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『ちはやぶる』  作者: 八神 真哉
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第五十五話  願いの玉

足元が大きく揺れる。


天神川にかかる長さ八間ほどの葛橋にイダテンは立っていた。


これまで進んできた峡谷沿いの道の先に篝火が見えたため、二十間ほど引き返し、対岸を目指すことにしたのだ。


馬の渡れる橋ではない。吉次を乗せてきた馬は対岸の木に繋いだ。


両手首を前で縛られた吉次は、葛に手を伸ばし、おずおずと進んでいる。


背負われている姫は、葛で吊られた橋を渡ったことなどないだろう。


橋床も、さな木と呼ばれる割木を荒く編んだだけだ。


水音は聞こえてくるが幸いなことに谷底は見えない。


橋を渡り終えるまでは安心できない。


いつでも手斧を飛ばせるようにと、慎重に様子をうかがいながら先に進む。


渡っている最中に橋を落とされたり、矢で狙われないためだ。


この男は、このような場合に備えて連れてきたのだ。


仲間であれば、その二つはやるまい。


もっとも、この男にそれだけの価値があればだが。


無事、橋を渡って半町ほど峡谷沿いに進むと、右手に岩の転がる荒地があった。


奥には銀杏や欅の大木がある。


中ほどまで進んだところで、吉次が驚いたように立ち止まった。


奥の草地から、わらわらと人が現れた。


姫が息を飲んだ。


全部で十人。ゆっくりと囲みを作る。


イダテンは、谷を背にしつつ、誰がどのような得物を持っているかを頭に叩き込んだ。


髭面の偉丈夫、兼親の姿もあった。


兼親だけが、得物を手にしていない。


矛が六人、太刀が三人。


接近戦を想定してか、弓を手にした者はいない。


だれひとり重い鎧はつけていなかった。


音を立てないようにという配慮だけではあるまい。


これまでに幾度もイダテンの命を狙ってきた兼親であれば、その俊敏さを承知のはずだ。


にもかかわらず表情に余裕があるのはイダテンが姫を背負っているからだろう。


「うまくかかってくれたのう」


篝火を見て、道を変えたことを言っているのだろう。


満足そうに髭に手をやり、笑う兼親に、吉次が駆け寄った。


郎党が前に出て口に詰められた端切れを取ってやると、咳きこみながらも喜び勇んで喋りだした。


「兼親様。わしの手柄じゃ。ほれ、この通り……約定どおり、褒美をたっぷりと」


兼親の眉間にしわが寄る。


「恥ずかしげもなく、抜けぬけと……おなごを騙すだけしかできぬ、この、ろくでなしが」


 兼親の怒りの激しさに吉次の顔に脅えが走った。


「おまけに、すぐに捨てろと指示した毒を決行の日に使う間抜けぶり。ゆえに気取られ、こうして逃げられる……兄者の筋書きが台無しになるところじゃったわ」


 やはり、間諜は幾人もいたようだ。


「つこうたわけではありませんぞ。隠しておいた物を、猫が勝手になめたまで……そもそも、決行日が今日だと言うことさえ知らされなんだのですぞ。狼煙に気づかねば今頃は……」


「金の無心はするわ、繋ぎも忘れるわ……わしが、そのような役立たずに教えてやるような人の好い男に見えるか?」


兼親が、自分ごと葬り去るつもりだったと知り、吉次は顔をひきつらせた。


にもかかわらず、凝りるでもなく要求した。


「ならば、せめて姫君やイダテンの身に着けている物をくだされ。こうして連れて来たのですぞ」


兼親のぎょろりとした目が冷たく光り、吉次の手首に注がれた。


いや、これは、と口ごもる吉次の目の前に兼親が、ぬっと進み出る。


身の危険を感じ、あとずさろうとした吉次が、尻から草むらに落ちた。


郎党の一人が、銀装の大太刀の鯉口を切り、鞘を持って捧げると兼親が柄を握った。


その首から肩にかけての筋肉が異様に盛り上がる。


馬上から馬を駆る勢いで相手を倒すための大太刀である。


長く重いその太刀を地上で使う者は珍しい。


兼親は、大太刀を鞘走らせ、イダテンに襲いかかってきた。


月光を浴び、青白く輝く刃が空気を切り裂いた。


仁王のような胸と丸太のような腕から繰り出される、その音も尋常ではない。


体を反らせてぎりぎりで避けた。


太刀が長いうえ、兼親の腕も長い。


その首から下げた大数珠が揺れ、音をたてる。


兼親は、くやしそうなそぶりも見せず、にやりと笑う。


「つまらぬ戦と思うておったが、おまえの首を獲れるなら重畳というものよ」


と、言いながら郎党に指示する。


「通清の縄を切ってやれ」


それが吉次の本当の名前らしい。


縄を切られ手首をさする通清に、


「通清、イダテンに一太刀浴びせよ。それで帳消しにしてやろう」


兼親は、そういいながら後ろに下がる。


郎党の一人から抜身の太刀を渡された通清の目線が泳ぐ。


人を殺すことが怖いのではあるまい。


イダテンの力を身を持って知っているからだ。


兼親が、ためらう通清の背を蹴った。


イダテンの前に押し出された通清は、悲鳴をあげながら太刀を振り回した。


イダテンが左に避けるのを待っていたかのように後方の兼親が渾身の力を振り絞り、襲い掛かってきた。


躱しはしたものの、岩が転がる足場の悪い草地に追い込まれた。


切り殺そうとは思っていないようだ。


かち割ってでも致命傷を負わせればよいと考えているのだろう。


「姫君を背負ってなお、そこまで動けるか……手練れの者どもが苦労するわけよ」


やはり、宗我部の手の者だったのだ。


「とうに承知という顔じゃな。おお、わしも後悔しておるぞ。不意打ち、寝込み、いろいろとやってきたが、これは戦で言えば常道のうちじゃ。おまえが成長するまでに、なんとしても始末すべきであった……あの時、おまえのばばを質に取っておればと後悔しておるところよ」


思っていた通りだ。


おばばは、山賊に襲われたと言っていたが、山賊はイダテンの弓の腕を恐れ、水分峡から、とうに姿を消していた。


追われて崖から落ち、怪我を負ったおばばは寝たきりとなり、食も細くなった。


その後、あちこちの寺社に忍び込み、書物をあさって薬草や滋養のある食物の知識を手に入れようとした。


むろん、おばばには黙っていた。


危険極まりない行為だからだ。


忍び込むことは言うまでもなく、薬効の定かでないものを試してみることも。


やがて、目は窪み、骨と皮になり、あばらが浮きだし、地獄絵の餓鬼のような姿になった。  


それでも、おばばは手を合わせ、数珠を掲げ、感謝を口にした。


こうして生きていられるのも神仏のおかげだと。


明日をも知れぬ貧困と不幸は、信仰に拍車をかける。


坊主や宮司どもは、その信仰心を煽り、おのれの私腹を肥やす。


それでも、母が巫女をしていたという多祁理宮に足を運んだ。


かつて多祁理宮は、都にまで名を轟かせた母の力の恩恵で莫大な寄進を受けたという。


ならば母ほどの呪術者がいなくとも、誰ぞの紹介ぐらいはしてくれるのではないかと。


逃げ腰に見えた宮司は、イダテンの差し出した父の形見の勾玉を見ると、その糸のように細い目を見開いた。


「それはもしや、願いの玉か」


イダテンがうなずくと、黙りこんだ。


近頃は加持祈祷も寺の坊主や山伏に奪われていると聞く。


「治してくれるなら、これを譲ろう」


願いの玉は、龍神がイダテンの父に礼として与えたものだ。


使うには覚悟がいるが、使うつもりなどないだろう。


これがあるというだけで、神社の名は高まり、寄進も増える。


「格別に、これ以上はないという厄除祈念をしてやるゆえ、それを置いて参れ」


予測した通りの答えが返ってきた。


「山の奥までは、足を運べぬと言うか」


「神の加護があれば、どこでも同じじゃ」


言外に失敗するかも知れぬと言っている。


イダテンを憎む宗我部兄弟の反応や祈祷が失敗したときの報復を恐れているのだ。


こういうやつは常に逃げまわる。


しくじれば百姓たちに打ち殺されかねない雨乞いからも。


力がないなら、できぬと言えばよい。


寺の坊主も山伏も同じ反応を見せた。


道を説きながら、言葉とは裏腹に世を渡る、俗世の欲にまみれた者どもに人が救えようか。


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