義久だったが、背負っていた兼親の大太刀が、灌木にからまり身動きが取れなくなっている。


それでも大太刀を捨てようという気配はない。


手間取りながらも義久が道にあがると、


「なんだか、すっとしました……家族までたばかって行方をくらましたのですよ」


姫は、安堵のため息をつきながらも強がった。


「あれほど、あわてている義久を見たのは初めてです……そういえば、木には登っておりましたが、高いところにいたのは見たことがありません」


その義久が、またもあわてている。竹竿が見当たらなかったからだろう。


道によじ登っているさなかに蹴飛ばして谷に落としたことに気づいていないようだ。


竿は一本しか作っていない。この後、イダテンが使うと思ったのだろう。


イダテンは、葛橋のある川下を指差し、そこで待つよう示した。


義久は納得がいかない様子だったが、姫が同じ方向に袖を向けると、ようやく動き出した。


見張りの役割に加え、馬の調達を命じられたと思ったのだろう。


その姫は、イダテンに向き直ると首を傾げて微笑んだ。


「わたし達は、どうやって渡るのですか?」


「背負子に乗れ。木に縄をかける」


丈夫そうな檜の枝が向こう岸から張り出している。


「ならば、義久も同じように……」


そこまで口にして、イダテンの考えに気がついたようだ。


「義久を信用していなかったのですね」


答えるまでもない。


理由はあるにせよ、主人を裏切り、その命まで奪った男である。


しかも、正面から挑んだわけでもない。そのような男に隙を見せるべきではない。


義久が、その気になれば裏切るのは簡単だ。向こう岸にはイダテンが倒した武士の弓と矢が転がっている。


姫を背負って谷を渡ろうとすれば両手が塞がる。それをめがけて矢を放てばよいのだ。


イダテンに背負われるふりをして首を搔くこともできる。


たったそれだけで出世が手に入る。


追われることもなくなる。


義久の裏切りを知るものは、この世からいなくなるのだから。


馬や太刀に執着を示す者が信用できようか。


今はともかく追いつめられた時にはどう転ぶかわからない。


「……おまえは人を信用し過ぎる」


少しは学べ――そうでなければ、命はいくつあってもたりない。


その言葉に、姫は哀しそうに眉を下げ、濡れた漆黒の瞳でイダテンを見つめてきた。


    *


死を待つばかりに見えた狼が、よろよろと立ちあがった。


焦点の定まらぬ目で、あたりの様子をうかがった。


血に染まり、動かなくなった連れ合いの姿を視界にとらえると、ふらつきながらそばに寄り鼻づらを合わせた。


そして、おぼつかない足取りで歩き始めた。


     *


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