第五十七話 鷲尾小太郎義久
あたりにころがる骸と血の匂いに顔をそむけている姫と背負子を岩の上に残し、若者に近づいた。
若者は、かたわらにあった岩に崩れるように腰を下ろした。
歳は十六、七というところだろうか。
整った顔立ちではあったが、言葉を発したあとに左の口端をあげて見せる様子はいかにも癖がありそうだった。
左頬にある比較的新しい刀傷がそう見せるのだろうか。
若者に目をやった姫が、
「義久……?」
と、声をかけた。
若者は、悪さを見つけられた悪童のように、しぶしぶと立ち上がり、小さく頭を垂れた。
行方をくらましたという三郎の兄だろう。
目元が三郎によく似ていた。
「ご無事で何より……合わす顔がござりませぬ」
「どうしてここに?」
「名を偽り、兼親のもとに潜り込んでおったのです」
姫は、一瞬喜色を浮かべたものの、
「あなたの……」
と、言葉をつまらせた。
「邸の様子はわかっております。伝令が参りましたでな」
義久も、姫にそれを口にさせたくなかったのだろう。
唇を噛み、それよりも、と続けた。
「海田を出たときは、交渉の場の警護と聞いておりました。兼親のそばに居りながら、こたびの企てひとつ見抜けず……」
「義久の落ち度ではありません」
姫の言葉にかぶせるように義久は強い口調で続けた。
「主人を守れぬ者に、武士を名乗る資格などありましょうや……が、この命に代えましても姫様を無事、隆家様のもとにお届けしますゆえ、なにとぞ、この義久に、その機会を……」
義久の腕は震えていた。
頭を垂れ、この話はこれまで、とばかりに拳に力を込め、姫の視線から逃げるようにイダテンに向き直った。
怒っているのだ。
主人を守れなかった老臣や三郎に。
なにより、自分の無力さに。
「おまえがイダテンだな……よくぞ姫様を助け出してくれた。礼を言わねばならんの……おまえの言葉がなければ、わしも、無念を抱えたまま、ここで骸をさらしておったであろう」
言葉とは裏腹に、イダテンを値踏みするように見つめてきた。
「それにしても、えらく落ち着いておったではないか。狼という切り札を持っていたからか?」
「それもある」
「待ち伏せにも気づいておったか?」
「いかにも橋を渡れと言っているようであったからな」
二度も同じ手には乗らぬ。
「食えぬやつじゃ」
と、義久は眉をひそめた。
「もっとも、それぐらいでなければ、ここに立ってはおらぬだろうが……改めて礼を言うぞ」
先ほどまでとは打って変わって親しみを感じさせる笑顔を見せた。
三郎の兄だと確信した。
「礼などいらぬ」
――礼を言われる資格などない。
三郎も、ミコも、ヨシも、老臣も死なせてしまった。
三郎が、わが身を盾にしても守らねばならぬ、と言っていた国司をも。
加えて目の前には、前足を断たれ、腹にも傷を負い、血にまみれている帳の姿があった。
死ぬこともできず、舌を出して苦しそうにあえいでいる。
おそらく、その瞳には何も映っていないだろう。
だが、イダテンの気配を察したかのようにぴくりと動いた。
楽にしてくれとでもいうように。
イダテンは、姫に背を向け、右膝をつくと老狼の首に狙いを定め、手斧を落とした。
骨を絶つ鈍い音が、冷たい空気を震わせた。
姫は気丈にも、
「何を……」
と、言葉を発した。
イダテンは背を向けたまま答えた。
「苦しまぬようにしてやったのだ……仲間の仇が討てて満足しておろう」
流れ出る血が、枯れ草や落ち葉を見るまに染めあげていく。
そう――助かる見込みがないのであれば、早く楽にしてやらねばならない。
それがたとえ、人間であったとしても。
わかっている、とでもいうように義久が声をかけてきた。
「兼親が、このあたりに棲む狼を皆殺しにしたと自慢しておったが……生き残りがおったのだな?」
「死にかけておった」
「獣と言えど助けられれば恩にきるか?」
「狼は誇り高い」
とはいえ、最近では、餌を自分たちで狩ることが難しくなっていた。
「しかし、笛のようなもので呼んだであろう。大気が震えておったぞ」
「家にあった」
「おお、おまえの父か。そのような才もあったのか」
義久は傷を負って動けない、もう一匹に目をやった。
喉元の毛が白く、先ほどの狼に比べ、体が大きい。雪牙だった。
こやつも殺すのか、という表情でイダテンを見る。
イダテンは答えなかった。
たとえ命をとりとめても歩くことさえできぬだろう。
餌を獲れねばいずれ死ぬ。
だが、それを口にしてなんになろう。
震えながらも立ち上がろうとあがく雪牙の背を、もうよいのだと撫でてやる。
二人に見えぬように腰に下げた袋から痛み止めの丸薬を取り出し、一粒を自分の口に、もう一粒を雪牙の口の奥に押し込んだ。
止めを刺してやるべきだ、とわかっていた。
だが、決断できなかった。
人と交わる前には考えられないことだった。
迷いは命取りになる。
そう学んでいたにもかかわらず。
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